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第四章 浪花節を居留地で

 おやつ時も過ぎた頃、駄菓子を買ったりおもちゃを買ったりと賑やかだった近所の子供達が店の前から他の場所へと遊びに行ってしまい、静かな時間が訪れていた。子供達の賑やかな声がないのは少し寂しいなと思いながら、倫子は小さな釜で湧かしたお湯でお茶を淹れ、ゆっくりと一息ついていた。

 子供達の相手は大変といえば大変だけれども、それでも人懐っこく倫子のことを慕ってくれる子供達を構うのは楽しいし、倫子としても店をがんばろうと元気をもらえるのだ。

 あの子達も、また明日のおやつ時、学校が終わった後に来るだろうなと少し待ち遠しく思いながらお茶を飲んでいると、入り口のガラス戸を叩く音がした。

「おーい倫子さん、元気してるか!」

 突然聞こえてきた元気な声に思わず驚いて入り口を見ると、そこには牡丹色のふわふわの髪を少し伸ばし気味にした着物姿の男と、菖蒲色の髪を短く整えている洋服姿の男が立っていた。

 そのふたりに、倫子はにっこりと笑って声を掛ける。

「ふたりともいらっしゃい。どうぞ中に入って」

「おう、おじゃましまーす」

 着物姿の男が先に入ってきて、洋服を着た男が後に続く。洋服姿の男も、中に入ってから軽く会釈をした。

 店内をぐるりと見回したあと、舶来品を見ている着物姿の男に、倫子が声を掛ける。

「あら、緑丸さんが筆じゃなくて舶来品を見るなんて珍しい」

「ん? そう?」

「そうよ。いつもここに来ると筆ばかり見るじゃない」

 倫子の言葉に、緑丸と呼ばれた着物姿の男がいつも通りに筆が並んでいる文房具の棚に向き直って筆を手に取る。

「まぁ、筆も欲しいには欲しいんだよ。前に使ってたのがすり減っちゃったからさ」

 そう言って、緑丸はいつも使っているものと同じ筆を手に取り倫子に渡す。

「はい、まいどあり」

 倫子は手早く勘定を済ませて筆を緑丸に渡す。それから、改めてこう訊ねた。

「でも、恵次郎さんがいるってことはただ筆を買いに来たんじゃないでしょう?」

 ちらりと倫子が恵次郎と呼ばれた洋服姿の男に目をやると、なにやら渋い顔をしている。

 なにがあったのだろうと倫子が思っていると、緑丸が自慢げに口を開く。

「今日は居留地の異人から依頼があって、異人達の前で浪花節を披露してきたんだよ」

 それを聞いて倫子は納得する。緑丸の弟の恵次郎は、居留地に出入りして通訳をしているからだ。

 異人が浪花節を聴きたがるという話は今までに聞いたことがなかったけれども、浪花節は横浜に住む日本人の間でも人気の芸能だ。日本になにかしらの興味を持ってやって来ている異人なら、聴いてみたいと思うものなのだろう。

「異人さんに聴かせるなら、やっぱり緑丸さんみたいな真打ちでないといけないものね。

異人さん達、緑丸さんがうまく唸るから驚いたんじゃない?」

 きっと異人達にも好評だっただろうと思った倫子がそう言うと、恵次郎が不満そうな声でこう答えた。

「真打ちで横浜一人気のある兄さんをよんでおいて、異人達は不満ばっかりだ。そんながなり声が歌なのかとか言って」

「あら、そうなのね……」

 たしかに、浪花節は普通の歌と違って唸る部分もあるし語る部分もある。もしかしたら異人はそういったものに馴染みがないのかもしれない。

 けれども。と倫子はもう一度緑丸の方を見る。渋い顔をしている恵次郎とは対照的に、上機嫌な顔をしている。

「恵次郎さんはああ言ってるけど、緑丸さんは異人さんに悪く言われて怒らないの?」

 倫子がそう訊ねると、緑丸はにっと笑ってこう答える。

「まぁ、恵次郎からあんなこと言ってる異人がいたってあとで聞いたらむかっ腹も立ったけどさ。でも、ひとりだけすごく喜んでくれた異人がいたんだよ」

「あら、そうなの?」

 他の異人からの反応がかんばしくなかったにもかかわらず、ここまで緑丸が上機嫌になるほど、その異人は喜んでいたのだろう。そのことは倫子にも容易に想像が付いた。

 緑丸は嬉しそうな顔で言葉を続ける。

「その異人はさ、みんな座って聴いてたなかで、歌い終わったあとに立ち上がって手を叩いて、にっこにこしてやいやい言ってさ。なんて言ってるのかって恵次郎に聞いたら、すばらしいって何度も言ってたって」

 それを聞いていた恵次郎が、その時のことを思いだしたのだろう、少しだけ表情を緩ませて言う。

「まぁ、あの異人は居留地の中でも変わり者って評判のやつなんだ。兄さんの浪花節を気に入るくらいだから、見る目はあるんだろうな」

 異人の中にも変わった人がいるものなのかと倫子はなんとなく不思議に思う。倫子からすれば、異人はみんな変わっているように見えるからだ。でも、受け入れてくれる人がいるのはいいことだ。

「でも、浪花節を気に入ってくれた人がいて良かったじゃない。また今度聴かせに行く予定とかあるの?」

 倫子がそう訊ねると、緑丸はにこにこしながら、すこし興奮気味に答える。

「今度その異人の家に行って、そこでじっくり浪花節を聴かせることになったんだ」

「そうなのね。その感じだと、楽しみなんじゃない?」

「ああ、すげぇ楽しみ」

 今すぐにでもその異人の家に行きたいといったようすの緑丸の後ろに立っている恵次郎に目をやり、倫子が訊ねる。

「その時は恵次郎さんも行くのよね?」

 その問いに、恵次郎は少しだけ微笑む。

「うん、通訳をしないといけないし、それに」

「それに?」

「万が一いざこざがあったときに兄さんが暴れないように見張らないと」

「ああ、うん、それはそう」

 緑丸は普段穏やかそうに見えるけれども、その実けんかっ早い。そのことを知っている倫子は、先程聞いた異人達の浪花節への反応を思い出すと、緑丸がいきなり異人とけんかしはじめてもおかしくはないなと思ってしまうのだ。

 それにしても。と倫子は緑丸の方を向く。

「でも緑丸さん、異人さんの前で浪花節をやろうなんて、たいした度胸じゃない」

 倫子の言葉を聞いて、緑丸は意外そうな顔をする。

「え? 俺そんな度胸無いように見える?」

 すると、緑丸の後ろから恵次郎が口を挟む。

「兄さんはけんかっ早い割にはびびりだからな」

 自分がびびりだという自覚はあるのだろう、緑丸は笑顔のまま一瞬黙る。少しの間店内が静かになって、それから緑丸が胸を張ってこう言った。

「俺だってやるときはやるさ。

浪花節で日本の底力を異人に見せるいい機会だったんだしさ」

 すこしだけ誤魔化している感もあるその言葉に、倫子はくすくすと笑う。

「あらあら、さすが緑丸さん頼もしい」

 そんなやりとりをしていると、気がつけば恵次郎が舶来品を置いている棚の側に行っていて、棚の上をじっと見ていた。それを見つけた倫子は恵次郎に声を掛ける。

「なにか気になった物があったら、手に取って見てみて」

「ああ、お言葉に甘えて」

 恵次郎は早速、螺子の付いた小さな箱を手に取って螺子を巻く。すると、その箱は甲高い音で歌い始めた。

 それを聞いて、緑丸が驚いたような声を上げる。

「なんだなんだその箱は! 中にちっさい三味線でも入ってるのか?」

 緑丸の言葉に、恵次郎は肩を振るわせている。けれども、緑丸の疑問はたしかにわかると倫子は簡単に説明する。

「あの箱はオルゴールっていって、中に細く切った金属の板と、それを弾く爪の付いた回るものが入ってるのよ。

金属の板を爪が決まった順番に弾いて、ああいう風に歌うの」

 すると、緑丸は感心しきりといったようすで溜息をつく。

「はぁ~、異人もこんなの作るくらい、歌が好きなんだな」

 しばらく緑丸も恵次郎もオルゴールの音に聴き入り、緑丸が頷いて言う。

「外国の曲も良いよな」

 それを聞いた倫子が訊ねる。

「緑丸さん、外国に興味があるの?」

 すると緑丸は少し考え込んでから、困ったように笑ってこう言った。

「わからない」

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