第三十七章 仲睦まじく
年が明けてしばらく、新鮮な気持ちがいまだ薄れないある日のこと。この日もいつものように店を開けて、暖をとろうと早速七輪の炭に火を入れていた。
子供達の冬休みも終わったし、朝は静かなものだ。お客さんが来るまで、しばし店の奥でぼんやりする。そうしていると、早速入り口のガラス戸を叩く音がした。
「ごめんください」
「はい、開いてますよ」
かかった言葉にすぐさまに返事をすると、ガラス戸を開けて入ってきたのは夏彦と、見慣れた着物姿の愛子だった。
いささかもじもじしたようすのふたりを、倫子はにこにこしながら見つめる。
「倫子さん、実は、ご報告が遅れていたのですが」
夏彦が固い声で口を開く。
「実は先日、私と愛子さんの結婚式を挙げたんです。
倫子さんにはお世話になっているのに、ご報告が遅れて申し訳ないです」
その言葉に、倫子はくすくすと笑って返す。
「やっぱり、ふたりとももう結婚式を挙げてたんですね」
倫子の言葉に、夏彦は恐縮して言う。
「もしかして、ご存じだったんですか?」
申し訳なさそうにする夏彦に、倫子は説明する。
「よくここに来る子供達から聞いたんです。教会でお祭りがあったって。
光喜君からも夏彦さんからタキシードとドレスのお洗濯の依頼が来たって聞いてたから、ああ、教会で結婚式をやったんだなって」
「その通りです……」
顔を赤くして、夏彦と愛子が目配せをする。それから、愛子が照れたようすで口を開いた。
「それで、結婚式を挙げた後の日曜日に、早速夏彦さんの教会で配るクッキーを焼いたんです」
「あら、クッキーを?」
「はい。夏彦さんの知り合いの、宣教師の奥さんに作り方を聞いて」
そう言いながら、愛子は夏彦と手を繋ぐ。夏彦はその手をぎゅっと握って、にこりと笑う。
「そうなんです。以前から教会に遊びに来てくれる子供達になにか振る舞いたいと思っていたのですが、私ひとりだとなにもできず。
早速愛子さんがクッキーを焼くと言ってくれて嬉しかったです」
「そうなのね。子供達もよろこんでたでしょう」
「そうですね。はじめてクッキーを食べる子もいたみたいなので」
光喜達から話を聞いたときにもしやとは思っていたけれども、やはり光喜達が食べたクッキーは愛子が焼いたものだったようだ。
倫子が納得していると、夏彦がさらに話を続ける。
「愛子さんは、早速教会の仕事も手伝ってくれて、とても助かっています」
「まあ、それは嬉しいですね」
「その、はい、嬉しいです」
照れたように笑って、夏彦は愛子の手をぎゅっと握り、愛子の方を見る。愛子も照れたように笑った。
そんなふたりのようすを見て、倫子はにっと笑う。
「夏彦さんも、愛子さんに助けられてばかりじゃなくて、なにかしてあげないとだめですよ?」
「ええ、もちろんです。私も、愛子さんのためにできることはやりたいです」
そのやりとりを聞いていた愛子が、にこりと笑って倫子に言う。
「実はこの前、夏彦さんと一緒に新山手劇場に行ったんです」
嬉しそうなそのようすに、倫子は微笑む。
「新山手劇場ですか? お芝居かしら?」
その問いに、愛子は軽く頭を振ってから返す。
「お芝居ではないんです。合唱団の演奏があるって聞いた夏彦さんが、一緒に行こうって誘ってくれたんです」
「合唱の演奏だったのね」
たしかに、言われてみれば新山手劇場ではお芝居以外にも音楽の演奏も行われることがある。愛子はお芝居が観たかったのではないかと思いながら、倫子は話を聞く。
愛子は、さらに話を続ける。
「はい。最初誘われたとき、お芝居は苦手なのでお芝居だったらどうしようって思ったんですけど、合唱って聞いて安心して行けたし、合唱もすばらしくて、とても楽しめました」
それを聞いて、倫子は少しだけ驚く。
「えっ? 愛子さんお芝居が苦手なの?」
「そうなんです。よく、意外がられるんですけど」
「そうね、まさかお芝居が苦手な人がいるなんて思わなかったもの」
世の中には色々な人がいるものだと倫子が感心していると、夏彦が愛子のことをじっと見たまま言う。
「実は、愛子さんがお芝居が苦手というのを、恵次郎さんと緑丸さんから聞いていたんです。
だから、音楽だったら愛子さんも一緒に楽しめるかと思って」
「なるほど。夏彦さんも、ちゃんと愛子さんを気遣ってるのね」
納得したように倫子は頷き、それから、夏彦にこう訊ねる。
「それにしても、愛子さんのことを相談できるほど、緑丸さんと恵次郎さんと打ち解けたんですか?」
その問いに、夏彦は少し困ったように笑う。
「恵次郎さんとは以前からの仲ですが、そうですね。愛子さんのためになにかしたいという相談は、喜んで受けてくれるようになりました。ただ」
「ただ?」
「まだちょっとこわいですね」
「ふふふ、あのふたりもまだまだ妹が可愛いから」
夏彦の言葉に、倫子は緑丸と恵次郎の、愛子への溺愛振りを思い出して思わず笑ってしまう。それでも、夏彦も愛子の家に馴染めているようでよかったとも思う。
ふと、愛子が倫子に訊ねる。
「倫子さんは、新山手劇場に行ったこと、ありますか?」
その質問に、倫子はにっこりと笑って返す。
「ええ、私もたまに行くわよ。
私が行くときは、大体お芝居を見に行くんだけれども」
「倫子さんはお芝居が好きなんですね」
「そうなの。私はお芝居を観てるとわくわくするのよ」
不思議そうな目で見てくる愛子に、倫子はさらに言葉を続ける。
「でも、私も愛子さんみたいに合唱とか、音楽の演奏を聴きに行っても良いかもね。
それはそれで楽しそうだから、機会があったら行きたいかも」
「うふふ、機会があったら、ぜひ」
自分が観てきたものに興味を持ってもらえたのが嬉しいのか、愛子が嬉しそうに笑う。
ふと、愛子を見ていて思ったことを倫子が訊ねる。
「そういえば、愛子さんは今でも前みたいにいつも着物なのかしら?
それとも、結構洋服も着るの?」
その質問に、愛子はおっとりと答える。
「そうですね、教会のお仕事を手伝っているときは洋服を着てますけれど、普段はもっぱら着物です。やっぱり、慣れているので」
「やっぱりそうよねぇ」
思わず倫子が頷くと、愛子は照れたようすを見せてこう続ける。
「それに、夏彦さんが着物も素敵だっていうから、着物もやめられなくて」
それを聞いて、倫子は思わず笑ってしまう。
「あら、うふふ、そうなのね。
夏彦さんったらあいかわらず愛子さんのことが大好きなのね」
すると夏彦が両手で愛子の手を握って、勢いのある声で言う。
「愛子さん、着物ももちろん素敵ですけど、洋服姿も素敵ですよ」
それを聞いて真っ赤になった愛子が、少し意地悪そうに夏彦に訊ねる。
「それなら、夏彦さんは着物と洋服、私が着るならどっちが良いと思います?」
その言葉を聞いて、夏彦はおろおろと倫子の方と愛子の間で視線をさまよわせて言う。
「それはその、私には選べないです……どちらもほんとうに素敵なので……」
そのようすを見て、倫子は安心する。夏彦はこれだけ愛子のことを好いていて、大切にしているのだ。婚約の時にごねたという緑丸と恵次郎も、文句はないだろう。
それに、義両親の話が出ないけれども、話を出す必要もないほど上手くやれているから、話さないのだろうなと倫子は思う。
だいぶ前に愛子から恋文を送りたいという話を聞いたあの日からだいぶ経って、今では仲睦まじい夫婦だ。このふたりが、いつまでも幸せに暮らせたら良いなと、倫子は心から思った。




