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第三十三章 そこはかとない不安

 微かに残暑のある穏やかな昼下がり。お弁当も食べ終わり、倫子はいつも通りぼんやりと店の奥で座っていた。

 夏休みもとうに終わって、子供達は今日も学校だ。この店が賑やかになるまではまだしばらく時間がある。

 子供達が来る前にも、お客さんが来てくれて構わないのだけれど。倫子がそう思っていると、丁度入り口のガラス戸を叩く音が聞こえた。

「倫子さん、いるか?」

 その声に、倫子はすぐに返事をする。

「いますよ。どうぞ中へ」

 すぐにガラス戸が開く音がして、入ってきたのは恵次郎だった。

 倫子はすぐに恵次郎の後ろを見る。緑丸かバイオレットかのどちらかがいないかどうか確認したのだ。けれども、今日は恵次郎ひとりで来ているようだった。

「恵次郎さん、今日はおひとりですか?」

「そうなんだ」

 そんなにひとりで来ることが意外なのかといったようすの恵次郎に、倫子はさらに訊ねる。

「緑丸さんはお元気?」

 倫子の問いに、恵次郎は斜め上を見てこう答える。

「兄さんはここしばらく寄席で忙しくてな。

もうひと月は予定が埋まっているんだ」

「あら、そんなに忙しいんですね」

 緑丸が浪花節で人気の真打ちだというのは倫子も知っているけれども、ひと月も予定が埋まるほど忙しくなるというのは余程のことだ。

 そうなると。と倫子は思う。

「そんなに忙しいと、最近はバイオレットさんのところには行ってないんでしょうか」

 その言葉を聞いて、恵次郎は少しだけむっとした表情になる。

 あんなに仲が良いのになにかあったのだろうか。少し心配になった倫子は、恵次郎に言う。

「そんなにむっとして。もしかして、恵次郎さんはバイオレットさんの所に行くのがほんとうは嫌なんですか?」

 すると、恵次郎は頭を振ってこう返す。

「嫌なわけではないんだ」

「そうなの?」

「バイオレットは僕達に良くしてくれるし、僕の通訳にも、兄さんの浪花節にも金払いが良い。取引相手としては上々だ」

 恵次郎のバイオレットに対する評価は悪くないようだ。けれども、バイオレットの名前を出して不機嫌そうな顔をした理由はどこかにあるはずだ。

「なら、なにが不満なんですか?」

 倫子のその言葉に、恵次郎は少し俯いて言う。

「兄さんが、近頃バイオレットに夢中になりすぎてる気がするんだ」

「緑丸さんが、バイオレットさんに?」

 たしかに、先日この店に来た時のようすを思い出す限りでは、緑丸とバイオレットはかなり仲が良いようだった。そう、それこそ言葉が通じなくても相手の言いたいことがなんとなくわかってしまうほどに。

「もしかして、緑丸さんが恵次郎さんに構ってくれなくなったんですか?」

 もしかして恵次郎が寂しがっているのかもしれないと倫子は思ったのだけれども、恵次郎は、少し困惑したようすでこう話す。

「兄さんが僕に構ってくれなくなったわけじゃないんだ」

「それなら、バイオレットさんと仲が良くてもいいじゃないですか」

 すると、恵次郎は俯いて、話を続ける。

「兄さんはこのところ、寄席の後にもたまにバイオレットのところに通って外国の歌を練習してるんだ」

「外国の歌をですか」

「そうだ」

 それが一体何の心配になるのだろう。どうにも話が読めない倫子に、恵次郎はいかにも不安そうな、震える声言う。

「兄さんは外国の歌を覚えて、そのまま僕達を置いて外国に行ってしまうんじゃないかと不安なんだ。

バイオレットに、兄さんが連れて行かれるんじゃないかって」

 それを聞いて倫子はようやく、恵次郎が不満げな顔をした理由がわかった。バイオレットに夢中になった緑丸が、そのまま外国へ行ってしまうかもしれないとなったら、緑丸に懐いている恵次郎はたしかに不安で仕方ないだろう。

 けれども、倫子は恵次郎の不安は杞憂だとも思う。

「大丈夫ですよ恵次郎さん、緑丸さんは家族をとても大事にしているし、外国に行ったりなんてしないと思います」

「それだと、いいのだけど……」

 どうにも恵次郎の不安は晴れないようだ。けれども、こればっかりは倫子にはどうしようもない。緑丸がほんとうに外国に行くのか行かないのか、それはバイオレットがその話を持ちかけるかということもあるし、その時に緑丸がそれをどう取るか次第なのだ。

 正直言えば、緑丸は外国に行かないと、倫子は思う。家族思いだからというのはあるけれどもそれ以上に、まったく知らない、言葉の通じない土地に行く度胸が、緑丸には無いように感じるのだ。

 恵次郎が口の中でなにか呟いている。心を落ち着かせようとしているのかもしれない。

 そのようすを見た倫子は、話を変えようと恵次郎に声を掛ける。

「そういえば恵次郎さん、今日はどんなご用ですか?」

 その言葉に、恵次郎がぱっと顔を上げて店内を見渡す。

「そうだ、今日はペン先とインクを買いに来たんだ」

 そう言って、すぐさまに文房具の棚の方へ向かい、いつものインクとペン先の入った小箱を手に取る。

 倫子はふと、不思議に思う。恵次郎が前にインクを買いに来てからそんなに経っていない気がするのだ。

「恵次郎さん、ペン先とインク、結構頻繁に買ってますけど、そんなに沢山使うんですか?」

 その疑問に、恵次郎は頷く。

「そうなんだ。通訳の仕事で書類を書くときはペンとインクで書くことになっていて」

「あら、そうなんですね」

 そんな決まりがあるのかと倫子が意外がっていると、恵次郎は倫子のようすを察したのか、さらに詳しく説明をする。

「外国語の文を日本語に訳す時は筆でいいのだけれども、その逆、日本語を外国語にする時は洋紙とペンとインクを使うんだ」

「えっ? そういうことになっていたんですか?」

「そうだ。というか、倫子さんはその辺りのことを知らずにペンやインクや洋紙をこの店で扱っていたのか?」

 倫子の反応に逆に疑問がる恵次郎に、倫子は思わず苦笑いをする。

「正直言うと、なんとなくで扱っていたんです。それでも売れてしまうので。

でも、そういう使い道があると知れてよかったです」

 それを聞いた恵次郎はくすりとわらって倫子に言う。

「倫子さん、商売で扱っているものの使い道は、なるべく知っていた方がいい。

その方が客に勧めやすいだろう」

「まったくもってその通りです」

 いままで勉強不足だったなと反省しつつ、倫子は恵次郎のペン先とインクの勘定を済ませる。

「まいどあり」

 ペン先の箱とインクを持った恵次郎がしみじみと倫子に言う。

「それでも、この店でこういうのを扱ってくれているのは助かる。他の店だとなかなか一度に揃わなくて」

「まぁ、そうですよね」

 それから、恵次郎は倫子に軽く手を振る。

「では、今日はこの辺で。長居してしまってすまない」

「いえ、いいんですよ。またいらしてください」

 恵次郎が背を向けて店から出ようとしたとき、倫子は咄嗟にこう声を掛けた。

「恵次郎さん、緑丸さんはきっと、大丈夫ですから。そんなに心配しないでください」

 恵次郎は、少しだけ振り返って頷く。そしてそのまま店から出て行った。

 恵次郎が出ていった後、倫子は複雑な気持ちだった。緑丸は日本から出て行かない。そう確信しているのに、心がざわつくのだ。

 どうしたらこのざわついた心を静められるだろう。そう思っていると、外から賑やかな声が聞こえてきた。

「おばちゃーん」

「倫子さんいるー?」

 子供達の学校が終わってやって来たのだ。

「はーい、中にいますよ」

 子供達が賑やかに店に入ってきて、いつものようにおもちゃと駄菓子を見る。その姿を見ていると、次第に倫子の気持ちも落ち着いてきた。

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