第三十二章 金平糖とみかん水
夏の暑い日、夏休みに入った子供達は、朝から店の前に集まってわいわいと遊んでいる。こんなに暑いのに元気なものだとは思うけれども、元気が無いよりは全然良い。
それに、子供といえども倫子の店の大切な常連だ。賑やかに楽しく遊んでくれればそれに超したことはないのだ。
こんなふうに暑い日は、子供達は駄菓子よりもみかん水を欲しがる。氷水でよく冷やしたみかん水は、夏の子供達の人気者だ。
先程みかん水を飲み終わった子供達がちらほらと瓶を返しに来たので、倫子は戻ってきた瓶の数を数え、全部を回収できたことを確認する。このみかん水の瓶もまた、業者に渡して中身を詰め直してもらうのだ。
なんだかんだで、子供達も決まりをしっかり守れている。そんな風に育っていることが倫子にはうれしかった。
ふと、外で遊んでいる子供達が歓声を上げた。なにが起こったのだろうと思っていると、大きな声でこう聞こえてきた。
「オハヨッ! オハーア? オアヨウ!」
「でっかい鳥だ!」
「こいつしゃべるぞ!」
その声を聞いて、樹と白蝋が来たのだというのがすぐにわかった。倫子は子供達の方を見て、大きめの声で言葉を掛ける。
「珍しいのはわかるけど、あんまり邪魔しちゃだめよ」
案の定、樹と白蝋は子供達に囲まれていたけれども、倫子の声で子供達が少し大人しくなったので、樹が子供達の頭を撫でながら、なんとか掻き分けてガラス戸を開ける。
「どうも久しぶり」
「樹さんお久しぶり。元気だった?」
軽く挨拶を交わすと、樹は少しだけ疲れたような顔で笑う。
「元気じゃなきゃ、ちょっと切り抜けられなかったかな?」
「そうなの? なにがあったのかしら」
なにかとんでもない面倒ごとに巻き込まれたのではないかと倫子は心配になる。だいぶ前に言っていた、このあたりをうろついている怪しいやつを追っているという話もその後どうなったのか聞いていないししばらく姿も見なかったからだ。
倫子の問いに、樹は頭を掻きながら返す。
「いやぁ、戦中から今までひっきりなしに仕事が入ってさ。とんでもなく忙しかったんだよね」
「お仕事が、そんなに?」
樹の仕事は、占いだ。そんなに忙しくなることが想像できない仕事だけれども、実際樹は疲れたようすだ。
「そんなに占いをして欲しい人がたくさんいたの?」
倫子の素朴な問いに、樹は少し溜息をついて言う。
「きっと、みんなどこか不安なんだよ」
どこか不安。それはなんとなくわかる気がした。戦争中も、戦争に勝って終わった後も、世間は高揚した雰囲気だけれども、いつか治と潔が言っていたように、その雰囲気はどこか不気味なものがあるのだ。不安を抱える人が多くてもおかしくはない気がした。
「樹さんも、大変だったのね」
倫子がそう労うと、樹はにっと笑う。
「まあ、おかげでだいぶ稼げたけどね」
「あら、したたかだこと」
思わずくすくすと笑っていると、樹が駄菓子の置かれている棚を見て息をつく。
「とりあえず、久しぶりに暇ができたし、そろそろ一息入れたいんだよね」
「忙しかったんだものね。なにか欲しいものはあるかしら」
樹は白蝋の頭を撫でてから、駄菓子の棚を見て、金平糖の瓶を手に取った。
「とーにかく甘い物が欲しい。
金平糖とみかん水をもらうよ」
「はい、まいどあり」
倫子は勘定を済ませて、氷水を張ったたらいの中からみかん水を一本取りだして栓を抜く。それを樹に手渡すと、樹はちらりと店の外を見てからこう言った。
「このみかん水と金平糖、ここで食べていっていいかい?」
「もちろんかまわないわよ。どうぞごゆっくり」
店先で子供達が駄菓子を食べるのはいつものことだし、大人のお客さんにも、場合によっては倫子がお茶菓子を振る舞うことがある。なので、ここで樹が金平糖とみかん水を食べるくらい、どうということはない。
樹がみかん水をひとくち飲んで、金平糖を数粒口に放り込んで噛みしめる。そうしていると、樹の肩に乗った白蝋がくるりと外を見てくちばしを開いた。
「オハヨーウッ!」
その声が聞こえたのだろう。外にいる子供達が賑やかになった。
得意げな顔をする白蝋を見て、倫子はくすくすと笑う。
「あらあら、白蝋君も子供達が気にしてるのわかってるのかしら」
すると白蝋は、首を傾げて樹に頭を擦り付ける。それをくすぐったそうにしながら、樹も笑う。
「なんだかんだで、こいつは思ってるよりだいぶ賢いから」
「そうよね。おしゃべりもできるものね」
そのやりとりがわかっているのだろうか、白蝋は目を細めてますます得意げな顔になる。樹のいうとおり、倫子が思っている以上に賢いのだろう。
「いや、それにしても暑いね」
そう言って樹は、残りのみかん水を一気に飲み干す。たしかにこう暑いと、冷たいものを一気に飲みたくなるのはわかる。
空になったみかん水の瓶を樹から手渡されたのでそれを受け取ると、樹はもう片手に持っていた金平糖の瓶を見て倫子に訊ねる。
「そういえば、金平糖の瓶も返すものなの?」
その問いに、倫子はにっこりと笑って返す。
「金平糖の瓶は、返してもいいけれども持って帰っちゃっても大丈夫よ。
子供達のおもちゃにもなるものだから、それは特に回収してないの」
樹は口笛を吹いて金平糖の瓶を指でなぞる。
「そいつぁ太っ腹だ。それじゃ、こいつはもらっていくよ」
ふと、樹がじっと金平糖の瓶をみて呟く。
「この瓶、鉄砲の形してるんだな」
「そうなの。この前の戦争の時からそういうのが増えて、子供達にも人気なのよ」
戦争に子供達も傾倒していたのではないかというのは、今思うとおそろしいことだけれども、大人のやることに子供が興味を持ったり、影響を受けたりするということはなにも不思議なことではない。それに、起こってしまった戦争の記憶を消すことも、いいことだとは思えない。子供達の遊びの中に、戦争の記憶が残るのは、一概に悪いこととは言えない気がした。もっとも、良いことだとも言い切れないけれども。
金平糖の瓶を見て、樹が真面目な表情で呟く。
「この前の戦争の時、戦地はいったいどんなふうになったんだろう」
「それは……」
それは、倫子の知るところではない。新聞では盛んに戦地の状況を知らせていたけれども、新聞の言うこともどこまでがほんとうなのかわからないのだ。
樹が目を伏せて言葉を続ける。
「日本は清に勝ったけど、どっちの国からもたくさんの犠牲が出たのは、あたしでも知ってるんだ」
その言葉に、倫子はなにも言えない。樹は金平糖をひとくち囓って溜息をつく。
「でも、勝てば官軍だ」
その通り。いつの世でも、戦争に勝った者が正しいとされる。それは今までの歴史から簡単に読み取れることだ。
ふと、白蝋が声を出す。
「キュルルルルル……」
疲れてしまっている樹を気遣っているのだろうか、首をまた傾げて、樹に寄り添っている。樹はそんな白蝋の気遣いに気づいたのか、にっと笑って白蝋の頭を撫でる。
「あたしはさ、政治のことなんて全然わかんないんだよ。
だけど、勝って官軍になったなら、あたし達の生活を楽にして欲しいもんだね」
それは倫子も思うところだ。お偉方ばかり得をするような、そんな国になってしまっては困るのだ。
でも、どうしたら自分たちの生活が楽になるのか、より良くなるのか、それは倫子にはわからなかった。
樹が金平糖を食べきって、店の外を見る。
「それじゃあ、なんか長話しちゃったけど、そろそろお暇するよ。またね」
「はい、またいつでも来てね」
樹は倫子に手を振って店の外に出る。それから、明るい声で子供達に声を掛けた。
「おう坊主達、こいつが珍しいか。
こいつが相手してくれるって言ってるから少し遊ぼうか」
「とりさんあそんでくれるの?」
「なんかしゃべって!」
子供達の声を受けて、白蝋が何度も喋る。
「オハヨッ! オハーヨッ! オハヨオハヨオハヨ!」
子供達は樹と白蝋に遊んでもらっていると思っているかもしれないけれども、今日ばかりは樹の方が、子供達に救われているのだろう。




