第二章 舶来品の商人
陽も暮れ始め、そろそろ店を閉める頃合いとなった頃、倫子は店の片付けをしながらも誰かを待っている様子だった。
倫子が待っているのは、この店に舶来品を入れに来てくれる取引先だ。その取引先は舶来品を仕入れるためによく居留地へといっているという話を聞いている。たしかにその取引先は、居留地にいてもおかしくないであろうなという洋服姿でいつも倫子の前に姿を現すのだ。
今日はその取引先が舶来品を持って来てくれる約束になっているけれども、いつ頃来るだろうか。店の片付けを終えた倫子は、奥からぼんやりと入り口を眺める。
すると、ガラス戸越しに鞄を持った洋服姿の男が見えた。男がガラス戸を開けて声を掛けてくる。
「倫子さんお待たせしました。いやほんとうに、遅くなって申し訳ない」
それを聞いて倫子は笑顔で返す。
「もうほんとうに、こんなに遅くなって。心配したのよ?
季更さん、今日も忙しかったの?」
「いやぁ、値段交渉に熱が入っちゃってね。そうしたら押し押しになっちゃって。
いやご心配おかけして申し訳ない」
とはいうものの、季更は悪びれる様子もなく肩から垂らした茶色い髪の三つ編みを撫でている。
季更が仕入れの時に値段交渉で白熱して時間が押し押しになるのは、今にはじまったことではない。なので倫子は、気にしないで。と言って季更を店の奥まで招き入れる。
奥に上がってもらい、ふたりはそこに座り込む。すると早速、季更が持っていた鞄を開けて中から次々と舶来品を取りだして倫子に見せる。
「今回はね、欧羅巴のものだけでなく印度や清のものもあるんだよ」
楽しそうにそう言う季更が出したものを、倫子はひとつずつ手に取ってみる。刺繍の入ったハンカチや、繊細な細工が入った真鍮の鏡。このふたつは欧羅巴のものだろう。漆塗りで螺鈿がきれいな小箱は、おそらく清のもの。ただ、不思議な細かい模様が染めで入った布がどこのものなのかわからなかった。
「季更さん、この染めの柄の大きな布はどこのものかしら?」
その問いに、季更は同じように染めの柄が入った布をまた取り出しながら答える。
「この布は印度のものだよ。印度の更紗は居留地でも人気があってね。仕入れるのが大変だったよ」
肩をすくめてそう言う季更に、倫子はにやっと笑って言う。
「この更紗の値段交渉で白熱しちゃったのね?」
季更もにやっと笑う。
「その通り。この布はね、倫子さんに絶対見せたかった」
「そんなことを言われたら、買わないわけにはいかないじゃない。
まぁ、売りに出しちゃうけどね」
「もちろん、わかってるさ」
印度の更紗を何枚か買い取ることに決め、折角なのでハンカチも鏡も漆の小箱も、一緒に買い取ってしまおうと倫子は決める。なんだかんだで舶来品は、ちょっと裕福な客には人気のものなのだ。
あらかた商品のやりとりを終えた後、倫子はしばらく季更と話をする。今度はいつ頃舶来品を持って来てくれるのかということや、この店ではどんなものが人気なのかとか、そんな話だ。
あらかたそのあたりを話し終わった頃、季更がこんなことを倫子に訊いた。
「ところで倫子さんは、結婚って考えてないんですかね?」
それを聞いて、倫子は困ったように笑う。
「結婚はね、本当はしたいんだけど、今の仕事を続けさせてくれる人でないと嫌なのよ。
こんなわがままを言ってるから、お父さんもお母さんも困ってしまっているけれど」
だから、まだ当分結婚はできそうにない。倫子がそう続けようとすると、季更が真面目な顔をしてこう言った。
「だったら倫子さん。俺と結婚しませんか?」
「えっ?」
「俺だったら、倫子さんがこの店を続けるのに文句を言わない……いや、この店を続けるのに協力もできます。
だからどうですか?」
突然そんなことを言われて、倫子は戸惑いを隠せない。季更との付き合いは長いし、季更が悪い男ではないというのはよくわかっている。けれども、両親は季更のことをよく知らない。だから、もしここで倫子が結婚しても良いと言っても、両親が納得するかどうかはわからないのだ。
正直言えば、季更が彼の言ったとおりに倫子に店を続けさせてくれるというのであれば、条件としては悪くない。むしろ、舶来品の仕入れを今まで以上に協力してくれるのであれば、この上ない相手なのだ。
それでも、すぐには返事を返せない。その理由を、季更もすぐに察せられたのだろう。ぺこりと頭を下げて、やはり真面目な声で言う。
「真剣な気持ちで言わせて貰ったけど、倫子さんの家のこともある。だから今のは話半分で聞いて欲しい」
「うん……でも……そうねぇ……」
「無理にとは、言わないので」
季更の真剣な気持ちが伝わってくる。倫子はぎゅっと目を瞑ってから、息を吐いて返す。
「わかった。お父さんに相談してみる」
顔を上げた季更の表情が明るくなる。
「私もちょっと、前のめりなんだから」
「倫子さんも前のめりか。
ははは、これは期待しちゃうなぁ」
「お父さん次第だけどね」
少しの間ふたりで笑い合って、そうしている内に日も暮れてきた。外が暗くなっているのを見て慌てた季更が、鞄を持って立ち上がる。
「長居しちゃいましたね。それじゃあ今日のところはこれで」
「はい、ご苦労様です」
来たときよりも軽い足取りで出ていった季更を見送ったあと、倫子は自分の赤い髪に挿した簪に手をやる。この簪は、はじめて季更に会ったときに着けていたもので、その時にとても褒められてしまったせいか、季更が来るときはいつもこの簪を着けている。もし季更と一緒になったとしたら、これ以外の簪も季更は褒めてくれるのだろうかと、倫子は少しだけ期待してしまった。
ふと、暗くなった店内を見てはっとする。もう店を閉めないと。倫子は暗い中、蝋燭に火を点す。ほんの少しだけ明るくなった。店のガラス戸の鍵をかけ、改めて舶来品に向き合う。どれにどれくらいの値段を付けるか考えなくてはいけないのだ。
こうやって、商品と向き合っている時間は楽しい。もちろんお客さんとのやりとりも楽しいけれども、特にこの時間のために、倫子はこの店を続けたいのだ。
舶来品を見て色々考えながら、ふと思う。季更はなぜ、倫子と結婚したいと言い出したのだろうか。
居留地に出入りして舶来品の買い付けなどしているくらいだから、季更の家もそこそこ裕福なはずだ。金目当てで倫子に近づくというのは少々考えづらい。もしかして、居留地への出入りを認めてくれる嫁が欲しいと言うことなのだろうか。もしそうであるのなら、季更にとっても倫子はいい相手だろう。
でも、それだけではない気がした。あの、倫子と結婚したいと言った時の季更の声色には、打算だとかそういったもの以上のなにかがあるような気がしたのだ。
季更はなんで自分を……倫子はそう考えて、もしや。と思う。そのもしやを考えると、頬が熱くなった。
思わず季更のことで考え込んでしまい、はっとして頭を振る。とりあえず今は、季更から仕入れた舶来品をなんとかしないと。けれども、蝋燭の明かりだけでは舶来品の本当の価値を見極めるのは難しいように感じた。
倫子は舶来品を目立たないところへと片付け、蝋燭の灯を吹き消す。それから、いつも店を閉めた後に使う裏口へと向かい、下駄を履いて外へと出る。裏口の鍵もしっかりと閉め、自宅へと向かう。
空には月が浮かんでいる。道行く家々からはおいしそうな匂いが漂ってくる。
両親には、女の夜歩きは危ないと言われているけれども、このあたりは居留地が近いせいか、この頃はガス灯も整備され明るく夜も安心だ。
ガス灯の明かりに照らされながら、倫子は歩いて行く。今日は久しぶりにだいぶ遅くなったから、お父さんに怒られるだろうなと思いながら。