第十八章 餞別の金平糖
この日はあいにくの曇天だった。店を開けたはいいものの、今にも雨が降り出しそうな分厚い雲は、陽の光を遮っていて周囲を薄暗くしている。
こんな日は、お客さんの足も遠のきがちだ。実際に、店を開けてからしばらく経つのにお客さんがひとりも来ていない。
「はぁ……こういう天気は困るわねぇ」
店の奥でぼんやりしながら、倫子は思わずそう呟く。雨が降らないと畑を持っている人達が困るのはわかるのだけれども、それはそれとして自分の店にお客さんが来ないのも困るのだ。
誰も来ないのならと、倫子は小さな炉と釜の用意をする。お茶を飲みながらゆっくり店番をする方がいいと思ったのだ。
炉に火を入れて、柄杓で水を入れた釜を上に乗せる。それから、いつも使っている急須に茶葉をたっぷりと詰め込んだ。
そこで、誰かがガラス戸を叩いた。
「ごめんください」
「倫子さん、いるかい?」
久しぶりに聞く声だ。倫子はぱっと顔を上げて立ち上がる。
「いますよ。どうぞ中へ」
下駄を履いて入り口の方へと近寄ると、入ってきたのは、あいかわらずきっちりと軍服を着込んだ潔と治だった。
潔はいつもの楽器の箱を持っているけれども、今日はなぜか治もなにかを包んだ風呂敷を持っている。
また軍の仕事の行きか帰りに寄ったのだろうかと倫子が思っていると、治が風呂敷を倫子に手渡してきた。
「倫子さん、お土産なんだけど受け取ってくれるかい?」
「お土産ですか? ありがとうございます」
中身はなんだろうと少し揉んでみると、なにやら柔らかいものが入っている。それを見た治が、にっと笑って言う。
「銀座に新しくパン屋ができてね。そこの看板商品のあんパンってやつを買って来たんだ。
よかったら食べてよ」
「あんパンですか? 饅頭ではなく?」
「そう、パンの中にあんこが入ってるの」
いまいち味の想像ができずに倫子が斜め上を見てると、潔がそわそわしたようすで口を開く。
「しっとりしていて、パンもほんのり甘くておいしいんですよ。お茶にとてもよく合うんです」
そんな潔を見て、治が肘を抓る。そうした理由は倫子にもすぐにわかった。潔はお茶と一緒にこのあんパンを食べたいのだ。
倫子はくすくすと笑ってふたりに言う。
「それなら丁度よかったです。お茶を淹れようと思って、今お湯を沸かしてるところだったんですよ。
もしお時間あるようでしたら、一緒にいただいていきませんか?」
それを聞いた潔が、にっこり笑う。
「なんだか催促したようで申し訳ないです」
「いや、催促したんでしょ?」
こういうやりとりも、このふたりの間ではいつものことだ。倫子はあんパンを抱えたまま奥へと行く。
「それじゃあ、上がってくださいな。
今、座布団も用意しますから」
「いやほんとすまないね」
倫子が奥に上がって座布団を用意すると、治と潔も靴を脱いで上がり、座布団の上に座る。そうしている間にも、釜の中でふつふつとお湯が沸いていた。
倫子は柄杓でお湯を急須の中に入れ、湯飲みを用意してすぐに注ぎ込む。その湯飲みを、治と潔と自分の側に置き、早速風呂敷をほどいた。中には治が言っていたとおり、紙袋に入ったパンが入っていた。
「あら、お饅頭よりちょっと大きいくらいなのね」
倫子がそう言うと、潔がにこにこしながら口を開く。
「そうなんです。だからたくさん食べられるんですよ」
「ちがうよ。饅頭より大きいから一個で十分だろってことだよ」
あいかわらず食いしん坊な潔に、治が呆れたような声を出す。
倫子がくすくす笑いながら皿の上にあんパンを置き、湯飲みの側に置く。
「そういえば、おふたりはまた海軍の用事ですか?」
なにともなしにそう訊ねると、急に治も潔も真面目な表情になる。
「今回は海軍の用事はなかったんだけど、しばらくここに来られなくなるんでね。挨拶に来たんだ」
「えっ? なにかあるんですか?」
このふたりは元々そんなに来る頻度が高いわけではないのだけれども、それでもあえて挨拶に来るということは、軍の方でなにかがあるのだろう。倫子がそう思っていると、潔がいつになく固い声でこう言う。
「もうすぐ清との戦争がはじまるんです。
そうなったら、横浜に来ることはあってもこの店には来られなくなります。少なくとも、戦争が終わるまでは」
治がさらに続ける。
「だから、戦争がはじまる前にここに来たかった」
清との戦争の噂は、倫子もなんとなく聞いてはいた。けれども、それが現実になるとは思ってもいなかったので、どういう顔をすればいいかわからなかった。
震える声でふたりに訊ねる。
「清に、戦いに行くのですか?」
その問いに、治は首を振る。
「僕達は日本で仕事をすることになってる。
でも、戦争がはじまったら本来の仕事以外のこともすることになるから、忙しくなる」
潔も頭を下げて倫子に言う。
「なので、いつもお世話になっている倫子さんにご心配をお掛けしてはいけないと思って、今日ご挨拶に来ました」
ふたりが清まで戦いに行くわけではないということを知って、倫子は多少は安心した。けれども、ふたりが軍人である以上、戦争中にまったく安全というわけにはいかないだろう。このふたりが万が一、戦争で死んでしまったらと思うと胸が潰れる思いだ。
けれども、今はそれを表に出してはいけないと思った。だから倫子は、ぎこちなく笑ってふたりにこう言った。
「しばらく会えないのは寂しいですね。
それなら、なにか駄菓子を食べていきませんか? 駄菓子の味を覚えていけば、頑張れると思うんです」
倫子の言葉に、治も潔も微笑む。
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
「選ばせてもらいますね」
立ち上がろうとしたふたりに、倫子は手を伸ばす。
「でも、まずはあんパンをいただきましょう? せっかく出したんですし」
「あ、それもそうですね」
潔がすぐさまに座り直して、大きく口を開けてあんパンを囓る。治も、少しずつあんパンを囓ってはお茶で口を湿らせていた。
あんパンを食べている間、みな黙り込んでいた。あんパンはたしかに甘くておいしかったけれども、なぜだか少しだけしょっぱいように倫子には感じられた。
治と潔があんパンとお茶を食べ終わったのを見て、倫子がまた声を掛ける。
「それじゃあ、駄菓子を選んで下さいな」
「うん。駄菓子なんて久しぶりだなぁ」
早速治が立ち上がり、潔もそれに続く。それから、靴を履いて下に降りた。
ふたりが駄菓子の並んだ棚を眺める。いろいろなものがあるけれども、ふたりが選んだのは瓶入りの金平糖だった。
「倫子さん、勘定お願い」
治がそう倫子に声を掛ける。倫子は立ち上がり、にっこりと笑ってふたりに言う。
「お代はいいです。これから大変なのですから、それは餞別です」
するとふたりは、また真面目な顔をして倫子に一礼をした。
顔を上げた治が、少しだけ泣きそうな顔をして潔に言う。
「それじゃあそろそろ行こうか」
「そうですね」
きっと、今度の戦争は治にとって本意なものではないのだろう。倫子に別れの挨拶を告げ、ふたりは背を向ける。それから、潔の声が耳に入った。
「兄さん、汽車の中で食べるものもどこかで買いましょう」
「満喫してんじゃないよ!」
相変わらずのやりとりを見て、あのふたりはきっと大丈夫と、倫子は自分に言い聞かせる。店の前からふたりが姿を消すまで見送って、倫子はまた奥に座った。
今度の戦争に勝てれば、それに超したことはない。けれども、もし負けてしまったらこの国はどうなるのだろう。なんせ相手は大国といわれる清だ。一筋縄ではいかないだろうということは、女である倫子にもわかる。
どうか戦争に勝って、そして大事な人達が生き残れるように、倫子は何者かに祈った。




