第十二章 文化は違えど
冷え込んで店の中も寒いある日のこと、倫子は暖を取ろうと七輪に炭を入れて火を焚いていた。
じわじわと赤く光る炭は、周囲をほのかに暖かくしてくれる。ついでなので、おやつにと買っておいたお饅頭も串に刺してこんがりと焼き色を付けて囓っていた。
「あつっ、んっ、おいしい」
熱くなったお饅頭は、体の中を温めてくれるようだ。甘い物も食べて一息ついたところで、倫子は店の中を見渡す。年の瀬も近いこの頃だ、いつも来ているお客さんは他の店で年超し用のものを買うので忙しいだろうし、この店にはあまり来ないだろうなとぼんやりと思う。
今日は早めに店じまいするか。そんなことを考えていると、ガラス戸を叩く音がした。
「はーい、開いてますよ」
倫子がそう返事をすると、入ってきたのは緑丸と恵次郎だった。
「倫子さんこんちはー」
「どうも、ごめんください」
そう言ってふたりは中に入ってきて、店の中を見て回る。文房具の棚の前で足を止めた恵次郎が、金属のペン先の箱を手に取ってまじまじとみている。それはいつも恵次郎が買っていく銘柄のものだ。
「恵次郎さん、この前買ったペン先はもう使いきってしまったの?」
倫子がそう訊ねると、恵次郎は苦笑いをして答える。
「そうなんだ。なんというか、僕の使い方が悪いからなのかはわからないけれど、すぐにペン先が広がってしまって」
「うーん、でも、ペン先も消耗品ですからねぇ」
とりあえず、恵次郎はそのペン先を買うことにしたようで、倫子に箱を渡してくる。
「これを頼む」
「はい、まいどあり」
勘定を済ませて箱を恵次郎に渡し、倫子が恵次郎と緑丸のことを見て言う。
「そういえば、ふたり揃ってるってことは、居留地に行ってらしたんです?」
「そうなんだ。兄さんがあの、紹介したんだっけか。バイオレットに呼ばれて」
「ほんとうに仲が良いのね。またバイオレットさんに浪花節を聴かせに行ったの?」
倫子の問いに、緑丸が意気揚々と答える。
「今日は浪花節じゃないんだ。バイオレットに外国の歌を教えて貰ったんだよ」
「外国の歌を?」
それは意外な答えだった。普段浪花節の練習に熱心な緑丸が、外国の歌を教えて貰うなんて思っていなかったからだ。
でも、よくよく思い返してみると、以前緑丸はこの店に置いてあるオルゴールの音色に聞き入っていた。もしかしたらあの時から、外国の歌というものが、心に引っかかっていたのかもしれない。
驚いている倫子に、恵次郎が少し自慢げな顔をする。
「兄さんは飲み込みが早いから、今日の練習だけでだいぶ外国の歌のコツを掴んだみたいなんだ」
「まぁ、さすが緑丸さんね」
緑丸は、浪花節の修行をしているときも飲み込みが早かったと師匠から言われていたと聞いているので、それなら外国の歌も飲み込みが早くてもおかしくはない。それでも、浪花節や日本の歌と外国の歌はだいぶ違うものなので、そもそもですんなり受け入れることができたこと自体が、才能の一端なのかもしれないけれども。
感心している倫子に、恵次郎がさらに言葉を続ける。
「兄さんは、浪花節だけじゃなくて外国の歌を歌わせても、世間で通用すると思う。
兄さんならやれる」
すると間髪を入れず、照れたようすの緑丸が手を振りながら恵次郎に言う。
「いやいやそれは言いすぎだ。俺がどこまでできるかはまだわかんないんだからさ」
どこまでできるか、と言っているということは、まだしばらくは折を見て外国の歌の練習をするつもりではあるのだろう。そうなると、倫子も緑丸が練習してきたという外国の歌が気になった。
「緑丸さん、よかったら今日練習してきた歌を聴かせてくれないかしら。
私、気になります」
「気になる? じゃあちょっとやってみるか」
興味を持たれたのが嬉しいのか、緑丸はにっこりと笑う。それから、脚を肩幅に開いて手を腹の前で重ね口を開く。
「ハレルヤ、ハレルヤ……」
今までに緑丸が浪花節で聴かせていたものとは全く違う澄んだ声に、倫子はびっくりする。まさか緑丸がこんな声で歌えるとは思っていなかったし、こんな歌い方があること自体も知らなかったのだ。
聴き慣れない歌だけれども、それでも素敵だと倫子は思う。そして、一日の練習だけでここまでやれるようになってしまった、緑丸の実力の底深さを感じた。
歌い終わった緑丸は、照れたように笑って倫子に言う。
「こんな感じかな」
「緑丸さん、すごいわね。真打ちってのは伊達じゃないのね」
ただ褒めることしかできない倫子に、緑丸はいやいやと手を振る。
「俺は外国の歌はまだまだだよ。バイオレットはもっと上手い」
その言葉に、恵次郎は当然といった顔で言う。
「それはそうだろう。あいつらの歌だ」
「もっと上手くなりたいなぁ」
恵次郎と緑丸がそう話して、ふと、緑丸が真面目な顔をした。
「俺は、外国の歌を浪花節に活かせないか考えたいんだ」
「えっ? あの歌を浪花節に?」
倫子は思わず驚く。倫子が知っている浪花節と、今聴いた外国の歌は全く違うもので、活かすもなにも、それは困難なことのように思えたからだ。
「でも緑丸さん、外国の歌をどうやって浪花節に活かすつもり?
さっきの歌、全然唸ってなかったじゃないですか。混ぜるのは……かなり……」
まったく想像ができないといったようすの倫子に、緑丸はいたずらっぽくにやっと笑う。
「まぁ、色々試してみるさ」
それを聞いた恵次郎が溜息をつく。
「兄さんはそんな無茶を言って。だから曲師泣かせだと言われるんだ」
「なぁに、あいつなら上手くやるさ」
緑丸についている曲師は、東京から来たやり手だと聞いている。そんな相方だからこそ、緑丸も無理を言えるのだろう。
ふと、倫子は気になったことをふたりに訊ねる。
「そういえば、異人さんの間でも浪花節は広まってるんですか?
緑丸さんがよくバイオレットさんに聞かせに行ってるみたいですけど」
その問いに、恵次郎が渋い顔をする。
「興味は持っても受け入れない異人が多いな。あんなに何度も、金を払ってまで浪花節を聴きたがっているのはバイオレットだけだ」
「まぁ、そうなのね」
それを聞いて、バイオレットは異人の中でも相当な変わり者なのだろうなと倫子は思う。けれども、変わり者でも日本のことを受け入れてくれる異人がいるのは嬉しかった。
「たしかに、浪花節が気に入らない異人は多いけどさ」
緑丸が少し口を尖らせてから、困ったように笑う。
「俺は寄席だけでも十分稼げてるから、あんまり贅沢は言えないな。
日本人だって、外国のものを嫌がるやつはたくさんいるだろ。そういうことだ」
「それもそうですね。育った場所が違うんだから、好きなものも違いますよね」
緑丸は、もしかしたら多少は、異人に浪花節を受け入れてもらえないのを気にしているのかもしれない。けれども、無理強いをする気はなさそうだ。彼のいうとおり、日本人だって外国のものを嫌がる人はいる。それぞれにそれぞれの好きなものを見ればいいのだ。
正直な話、浪花節は日本人の中でもいわゆる文化人という人達からは蔑まれている。日本人の中だけで見てもそうなのだから、外国から来た異人がすんなりと受け入れられるはずがないのだ。
「違うからなぁ、文化ってやつが」
そう言って笑う緑丸に、倫子はにこりと笑って返す。
「でもバイオレットさんというご友人ができたじゃないですか。
文化が違っても友人になれるなんて、立派なことだと思いますよ」
それを聞いて、緑丸は照れ笑いをして恵次郎を肘で突く。
「こいつがいてくれたから、バイオレットとも友達になれたんだけどさ」
「兄さんはもっと僕に感謝していい」
そう、緑丸とバイオレットの橋渡しをしたのは恵次郎なのだ。幸運に幸運が重なった結果の縁を思うと、倫子は巡り合わせの不思議を感じてしまうのだった。




