第一章 横浜の雑貨屋
ここは居留地の近くの賑やかな町、日本人町と呼ばれるところ。
居留地が近くにあるせいか、洋風のものや舶来品も度々目にするこの町角に、一軒の雑貨屋があった。その雑貨屋は立派な黒い瓦の屋根に、木で出来た壁、入り口にはガラス戸が填め込まれている。店先には洋風とも和風ともつかない、不思議な意匠の看板が出されている。
店の中では、着物を着たこの店の女店主が壁際にある木造の棚に、筆や墨、文鎮などの文房具や竹でできた籠や石鹸、花瓶などの日用品を並べている。それ以外にも、棚を見渡すとペン先やペン軸、インク、ハンカチ、ブローチなど、細々とした舶来品も置いている。
棚の上のものを整理し終わった女店主は、店の奥にある駄菓子の置かれた台の向こうへ入っていく。奥は一段高い板敷きになっていて座れるようになっており、そこには勘定のためのお金が置かれているだけでなく、お客さんが来ていない間に一息つけるよう、お茶を入れるための小さな釜も置かれている。年明けすぐの今のように寒い時期に暖を取るための七輪もどっしりと腰を据えている。
店を開けてしばらく。まだお客さんが来ないので、女店主はお茶でも頂こうかと釜を置いている小さな炉にマッチで火を入れ、汲み置きの水を小さな柄杓で釜に入れていく。
お湯が沸くまでの間、買っておいたお饅頭を串に刺し、七輪に斜めに立てる。こうやって饅頭を焼くのは、寒い時期にはよくやることだ。
甘い香りが漂ってくる。温かいお饅頭を食べることに期待を膨らませながら、板張りの空間の片隅にある小さな棚から急須と湯飲みと茶筒を取り出す。急須の中に茶葉を入れ、またお湯が沸くのを待つ。
ふつふつと音が聞こえる。釜の中を見ると湯気が立ちお湯の中にふつふつと小さな泡が立っている。女店主は柄杓でお湯を取り、急須の中に注ぎ込む。それから少しだけ置いて、急須から湯飲みにお茶を注ぎ込んだ。
お饅頭が焼けるまではもう少しかかるだろうと、女店主は串に刺さったお饅頭をひっくり返す。すると、外から賑やかな声が聞こえてきた。
「倫子さんこんにちはー!」
「おばちゃんいるー?」
どうやら、いつもこの店でおもちゃや駄菓子を買っている近所の子供達がやって来たようだった。
倫子と呼ばれた女店主は、ガラス戸を開けて覗き込んでいる着物姿の五人ほどの子供達に返事を返す。
「いるわよー。中に入ってらっしゃい」
すると子供達は、賑やかに店内に入ってくる。高価な舶来品も置いているのに、子供達を店に入れて大丈夫なのかと心配されることはあるけれども、子供達には用があるのでもない限り、おもちゃと駄菓子以外には触らないようしっかりと言い聞かせてある。そう、倫子はいたずらをしようとした子供を叱ることも厭わない性格なのだ。
もっとも、ここに来る子供達はこの店にあるような舶来品はもう見慣れてしまっていて、自分たちが遊んだり食べたりできるおもちゃや駄菓子の方に興味が向くことが多いのだけれども。
「今日はなにを買いに来たの?」
倫子がそう訊ねると、子供達はせんべいや麩菓子の入ったガラスの器や、小さなガラス瓶入りの金平糖、飴玉の入った缶を見て、賑やかにどれが欲しいかと賑やかに話し合っている。それぞれにどの駄菓子を買うか決めたところで、子供達の中でも一番年上の子が、おもちゃの置かれた箱の中からビー玉を三個取りだして、倫子に言う。
「倫子さん、今日はこれだけ買う」
「はい、毎度あり」
倫子はビー玉の勘定をして子供に渡す。それに続いて、他の子供達の駄菓子の勘定も済ませた。
倫子がビー玉を買った子供に訊ねる。
「今日はあんたはお菓子買わなくて良いのかい?」
すると、子供はにっこりと笑ってこう返した。
「今日この後ね、光喜の仕事が終わったら一緒に遊ぶんだ。それでね」
「一緒に遊ぶのにビー玉欲しかったんだ?」
「そうなの。あのね、今まで集めたのがいっぱい溜まってきたからね、みんなで遊べそうなんだ」
光喜というのは、この子たちより少しだけ年上の、洗濯屋で働いている少年だ。この店に度々来るし、この子たちの面倒をよく見ている良い子だ。
光喜のことを思いだしてから、そういえば、この子供は今までにも何度もこの店でビー玉を買い集めていたことが頭を過ぎる。そんなに買ってくれていたかとしみじみしながら、倫子は子供の頭を撫でる。
「いつもありがとうね。お得意さん」
すると子供は嬉しそうに笑う。それから、これからいつもの場所で光喜を待つんだと言って店を出て行く。他の子供達もそれに続いた。
賑やかだった子供達の声はあっという間に遠くなって、店の中はまた静かになる。子供達が触って動いたものをまた元通りに戻してから、倫子は奥に戻る。お茶は少しだけ冷めてしまっていたけれど、お饅頭は香ばしく焼けていた。串に刺したままお饅頭を囓り、お茶をひとくち含む。ほっとする味だ。
一息ついて、倫子は店の中を見回す。おそらくこの雑貨屋は、このあたりの庶民向けの店としては広い方だろう。なんせ、子供が五人も入ってもまだ余裕があるほどだ。
我ながらよくこんな店を持てたものだと倫子は思う。いくら近頃女が表に出るようになってきたからといっても、このような店を個人で持っている女というものはまだ少ないだろう。
倫子がこの店を持つことができたのは、家が裕福だからというのがある。古くからの名士というわけではないけれども、開国後、この横浜が外国向けの港として開かれたときに、倫子の祖父や父はうまいこと立ち回って財を成した。倫子はそのおこぼれを貰っている感じだ。
その仕事を今継いでいるのは、弟だ。男が家を継ぐのは当然なのだけれども、それでも倫子は、弟に家のことを全て押しつけてしまったのではないかと時々思うことがある。そうは思っても、女の身で家を継ぐことはできないので、それならばと少々わがままを言ってこの店をやらせて貰っているのだけれども。
両親もよく、倫子にこの店をやらせようと思ったものだ。女は早く家庭に入って家を守るものだというのが一般的な風潮の中、両親は好きなことをやりなさいと、気前よく店にするためのこの家を見つけてきてくれた。
ほんとうに、自分はわがままを言ってしまっていると倫子は思う。だからこそ、この店で赤字を出すわけにはいかないと、日々仕入れなどに気を遣っているのだ。
結果として今どうなのかと言われると、まあまあ順調に商売はできている。はじめの半年は赤字が続いたけれども、それ以降は自力できちんと生活ができる程度には黒字がでているのだ。
倫子の商売が軌道に乗っていることを、両親も弟も喜んでくれている。ただ、ひとつだけ頭痛の種があった。
両親が、近頃倫子に見合いを勧めてくるのだ。勧めてくる理由はわかる。倫子もいい歳だ。そろそろ妙齢という年も過ぎてしまうだろう。そうなる前に、両親としては倫子にいい相手を見つけて結婚させたいというのは想像に難くない。
もし仮に、倫子に今子供がいて、その子供が自分くらいの年齢で、商売に夢中で結婚もしていなかったら心配するだろう。それがわかっているから、両親の気持ちを面倒だとは思ってもお節介だとは思えないのだ。
けれども、倫子はまだこの商売を続けたいと思っている。もし結婚するのであれば、この商売を続けさせてくれる人がいいと両親には言っているけれども、両親はいつも難しそうな顔をするばかりだ。きっと、女だてらに商売をしている娘を嫁にしようという男はなかなか見つからないのだろう。
正直言えば、倫子自身も、そんな都合のいい男がそうそういるとは思えないでいる。だから、いつまでもお見合いはしても結婚はできずにいるのだ。
自分が結婚するのに理想の男はどこにいるのだろう。自分で探さなければ見つからないだろうか。お饅頭を囓りながら倫子がそんなことを考えていると、ガラス戸を開ける音がした。
「いらっしゃいませー」
お饅頭を飲み込んでから入り口の方を見ると、常連さんが覗き込んでいた。