第86話:立ち上がる価値
ルトゥが不良に絡まれた翌日。
ひょっとしたら、あのまま部屋に閉じ籠もりっきりになってしまうかも知れない。ソルを始めとして、フランシア家の人間は誰もが心配した。
心が弱った人間は、暗闇に籠もる。そして、暗闇は優しく、弱った人の心を殺す。そう、言い伝えられている。音も光も無く誰もいない空間は、心が弱った人間にとっては心地よい。彼らにとっては、そういった刺激そのものが苦痛でしかないからだ。
しかし、それは本当の意味では癒やしに結びつかない。使わなければ筋肉がどんどんと弱り、やがては立つこともままならなくなるのと同じように。心に楽だからとそのような一切の負担が無い空間に浸りっきりでは、ますます心が奮い立てなくなるのだ。
だから、せめて一日に少しの間。気力が湧いた時間だけでも部屋から出てきて欲しい。それも嫌がるようであれば、最終的には部屋に押し入ることも必要だと、彼らは考えていた。
だが、彼らの心配に反して、ルトゥは部屋から出てきて。朝食の場に姿を現した。その姿に、フランシア家の誰もが驚き、また安堵したのだった。
「ルトゥ。おはよう。昨日はあれから、よく眠れたのかい? あんな事があったんだ。さぞかし、君の心は傷付いたことだと思う。だから、こうして顔を見せてくれただけでも、俺は嬉しく思う」
「本当に良かったわ。気分は大丈夫? 食欲はあるかしら?」
「そうよ。お父様もお母様もお姉様もお兄様も、みんな心配していたんだからね? 勿論、私もよ?」
エトゥルとティリアとヴィエル。彼らから掛けられる心配と喜びの声に、ルトゥははにかんだ笑顔を浮かべる。
「ごめんなさい。昨日は、心配させてしまって。それと、ドアの外に用意してくれた食事も、有り難うございました。ソルお姉様とリュンヌさんも、危ないところを助けてくれて、有り難うございました。すぐにお礼を言えなくてすみません」
「いいんですのよ。むしろ、ルトゥがあんな目に遭う前に助けられなくて、悔しいですわ」
「そうだな。俺も、ここを治めている人間として、申し訳なく思う。ルトゥ、恐い思いをさせてしまって。すまない。これでも、滅多に事件が起きていない、治安の良い方だと自負していたつもりだったんだが。改めて、あの区画については対処を検討するよ」
そう言って、エトゥルが頭を下げる。その姿を見て、ソルはまったくだと鼻を鳴らし、ルトゥは恐縮しながら慌てて手を振った。
「あ、でも。こうして顔を見せるのは大丈夫だけれど。やっぱりまだ、少し辛いです。だから、動ける気分の時はこうしてなるべく部屋の外に出ようと思うけれど。そうじゃないときは、しばらくの間、なるべく部屋で休ませて貰えるとありがたいです。なので、あまりソルお姉様達と一緒に遊ぶことも出来ないと思います。それでも、いいでしょうか?」
「分かった。閉じ籠もりっきりでさえなければ、俺達も安心だ。そしてそれが、ルトゥにとって、心を治す一番良い方法だと思うんだね?」
「はい、その通りです」
はっきりと言い切って、ルトゥは頷く。その声と瞳には、昨日までには無かった力が宿っている。そんな風に、ソルには思えた。
「それと、ソルお姉様にもお願いがあります」
「何かしら?」
「はい。昨日、食事と一緒に気分を落ち着かせるためのお香もありましたけど。それも、ソルお姉様によるものでしょうか?」
「ええ、そうでしてよ?」
「では、あれはまだありますか? ありましたら、使わせて下さい」
「そういうこと? なら、構いませんわよ」
「有り難うございます。あと、ひょっとして、よく眠れるようになる薬とかも、ありますか? あったら、それも使わせて欲しいんです」
「ええ、よろしくてよ。でも、どうして?」
ソルが訊くと、ルトゥは少し俯いた。彼の拳に力が込められるのが見えた。
「僕は今、全力で休んで心を癒やすことに努めたいと思っています。でも、どうしてもふとした拍子に不安になったり、良くないことを考えて頭がいっぱいになったりして。そんな風になってしまうので。でも、それだと治りが遅いままだと思うんです。だから、ソルお姉様の薬に助けて貰えば、本当に休むことに集中出来るって。そう、思うんです」
「なるほど。そういうことですのね。分かりましたわ」
理屈は通っている。そうソルは判断し、快諾した。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
気分が良くなったときでいいから、手伝って欲しい。
朝食後にユテルからそう言われて、夕方頃にルトゥは彼の工作室へと訪れた。
工作室の戸を叩くと。「開いているよ」と返され、彼は部屋へと入る。
「失礼します」
「うん。気分は? 朝食後はすぐに部屋に戻っていったけど」
「お陰様で、今は大丈夫。だと思います。なので、来ました」
「そっか。ならいいや。でも、辛くなってきたと思ったら無理しないで言ってくれて構わないよ」
「はい。そうさせて貰います」
ルトゥは頷く。
「それで? 僕は何をすればいいんでしょうか? 手伝って欲しいことがあるって聞きましたけど」
「うん。ちょっと、そこの道具を使って、ゴキブリ捕獲用の罠を作って欲しいんだ」
「罠?」
ユテルが指さす先を見ると、そこには紙や刷毛が置かれたスペースがあった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
黙々と、ルトゥは罠を作っていった。
作業そのものはまるで難しいものではなかった。紙に刷毛で殺虫薬入りの糊を塗って、その上に糊が乾かないようにする為の油紙を乗せる。そうしたものを折り畳んだら、罠が完成するといった具合だ。
完成した罠は、側に置いた箱の中に入れて積み上げていく。
「作業は順調みたいだね」
「まあ、これくらいなら」
作り始めて10分くらいで、ユテルが声を掛けてきた。
「でも、これなら出来るとも言える。ルトゥ。君は何も出来ない奴なんかじゃない」
ユテルがどんなつもりで言ったのか。どう答えて良いものか分からなくて、ルトゥは押し黙る。
「僕の勘違いだったら謝るよ。でもルトゥ。君はひょっとして、自分には何も出来ないとか、そんな風に思ってたりしないか?」
「まるで、分かったように言うんですね。だいたい、合っているように思いますけど」
ルトゥは唇を尖らせた。
不機嫌さを隠し切れなかったのが、ユテルにも伝わったのか、苦笑を浮かべるのが伝わった。
「そんな罠を作れるという程度じゃ、君にとって何の価値も無い。そんな風に思う? 僕はこれでも、本当に助かったと思っているんだけど」
ユテルの問いに、ルトゥは嘆息した。
「正直、不満です。でも、そこまで気分が悪くもないです。誰かの役に立てているって、そう思うのは」
「うん。それなら、よかった。もしよかったら、これからもときどきでいいから手伝ってくれると嬉しい。いいかな? 姉さんもヴィエルも、あまり手伝ってはくれないんだ。その罠を作るのは、町の協力者に頼むのでもいいんだけど。工作の類いはね。男手が欲しい」
「力仕事とか、ですか?」
「そう。そんな感じ」
「なら、いいですよ。難しい作業でないなら」
「そっか。有り難う。助かるよ」
安堵したような声が、ユテルの口から返ってくる。だからこれは、彼の本心だとルトゥは理解した。
「僕はさ。姉さんやヴィエルのように、口は上手くないんだ。父さんや母さんのようにも振る舞えない。こうやって過ごすのが好きな、自分でも偏屈な奴だと思う。だから、話したいことをどう話せばいいのかもよく分からない」
静かな、自嘲をユテルは漏らす。
「ルトゥはさ? 馬は好きなの?」
「え? はい。ええと。父に乗馬も教わったので。でも、好きかって言うとよく分からないです。少なくとも、嫌いじゃないですけど」
うん。と、ユテルは頷く。
「僕はさ。馬が好きなんだ」
「そう言えば、前に言っていました。覚えています」
「ああ。でも、僕は小さい頃に、馬を死なせてしまったことがある」
ユテルの告白に、ルトゥは息を飲んだ。
「歳がいつの頃だったかも、よく覚えていない。けれど、速く走る馬が好きで。父や母が目を離した隙に、勝手に一人で乗って。限界まで走らせようと、上から滅茶苦茶に鞭や蹴りを入れて、そいつを僕は怒らせ暴れさせ、挙げ句は死なせてしまった。人に従順で、大人しい性格の奴だったのに」
ユテルの感情を押し殺した声に、ルトゥは何も言えない。
「あいつの悲鳴と最後に向けてきた目を僕は生涯忘れないと思う。後悔しているんだ。酷く落ち込んだ。すぐには立ち直れなかった。父さんも母さんも、それが全部、馬のせいだって考えて、僕を責めはしなかったけれど」
「だから、馬車での事故を減らす方法を考えるようになったんですか?」
「ああ、そうさ」
ユテルは深く息を吐いた。
「僕はさ。そうやって、何かをしようと思って立ち上がるまでに時間が掛かったんだ。寝ても覚めても、後悔が襲ってきて。じゃあ、後悔にどう立ち向かえば良いんだって考えられなくて。自分が、どうしようもない、何も出来ない無価値な人間だって思ったよ。はっ、ガキのくせに何を絶望して自分を追い詰めてんだっての」
そこまで言って、ユテルはルトゥに笑みを向けた。
「僕が言いたいのは。ルトゥは今、色々と後悔しているかも知れない。けれど、お前は何も出来ない無価値な人間なんかじゃないし。こうやって、立ち上がってきただけでも価値があるし立派だっていうこと。そういうことを言いたいって思った。頼みたいことって言っておきながら、その実、単にこういう事を言いたかっただけなんだ。悪い、上手く話せなくて。僕も、言っていてよく分からないんだけど」
ルトゥは首を横に振った。
「いえ。言いたいことは、よく分かりました。有り難うございます。そう言って貰えて」
「なら、よかった」
「でも。あと、僕なら大丈夫です。後悔は先には立たないけれど。僕ももう、後悔したままで、いつまでも地べたに這いつくばっていたくはないと。そう思っていますから」
それだけは確かな思いだと、ルトゥは告白した。




