第76話:残された想い
別れは突然だった。
ソルがベリエに告白し、ふられた翌日。彼女が学校から戻ると、彼はもう屋敷からいなくなっていた。
ソル達が登校してさほど時間も経たない頃に、彼が屋敷を出て行ったことを両親から聞かされる。
「俺達も、色々と言って引き留めようとしたんだけれどね。ソルが最後に絵を確認して、納得しない限りはダメだとか。ちょっとした席を設けて、感謝や別れを伝えたいとも言ったんだが。どうしても、今日発ちたいと言って聞かなかったんだ」
「これ以上ここにいると、いつまでも居座ってしまいそうで、別れが辛くなるみたいなことを言っていたけれど」
「そう。なんですの」
せめて、最後に一言くらいは交わす機会はあるものかと思っていたが。
昨晩のあれが彼との最後の会話だと思うと、胸に穴が空いたような気持ちになる。とはいえ、こうでもしてくれないと、自分もいつまでも引きずりそうな気もしたが。
「私の絵は、どこにありますの?」
「あそこにあるよ。とてもよく描けている」
エトゥルが居間の奥を指さす。そこには、イーゼルとキャンバスが置かれていた。
ソルは無言で、その絵の前へと向かった。
「どう? ソルから見て、この絵で満足出来るかしら?」
「ええ、勿論ですわ。これまでにも何度も、ベリエさんが仕上げていくのを見てきたんですもの」
ソルは頷く。
「そうか。それなら、よかったよ」
エトゥルが安堵の声を上げた。
「それと、ベリエさんから伝言よ」
「何て?」
「『ソルお嬢様が、本当に愛し合えるお相手と結ばれることを願っています』って」
「そう」
これは、どう考えればいいのだろう?
けれど、あまりにも色々と突然で、非現実的で、頭が回らない。色々な感情が胸の奥で渦巻いているけれど、それが言葉にならない。
「私は、本当にそんな人と結ばれる事が出来るのかしら?」
気付けば、ポツリと。そんなことを呟いていた。
その声に、ソルは我に返る。
「何を言っているの? 当たり前じゃないの」
明るい声で、ティリアが力を込めて、ソルの両肩に手を置いてくる。
「お母様」
見上げると、すぐ傍に笑顔を浮かべるティリアの顔があった。
「この絵をご覧なさい? だって、こんなにも可愛い娘なのよ? 素敵な男性の目に止まって、ソルを幸せにしてくれるに決まっているわ」
そうだそうだと、エトゥルも頷く。
「でも私、少し恐いんですの」
「何が?」
「この絵を王都に送って、それで誰にも見初めて貰えなくて、お父様やお母様の期待を裏切ってしまったり。私を見初める方が、私がとても受け入れられないような方なのに、無理矢理迫ってきたりしないかって。ごめんなさい、変なことを言ってしまって。そんな、恐い夢を見たものですから」
ソルの言葉に、エトゥルとティリアは顔を見合わせる。そして、苦笑を浮かべてきた。
「ソル? お前は、何を馬鹿なことを気にしているんだ」
「だって――」
「いいかソル? 俺達がこの肖像画をベリエさんに依頼したのは、あくまでもソルを幸せを考えてのことだ。それが一番の目的なんだ。前に言わなかったか? 俺は、お前が添い遂げる相手を見付けるときは、お前を一番大事に想ってくれる男に選んで貰って欲しいって」
「そうよ。ソルが想えないような相手なんて、私達も認めないんだから」
「たとえそれが王子様だったとしても、ソルが気に入らないなら、俺はガツンと言ってやるぞ?」
「まあ、あなたったら」
軽口を叩くエトゥルに、ソルは笑みを浮かべる。実行力はともかく、気持ちはそうなのだろう。本気でやりそうなら、かなり痛い目を見せてやる必要があると思うが。
「だからソル? 変なことを気にしなくてもいいのよ?」
結局、以前に見た悪夢はただの不安が見せた杞憂でしかなくて。彼らが言うとおり、馬鹿な考えだったのだろう。
「ありがとう。お父様、お母様」
でもようやく、その不安が消えた気がした。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
自室で自分の肖像画を眺めながら、ソルは大きく息を吐いた。
覚悟を決める。
「リュンヌ。来て」
でも、囁く程に小さな声になったのは、これなら来てくれなくても言い訳がつくという、そんな臆病な心によるものからだったかも知れない。
部屋に、静寂が続く。
やはり、そうなるかと、ソルは自嘲する。
けれど、それも十も数えるかどうかという話。
「お呼びでしょうか。ソル様」
これまで通り、リュンヌは召喚に応じた。応じてくれたことに、ソルは少し驚く。期待していたはずなのに。
肖像画から視線を上げないままに、ソルは訊いた。
「リュンヌ? 怒っているかしら?」
「何をですか?」
感情の籠もらないリュンヌの声。それが、余計にソルの心臓を締め付けた。
「私が、あなたと叩いたことをですわ」
リュンヌが大きく溜息を吐いてくるのが聞こえた。
「何を言うかと思えば、そんなことですか。そんなことで、いちいち怒りませんよ。あと、人を呼ぶときはもっとはっきりと呼んで下さい」
それは、心底呆れたと言わんばかりの、いつもの彼の口調だった。
「だいたい、いつも酷いのに扱き使ってくれているでしょうが。そんなことを謝るより、もう少し飲ませる薬のことを気にして欲しいくらいです」
「な、なんですのその言い草は? 言っておくけれど、私は絶対に謝りませんわよ?」
ソルは思わず顔を上げて、リュンヌを睨み付ける。が、リュンヌは肩を竦めるだけだった。ソルは唇を尖らせる。
こんな態度を取られるのなら、あれこれと悩んだ自分が馬鹿みたいじゃないかと。
「ただ、話がセリオの事だというのなら、もう少し時間を頂けないでしょうか。僕もまだ、心の整理がついていないので」
「構いませんわ。元々、それを話すつもりはありませんでしたもの。とはいえ、少しは関係がある話なのかも知れないけれど」
「そうですか。それなら、僕も構いません」
ソルは頷いた。
「もう終わった話ですけれど。一応、言っておこうと思いましたの。私は、ベリエに告白して、ふられましたわ」
「え? そうなんですか?」
「ええ、だからきっと、あの人も私と顔を合わせづらくなって、こうしてさっさと屋敷を出て行ったのでしょうね」
リュンヌは何も答えなかった。
「でも、やっぱり分かりませんの。あの人は、あんなにも私のことを好きだって言ってくれたのに。いざそれに応えようとしたら、こうして去ってしまった。私を幸せにすることは出来ないからとか言っていましたけど。なら、本当に私のことを想ってくれていたのかって。でも、疑おうとしても、この絵を見るとやっぱり疑えなくなって。あの人の気持ちが、分からないままで。だから、リュンヌなら少しはあの人の気持ち分かるのかもって、参考に、話を聞かせて欲しいんですの」
そう言うと。
リュンヌは半眼を浮かべ、大きく溜息を吐いてきた。
「本当に、馬鹿ですかあなたは?」
「なっ!?」
人が真剣な思いで訊いているのに、何なのその態度?
途端、ソルの目がつり上がる。
「そんなもの。本気で愛していたに決まっているでしょうが。でなければ、そんな絵が描ける訳ありません」
「でも、それなのにあの人は私を拒絶して――」
「それも、ベリエさんが言ったとおりです。変に疑わなくていいですから。本気でソル様を想っていたけれど。自分では幸せに出来ないと考えて、身を引いたんです」
「そうなの?」
「そうですよ。男って生き物は、本気で女を愛するときには覚悟や責任を持つんです。相手を一生、命を懸けて幸せにするという決意とか。そんなものをまるで感じないのなら、そいつは男でも何でもありません。ソル様も嫌いなタイプだと思っていましたが? そういう、軽薄で女を大事に思わない男は」
「ええ、嫌いですわ」
ソルは大きく頷く。
「ベリエもそれだけの想いをソル様には抱いていたんですよ。だから、現実的にソル様を幸せに出来るかを冷静に考えて、それは違うと考えたから、身を引いたんでしょう。本人としても、悔しかったんじゃありませんか? 一番にソル様を想うからこそ、身を引くことが最善だって考えるのは」
「でも、それを実行した?」
「そうです。自分ではない誰かに、ソル様を本当に幸せにしてくれることを託して」
「そう。リュンヌがそう言うのなら、きっとそうなのね」
「もう少し、ソル様は男心ってものを理解した方がいいと思いますよ? 本気で」
「五月蝿いですわ」
まったく、どうしてこう、こいつはこんなにも口が減らないのかと。
ひょっとしたら、セリオはこんな奴と結ばれなくて正解だったのではないかと。そんなことをソルは思い直した。あんないい子は、こんな奴には勿体なさ過ぎる。
「でも、どうしてまた、急にベリエに告白を? ソル様、あの人の事がそんなにも好きだったんですか?」
「気にならなかったと言えば、嘘になりますわ。あの人と結ばれたなら、幸せになれるとも思ってましたし。ただ――」
「ただ?」
「あの人に言われましたの。『私"が"いいのか』。それとも『私"で"いいのか』って。それを訊かれたら、やはりそこまでの想いだったとは、それも言えませんわね」
「なるほど」
「それに、あの時は違うって言いましたけれど。やっぱりリュンヌへの当て付けという側面は大きかったですわね。そこも、見抜かれていましたわ」
「僕ですか? 何故そこに僕が?」
「私がさっさと片付けば、あなたも晴れて自由に恋愛出来るって思ったんですのよ」
ふてくされるように、白状する。
「そんなことを考えていたんですか」
リュンヌから、また呆れたような声が帰ってきた。
「本当に、ソル様は馬鹿ですね」
けれど、その口調は、ほんの少しだけ優しい気がした。
「僕のことなんか、気にしなくていいんですよ。ソル様は、ソル様が本当に想える相手と結ばれればいいんです。それが、僕の望みでもあるんですから」
「分かりましたわよ」
なら、事あるごとに「想える相手はいないのか」とか、聞かないで欲しいとも思うが。
「でも、そうなると。流石に少し不安にはなりますわね。これで、もう三人に連続してふられたんですもの。本命はアストル王子ですけれど。私が本当に想うことが出来て、私を本当に想ってくれる殿方って、いるのかしらね?」
だから、ベリエからの想いも、不安で確かめたくなってしまった。
「大丈夫ですよ」
「そう?」
リュンヌは頷く。
「ええ、絶対に大丈夫です。何故なら――」
続く言葉は、無かった。
ぱくぱくと、声も無くリュンヌの口が開閉する。
「リュンヌ? 急にどうしたの?」
リュンヌは自身の喉に手を当てた、これまでに見せた事が無いような、動揺した表情が浮かんでいる。
「――かっ!? はっ!?」
次の瞬間、リュンヌの首の周りに赤い光が浮かんだ。
リュンヌは口を大きく開けて、目も大きく見開き、膝から崩れ落ちる。苦悶の表情を浮かべながら、舌を突きだして。
まさか、息が出来ていない?
そういえば、リュンヌの首が、細くなっている? まるで、赤い光に喉を締め付けられているかのように。
あまりにも突然の出来事に、ソルは動揺を抑えることが出来ない。慌てて駆け寄るものの、こんなのどうすればいいのか。
「リュンヌ? ちょっとリュンヌっ!? しっかりして!」
青ざめるソルの前で、リュンヌは悶絶し続けた。
エトゥル「俺なら言うぞ。ソルのためだったら、相手が王子様だろうとガツンと言ってやるからな。俺、そういう男だから」
暗転。
瞬間移動。
エトゥル「(ん? どこだここ? 凄い立派な部屋なんだけど?)」
エトゥル「(あれ? 急に目の前に現れた目の前の少年、ひょっとして王子様? 俺、会ったこと無いけど。何故かそんな気がする)」
アストル「そうか、其方の気持ちは私としてもとても気になるところだ」
アストル「是非とも、其方の率直な思いを聞かせて欲しい」
アストル「さあ、ガツンと言ってみてくれ」
デ~デレデデ♪ デンデデデデ♪ デデン♪ テレテテテ~♪
エトゥル「…………(生唾を飲む)」
エトゥル「…………(取りあえず、目の前にあるお茶を手に取る)」
エトゥル「――っていう夢を見たんだ」
ソル「何故だか、猛烈に古い感じがしてなりませんわ。ナウなヤングには到底分かりそうにないような」
リュンヌ「ソル様には言われたくないと思います」




