第75話:分からず屋な男の気持ち
その晩、ソルはベリエがいる部屋へと訪れた。
夕食は済ませたものの、まだ寝るには早い。そんな時間だ。
「夜遅くにごめんなさい。少し、ベリエさんとお話ししたくて来ました」
「いえ、構いません。私でよければ、なんなりと」
突然の来訪だったというのに、キャンバスに向かっていたベリエは、柔らかい笑みを浮かべて出迎えてくれた。そのことに、ソルは安堵を覚える。
「お仕事の様子は、どうですの?」
「順調です。あともう少し、今夜で仕上げるつもりです。ご覧になりますか?」
「ええ」
頷いて、ソルはベリエの傍へと駆け寄った。
彼の隣で見る、自分を描いた肖像画。先日も見た通り、絵の中の自分は、気高く、気品があって愛らしく、強い意思を感じさせる、そんな少女だった。理想の自分だった。
「如何ですか?」
「ええ、とてもいい絵だと思いますわ。ベリエさんにお願いして、良かったと思いましてよ」
本心から、ソルは思ったことを伝えた。
「それは良かったです。私もそれが聞けて、ほっとしました」
嘘偽りが無いことが伝わったのだろう。ベリエは心から嬉しそうに、笑みを浮かべていた。
「なら、本当にもうこれで、完成ということになるんですの?」
「はい、そうなりますね」
「ベリエさんは、この絵の女の子をどう思っていますの?」
「何を今さら。その答えは、もうとっくにソル様には伝えた話です」
ちくりと、ソルの胸が痛んだ。
けれど、躊躇うのは一瞬の話だった。覚悟はもう、決めている。これまで、散々にセリオに焚き付けていたのだ。それが、自分の番になって覚悟を決めていないなど、あってはならない。
「なら、この絵が完成したら、私をこの屋敷から連れて行ってはくれませんこと?」
ベリエが息を飲むのが分かった。
信じられないものを見るように、彼の目が大きく見開かれ。自分を見上げてくる。
「あの? それは? どういう――」
「はっきりと言わなければ分かりませんの? 私はあなたの愛を受け入れます。そういう意味ですわ」
自分が今、どんな顔をしているのか分からない。
けれど、きっと不安に押し潰されそうな、今にも泣き出しそうな。そんな顔を見せているような気がした。だが、口に出した以上、もうその言葉を引っ込めることは許されない。
胸に腕を押し付けて、ソルはベリエの返答を待つ。
しかし、彼は答えようとしなかった。まるで何かを堪えるように。告白した直後は、確かに輝くほどに嬉しそうな表情を浮かべてくれたというのに。
期待を裏切るベリエの反応に、ソルは嫌な予感を抑えられなくなる。
「ベリエさん? どうして? どうして、何も言って下さらないんですの?」
こんな話は、信じたくなかった。嘘だと思いたい。
視界が狭く、遠くなる。床が無くなったような。そんな錯覚。
「申し訳ありません。その申し出は、私には身に余る光栄です。ですが、謹んでお断りさせて頂きます」
「どうしてっ!」
思わず、叫びそうになる。けれど、泣きたくなるような思いで詰まって、声は思うように出なかった。
「嘘だったんですの? あれだけ、私のことを愛しているって言ってくれていたのは。全部、仕事の為で。嘘だったんですの? 本当は私の事なんて、好きでも何でもなかったっていうんですの?」
「違います。そうじゃない。そうじゃないんです。私は、心の底からあなたを愛しています。今、この瞬間も。これは、誓って真実です」
「なら、どうして私を受け入れてはくれないんですの? それが、ベリエさんの望みなんですのよね?」
「受け入れられるものなら、そうしています」
「何を言っているんですの? 私は、ベリエさんのものになるって言っているんですのよ?」
ベリエは、力無く嗤った。
「そうですね。実際、ここに来てソルお嬢様と出会う前なら、喜んで受け入れていたのだと思います。ですが、今は違う。今、ここで私はソルお嬢様を受け入れることだけは、出来ないのです」
「何故、そんなことを言うんですの?」
「私では、あなたを幸せにすることが出来ないからです」
「身分の話ですの? 依頼人と画家という立場の話ですの? それとも、ベリエさんが他に、個人的に悩んでいることでもあるんですの? 経済的な問題や、病気でもあるんですの? ですが、そんな話でしたら私は――」
「いいえ。違う。違います。そういう話ではないんです」
ベリエは首を横に振る。そして、そんな彼の姿にソルは既視感を覚えた。
「どうして? あなたもそんな、泣きそうな顔をしながら女をふるんですの?」
そう、その顔はつい何時間か前にも見た顔だ。セリオをふったときのリュンヌの顔と同じ。
「リュンヌ君と何かあったのですか?」
失言だった? 動揺していたとはいえ、思わず出た言葉に、ソルは血の気が引いた。
「その話、どこから? あいつが、何かベリエさんに言ったんですの?」
「いいえ何も? 先日、リュンヌ君に想いを寄せる娘の恋を応援していると、ソルお嬢様から聞いていましたから。そして、今日は夕方にお屋敷に戻られるのを見掛けて。そのご様子がいつもと違っていて。ユテル様やヴィエル様も居心地が悪そうにしていましたので」
ソルはベリエから視線を逸らした。
「別に、何でもありませんわ」
「嘘ですね」
断言される。ソルは観念した。この男に嘘は通じない。彼は、そういう目を持って生きている男だ。
「私とリュンヌの間で何かあったと思うから、私を受け入れない。そういうことですの?」
「はい。これはあまりにも、唐突に思えたので」
なるほどと、ソルは理解する。どうして自分はこう、肝心なところで詰めが甘いのかと嫌になる。
「その娘はね? 本当にいい子で、あいつを幸せにしてやれるような。そんな娘だったんですのよ? それをあいつは、私の世話を理由にふったんですの。そんなに、私が重荷だって言うんですの? 泣きそうなくらいにふるのが辛いのなら、受け入れればいいじゃありませんの」
ベリエは同意も否定もしてこなかった。
「でも、決してリュンヌへの当て付けのためにベリエさんに近付いたとか、そういう訳ではありませんの。本当に想う気持ちが無かったのなら、私は決してベリエさんに対してこんな事を言ったりはしませんわ。私は、そういう女ですのよ。ベリエさんを想う気持ちがあったから、こうしてここに来たんです」
「そうですね。ソルお嬢様に、私に少しでもそういうお気持ちがあったことは分かります。そして、だからこそ、こう言っては何ですが、嬉しいのと同時に堪えるのが辛いし、自分でも馬鹿だと思っています」
少しの間目を瞑ってから、ベリエは静かに聞いてきた。
「ですが、ソルお嬢様。私からも訊かせて下さい。ソルお嬢様は、私"が"いいと思って先ほどの言葉を言われたのですか? それとも、私"で"いいと思って言われたのですか?」
「それは――」
ソルは言葉に詰まった。そして、それこそが明確な答えだった。
「つまりは、そういうことです。我ながら、つまらない意地だと思います。けれど、それではソルお嬢様が本当に想う人と結ばれるという事にはならないじゃないですか。そんな事は、私には耐えられません。お付き合いすることで、自分こそがそういう男になるべきだと、そう言ってくる自分もいますが。やはり無理でしょう。無邪気に恋するには、あなたは、私には眩しすぎる」
「そう。分かりましたわ」
本当のことを言うと、よく分かっていない。精神的に辛くて、何がどれだけ頭の中に入っているかというと、怪しいものだ。
ただ一つ確かに分かることは、何をどう言おうと、自分はふられたという事だけだ。
「私の想いは、あなたの意地に負けた。つまりは、そういう事ですのね」
ソルの自嘲にベリエは答えなかった。それこそが、明確な答えだった。
「ついでに、一つ訊かせて貰えないかしら? 参考までに教えて欲しいのだけれど。リュンヌも、意地を理由にあの子をふったのかしら? 殿方なら、分かるものでして?」
リュンヌとベリエ、彼らに何か共通点が有るのかと思い、訊いてみる。
「それは、同じ男として、少しだけ彼の気持ちは分かる気がします。ですが、決して私の口から言うべき話ではない。そう思います。それを話すことがあるとすれば、話す資格を持つのは彼だけでしょうから」
「そう。なら、もうよろしくてよ。邪魔しましたわね。それでは、お休みなさい」
そして、ソルは踵を返した。部屋の出口へと向かう。
「ソルお嬢様。最後に、もう一度だけ言わせて下さい」
ドアノブに手をかけたとき、背後からベリエの声が聞こえてきた。ソルは、立ち止まる。
「私は、あなたを心から愛しています」
「ええ、私もあなたを少しだけ、愛していますわ」
そう返して。ベリエに振り向くこと無く、ソルは部屋から出て行った。




