第71話:癒やされたい男
学校の昼休み。
リュンヌは校庭の片隅で空を見上げていた。本当なら、情報を集めに回らないといけないのだろうが、とてもそんな気分にはなれなかった。気力がごっそりと抜け落ちているのを自覚する。
改めて思う、ソルは悪魔の化身か何かじゃないかと。
凄まじく怪しい薬を飲まされたのが三日前の事だ。美肌効果が期待出来る薬だとか言っていたが、本当かどうか疑わしい。味については、思い出したくない。というか、思い出せない。悪い意味で、天国が見えた気がする。
そして、それを皮切りにと言わんばかりに、ソルからの要求が増えた。ほとんど難癖じゃないかという指摘もある。姑からのいびりってこんな感じなのだろうか? などと、リュンヌは思う。
「参ったなあ」
どこかで彼女の不興でも買ったのだろうかと考えるが、それも思い当たる節が無い。
そもそも、何となくではあるが。気に入らないことがあれば、直接言ってくるのが彼女だと思っている。まあ、癇癪をぶつけてくるという方が正確かも知れないが。
それに、彼女の言ってくる話も、どれも筋は通っている話ではある。しかも、こちらがこなせるかどうかぎりぎりの線を見極めて言ってくるのだから、断りづらい。
リュンヌは大きく肩を落とし、溜息を吐いた。
「あの? 大丈夫ですか?」
「うわっ!?」
不意に聞こえてきた呼び声に、リュンヌはびくりと体を震わせた。
声の主に視線を向けると、そこにはつい先日会った少女が立っていた。
「ごめんなさい。びっくりさせてしまいましたか?」
「あ、ああ。うん。大丈夫だよ。ちょっと、ぼんやりしていただけだから」
だとしても、ぼんやりし過ぎだと、リュンヌは思った。それなりに、周囲の気配には敏感なつもりだったのだが。人が近付いてくるのにも気付かないとは、どうやら相当に疲れが溜まっているようだ。
「君は、確か一つ下の学年のセリオさんだったよね? 僕に、何か用? あ、そうか。この前言っていた、お礼の話かい?」
「はい。リュンヌさんって、どんなものが贈られたら嬉しいのかなって悩んでしまって。それで、よければ教えて欲しいって思ったんです」
「ああ、なるほどね」
にこやかに、リュンヌはセリオに笑みを返した。精神的に参っているときに、こういう話題は心に染みる気がする。
「でも、さっきも訊きましたけれど。本当に大丈夫ですか? リュンヌさん、凄く疲れているように見えたんですけれど。何か困っていることとか、悩んでいることがあるんですか?」
「ああうん。まあ、ね? ちょっと色々とあって」
リュンヌは乾いた笑いを漏らす。
「やっぱり、何か悩んでいることがあったんですね」
セリオは沈痛な表情を浮かべてきた。リュンヌとしては、そう深刻に考えて欲しくなくて、それで笑みを浮かべたつもりだったのだが。
「リュンヌさん。何に悩んでいるのか、私に聞かせて貰えないでしょうか?」
「え? でも」
「私なんかじゃ、やっぱり頼りないでしょうか?」
「そういう訳じゃ、ないんだけどね?」
「なら、聞かせて下さい。本当に力になれるかどうかは分かりません。でも、人に話すだけで楽になるっていう話もあると思いますから」
「気持ちは、有り難いんだけど」
「ダメ、ですか?」
リュンヌは呻く。
身長低めの少女が、上目遣いで、縋るような視線を送ってきた。しかも、今にも泣き出しそうな顔で。
こういう顔は、卑怯だなとリュンヌは思う。女の子の涙は、男としては、やはり抗いがたいものがある。
「私、リュンヌさんがそんな顔しているの、嫌です。助けてくれた人がそんな顔しているなんて、心配になってしまいます」
ずきりと、リュンヌの胸が痛んだ。
仕方ないと、リュンヌは諦める。
「分かった。そこまで言われたら、僕も黙っている訳にはいかなさそうだ。気を遣ってくれて有り難う。嬉しいよ」
「じゃあ?」
ぱぁっと、花が咲くようにセリオの顔が明るいものになる。その笑顔は、とても可愛らしいものに思えた。
リュンヌは頷く。
「うん、ちょっとだけ、愚痴に付き合って貰えるかな?」
「はい、喜んで」
「あ、でもその前に確認したいことがあるんだけど」
「確認したいこと。ですか?」
セリオは小首を傾げた。
「うん。君って、口は固い方?」
「リュンヌさんの秘密を言いふらしたり何て、しません」
固い決意をその瞳に宿して、セリオは大きく頷いた。
「なら。信用するよ。くれぐれも、他言無用だからね? もしも、ソル様の耳に入ったら、君も僕もどんな目に遭わされるか分かったものじゃないから。絶対に誰にも言ったらダメだからね?」
「そんなに、危ない話なんですか?」
「ああ」
ごくりと、セリオの喉が上下するのが見えた。
まあ流石に、いくらソルでも命までは取らないだろうとリュンヌは思う。だが、万が一の時には命を捨てる覚悟でこの少女だけは守るつもりだ。
「実は、ソル様の話なんだけどね。ここ最近――」
そして、最初はほんの少しだけのつもりだったが、いざ愚痴り始めると止まらなくなってしまった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
放課後、とある女子トイレにソルとセリオは集まった。校舎の端の方にあるトイレなので、ほとんど利用されることは無い。
にやりと、ソルは笑みを浮かべる。
「ふふ。聞かなくても分かりますわ。その顔、すべて上手くいったみたいですわね?」
ソルの前で、セリオは幸せ一杯の笑顔を浮かべていた。少し、嫉妬の感情も湧きそうなくらいだ。
「はい。今日はリュンヌさんと一杯おしゃべり出来ました。お礼も、マドレーヌでいいって。楽しみにしているって言って貰えたんですよ」
「それは結構ですわ」
ソルは満足げに頷いた。
「ところで? 一つ聞いておきたいんですけれど」
「はい。何でしょうか?」
「リュンヌはいったい、私のことをどのように言っていたのかしら?」
訊くと、セリオは露骨に視線を逸らした。
「それは、リュンヌさんとの約束なので、言えません。ただ――」
「ただ?」
「流石に少し、リュンヌさんを虐めすぎではないでしょうか? もう少しだけ、手加減とかあっても、いいのではないかと思います。 いえ、ソル様が私のために悪役を買って出てくれているのは分かりますし、本当にありがたいと思っていますけれど」
途端、ソルは目を細め、セリオを睨んだ。冷笑を浮かべる。
「セリオ? あなた、私がリュンヌに何をしたか? 私がどういう女か、リュンヌから全部聞いているんでしょう? それでもなお、この私に秘密を作り、あまつさえ意見をしようっていうんですの? それがどういう意味か、頭が回らなかったのかしら? あなた、自分がどういう立場か理解していますの?」
セリオは短く悲鳴を上げた。
「申し訳ありません。で、出過ぎたことを言っているのは分かります。ですが――」
「あら? その可愛いお口は、まだ口答えをしようと言うんですの? まったく。こうして女の子に命の危険も省みない真似をさせようだなんて、リュンヌも罪な男ですわね」
くっくっと、ソルは我ながら邪悪だと思える笑い声を漏らす。
「さあ? これだけ言えば分かったでしょう? あいつが、何て言っていたのか教えなさい?」
「嫌です」
即座に、はっきりとセリオは拒絶してきた。
そんなセリオをソルはじっくりと観察する。
こちらが急に態度を変えたことに、困惑は隠し切れていない。自分が迂闊にもやらかしたことに対する、恐怖も理解していることだろう。そんな、怯えの表情がありありと見て取れた。
けれども、懸命に、震えながらもその瞳はソルへの対抗心と決意の光を宿していた。
「一応、確認しておきますわ。あなた、本当に分かった上で言っているんですの?」
「はい」
再び、即答が返ってくる。
「なら何故、そこまでしてそんな話を秘密のままにしようって思いますの?」
「約束だからです。好きな人との約束は守りたい。そして、出来れば好きな人のために、出来るだけのことはしたいと思うのは、普通の気持ちではありませんか? だから、私は絶対に言いません」
「なるほど。ねえ」
ソルは口元に手を当て、くっくっと笑みを浮かべた。甘ったるくて、本当に愉快な答えだと思う。
表情を和らげる。
「あなた、本当にリュンヌのことが好きなんですのね」
「はい」
やれやれと、ソルは肩を竦めた。
「そう。なら、それでよろしくてよ。むしろ、それだけ本気でリュンヌのことが好きだという事が確認出来て良かったですわ。試すような真似をして、ごめんなさいね」
「え? さっきのって、私のこと、試していたんですか?」
「ええ、そうですわ。それと、ちょっとからかってみたくなったんですの」
そう答えると、一気にセリオの顔が崩れた。
「酷いです。私、本気でソル様のこと恐かったんですよ?」
非難がましく、睨んでくる。だが、そんな涙混じりの視線を向けられても、やはり可愛らしいものにしか受け取れない。ソルにしてみれば、仔猫の威嚇のようなものだ。
「悪かったわよ。あと、リュンヌのことも、考えておきますわ」
これで、機嫌直してと。ソルはセリオの頭に手を置いて、撫でた。
素直でいい娘だと思う。こんな娘なら、きっとリュンヌも幸せになれることだろう。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
その晩。
リュンヌはソルからの召喚に応じ、彼女の部屋を訪れた。
「リュンヌぅ? ごめんなさいね。今日もあなたに、新薬の実験台になって欲しいんですの」
「はあ」
喜色満面といった表情を浮かべるソルを見ながら、リュンヌは半眼を浮かべる。
「あの? ソル様? 何かいいことありました? 物凄くご機嫌に見えるんですけど?」
「別にぃ? 何もありませんわよぉ?」
嘘吐けとリュンヌは思った。変なイントネーションが入るくらいに上機嫌じゃないかと。今にも鼻歌を歌いそうなくらいじゃないかと。
「そういうリュンヌは。何かいいことあったのかしら? 朝は疲れているように見えたけど、帰るときは少しすっきりしたように見えましたわ」
リュンヌは胸が痛むのを感じた。ああ、これが悪魔に心臓を握られる感触ってやつなんだなと実感する。
あと、誰のせいでそんなにも疲れた顔しているのかと。
「別に、何もありませんよ」
「あらそう?」
少しだけ残念そうに、ソルは唇を尖らせた。リュンヌは、努めて平静に答えたつもりだ。セリオの存在を気付かれてはいけないし、これで勘付かれてはいないと信じたい。
「まあ、それならいいですわ。それで、新薬なんですけれど」
「今度は何ですか?」
「そんな、疲れ気味のリュンヌのために、改良型の疲労回復薬を作ってみましたの。ここ最近、私もリュンヌのことを扱き使いすぎたかも知れないって思ったんですのよ? これを飲んで、明日からもよろしく頼みますわ」
「それは、どうも」
でも、本当に自分のことを気遣うのなら、新薬の実験台をしばらく控えて欲しい。そう、リュンヌは思った。
「これまでの疲労回復薬に比べて、ちょっと苦いかも知れませんけれど。その分、よく効くはずですわ」
「ちょっと? 本当にちょっとだけなんですよね?」
「まあ? そう言われると? 感じ方や効能には、多少の個人差があると思いますわ」
「うわぁ、嫌な予感しかしない」
それでも、リュンヌはソルの願いを断ることは出来ないのだった。
そして、今夜も悪い意味で天国を見ることになった。
セリオ「ソル様、リュンヌさんのこと。考えてくれるんじゃなかったんですか?」
ソル「いいですこと? 私は確かに『考えておく』と言いましたわ。しかし、その時と場所までは指定していない。そのことをあなたにはよく思い出して欲しいものですわね。つまり、私がその気になれば、実行は10年20年後ということも可能ということ……っ!」
ざわ……ざわ……
セリオ「あの? ソル様? 鼻と顎が物凄く尖った顔になっている気がするんですけど? 絶対に、正ヒロインがしてはいけない顔になっている気がするんですけどっ!?」




