第62話:伝えたい想い
ベリエはキャンバスに向かう。
既に描いたソルの姿に対し、微妙な修正を加えていく。目付きや表情といったものを。
だが、それらは些細な問題の部分だ。本当に直し、描くべき部分は、彼女を取り巻く空気感。背景の部分。
ようやく、彼女の魂が少し視えてきた気がする。どうして、何を恐がっているのか分かってきた気がする。
彼女は今、自分に自信が無い。
バラのようにありたいと思いつつも、そんな高貴さや愛らしさも持たない、棘しか持たない少女だと思い込んでいる。自分の悪いところにしか目が行かなくなってしまっているのだろう。
家族のことを本当に大事に想っている。好かれる娘でありたいと思っている。けれど、それ故に彼らの期待を裏切ってしまう可能性を恐れているのだ。
馬鹿なことを思わないで欲しいと思った。自分でも何故こんなにもとは思うが、ベリエは無性に腹が立った。
彼女を不安にさせてしまったのは己の未熟のせいだ。彼女をそんな風にはしたくなかった。
だから、精一杯に伝えようと思う。あなたは愛されているのだと。例え何がどうなろうと、あなたの周りにいる人達は、決してあなたを見捨てることはしない人達なのだと。
暖かな空気感をソルの周囲に描いていく。
これで少しは、彼女の懸念が晴れることを願いつつ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
数日後、絵の具も乾いたところでベリエはソルを初め、彼女の家族に肖像画を見て貰った。
「お待たせして、申し訳ありませんでした。まだまだ途中ではありますが、ようやく少しイメージが固まってきたので、皆さんにも確認して頂きたいと思いました。如何でしょうか?」
「ソルの顔などはまだほとんど塗られていないようだが、これは後から手を入れていくということでいいのかい?」
エトゥルの問いに、ベリエは頷いた。
「はい。その通りです。ソルお嬢様ご本人につきましては、より慎重に描いていきたいと思っているため、今しばらくお待ち下さい」
「そうか。いや、それでもソルの可愛さがよく描けているように思うよ。それに、背景の優しい色合いが、よく引き立てていると思う。私は、完成が楽しみだ」
「そうね。私もよ。ソルをこんなにも綺麗に、優しい感じに描いて貰えるなんて。嬉しいわ。ソルのイメージにぴったり」
「そうだね。僕は、姉さんにしては綺麗すぎる気はするけど、悪くないと思う。ちょっとお澄まししたときとか、実際こんな感じだし。嘘は言ってないよね」
「もう、お兄様は減らず口を言って。でも、いいなあ。私もこんな風に描いて貰いたいなあ」
おねだりするようなヴィエルの視線に、両親は笑みを浮かべる。「もう少し、大きくなったらね」と彼女に約束していた。「僕には?」と訊くユテルには「お前は、せめてもう少し次期当主としての自覚を持ったらな」と返していたが。
暖かな家族の会話に、見ていてベリエも思わず心温まるものを感じる。
そう、最初にこの家族の肖像画を描かせて貰ったときのイメージ通りだ。こういう愛情は、ソルにも向けられている。
それを肖像画にも込めたかった。
その結果かどうかは分からないが、彼女の家族には好評のようだった。そのことに、ベリエは少し安堵する。
「如何でしょうか? ソルお嬢様」
それまで無言で絵を見詰めていたソルに、ベリエは訊ねる。
ソルは、優雅に、にっこりと優しい笑みを浮かべてきた。
「ええ。とてもいい出来だと思いますわ。こんなに綺麗に描いて貰えるなんて、身に余る光栄だと思いましてよ。少し、恥ずかしいくらい」
そう言って、彼女ははにかむ。
しかし、ぎくりとベリエは心臓を掴まれたような思いがした。
それは、確かに上機嫌な声色と表情。でも、彼女の瞳は断じて笑っていない。
「有り難うございます。それでは、引き続き、ご期待に沿えるように頑張ります」
せめてその場の空気を悪くしないように、ベリエは努めて明るい声を出して、ソルに頭を下げた。でもそれは、どちらかというと謝罪の意味が多分に混じっていたように思う。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
肖像画を作業部屋へと持ち帰り、イーゼルの上へと戻す。
椅子に座ってそれを眺め、ベリエは苦しげに息を吐いた。
「くそっ」
悔しい。その思いが胸に溢れる。
言葉とは裏腹に、ソルは全くこの絵に満足していない。いや、一定の評価はしていて、美術的な価値も見出してくれているのだろう。けれど、彼女の心を揺さぶるには足りていない。
「でも、何が足りていないというんだ」
どれだけ、穴が空くほどに見詰めようと、肖像画の中の彼女は答えてくれない。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
一晩悩んで、ベリエは結局、リュンヌにも見て貰うことにした。
見て何か分かるか、適切なアドバイスが貰えるとまでは期待していない。けれど、ほんの少しでも彼の目から見て何か感じたものがあればと思う。相談という形でも、こっちの話を聞いて貰えれば、それだけでも気付けなかったものに気付き、考えが纏められるかも知れない。
「これが、その絵ですか」
「うん。その通りだ」
「僕は絵については素人ですけど。よく描けていると思いますよ?」
「ああ。そうかも知れない。けれど、これじゃダメなんだ。ソルお嬢様のお気に召さない」
「ソル様がそう仰ったんですか?」
ベリエは首を横に振った。
「いいや。言葉や口調では満足しているような口ぶりだった。けれど、あれは絶対に嘘だ。彼女は満足なんてしていない。瞳が笑っていないんだ。作り笑顔だよ。本当に、とても良く出来た」
これまでにも、表情と感情が一致していない女性の姿は何度も目にしてきた。だから、そこに驚きはしない。女性はそういうものだとベリエは思っている。
けれど、ここまで巧みに偽りを見せられるような女性は、見た記憶が無い。
「君はこれを私の、妄想だと思うかい?」
「いいえ。信じますよ。ソルお嬢様をよく見ているベリエさんが言うんですから、本当なのでしょう」
リュンヌの返答に、ベリエは安堵を覚える。
「ちなみに、この絵はどんな思いで描かれたのですか? これまで描けなかったものが、少し描けるようになったというのだから、何かしら思うところがあったのかと思ったんですけど」
「ああ、そうだね」
ベリエは頷く。
「実は先日、ソルお嬢様とお茶をご一緒させて貰った後に、また話をさせて貰ったんだ。お嬢様が庭園のバラを眺めていて、その表情が気になって、ついそうして見ていたら、お嬢様から話しかけられて」
「そのときはどんな話を?」
「お嬢様は、肖像画の完成に不安を抱いていた。果たして肖像画が完成して王都に送ったときに、ご両親の期待に添えるのか? 見初めてくれる相手は現れるのか? それは、どんな人なのか? そんなことを思っていたんだ」
「なるほど」
「だから私は、そんな心配は杞憂なんだと伝えたくて、あの人の周りにいる人達の思いをこうして背景に込めたつもりだったんだ。ご自分が愛されるに足る存在なんだと、自信を失ってらっしゃるようだったから」
「そうだったんですね」
「それが、伝わらなかったのか。どうしたらいいのか分からなくてね。今、悩んでいるところさ。すまない。ただ、愚痴を聞かせてしまっているみたいで。こんな話を聞かされても、君も困るとは思うんだけれど」
「いえ、それは構いませんが」
ふむ。と、リュンヌは顎に手を当てて肖像画を見詰める。
「ちなみに、ベリエさんのソルお嬢様に対する思いはこの絵に込められているのですか?」
「えっ?」
その問いは、まさしくベリエにとって気付いていない。意識の外にある話だった。




