EX8話:ソルと宿命の敵
時系列としては、ソルがリオンと出会う少し前くらいの話となります。
2025/09/09
イラストを入れました。
それは、夏に差し掛かろうとしたある日のことだった。
ソルは目の前に突如として現れたそれに、本能的な恐怖を覚えた。背筋が凍る。こんなに強い恐怖を覚えたのは、前世で命を狙われたとき以来かも知れない。
こいつは紛れもない敵だと直感する。殺さなければ、生き残れない。
武器がいる。目の前のこいつを殺すための強力な武器が。
ここは台所だ。何か、武器の代わりになるものはあるはず。
ソルはそろそろと、震える脚をゆっくりと移動させ、テーブルの上からこの場で最も殺傷能力が高いと思われるものを選択し、手に取った。
敵を切り伏せるべく、ナイフを構える。
ひゅぅひゅぅと過呼吸気味に息が鳴った。
「あ、あんたなんて、恐くありませんでしてよ。来るなら、覚悟なさい」
でも、絶対に来るなと思う。
ガクガクと膝が震えている。怯えを隠す余裕も無かった。
「敵」は今のところは大人しくしている。だが、いつ襲いかかってくるか分かったものではない。まるで、次の動きが読めない。
来ない? のか? ソルは少しだけ、安堵する。
しかし、それが心の隙を生んだ。また、そいつはその隙を見逃さなかった。
「嫌あああああああああああぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
突如としてそいつは、飛んだ。ソル目掛けて。
「こっち来ないでええええええっ! たしゅげでぇえぇぇぇぇぇぇっ! リュンヌうううううううぅぅぅぅっ!」
尻餅をついて、ソルは目を瞑ったまま、ぶんぶんとナイフを振り回した。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ソルは顔を真っ赤にして俯いた。
こんな恥辱は、とても忘れられそうにない。
よほど大きな声を出してしまったせいだろう。呼んだリュンヌの他に、家族全員はおろか、使用人達も数名が台所に駆けつけていた。
みな、一様に苦笑いを浮かべている。傍らに立つティリアからは「よしよし、恐かったわね」と頭を撫でられる始末だ。
敵は一撃で倒された。
呼び出したリュンヌが、大きな紙の扇で一撃で叩き潰したのだった。
「ええと。ソル様、ゴキブリとかダメだったんですね」
「何ですの? 何か文句有りましてっ!? あんなのがこの世界にいるなんて、私聞いてませんわよっ!」
虫一匹に、こうも怯える娘など、さぞかし滑稽に見えたことだろう。
「いや、あの連中。割とどこにでもいるようなんですが。たまたま、ソル様が見掛けていなかっただけかも知れませんが」
その説明に、ソルは呻いた。
嫌な予感がする。
「で、でもどこにでもいるというだけで、そんなに数は多くない……ですのよね?」
恐る恐る、訊いてみるが。
その場の誰もが、ソルから視線を背け、哀れむような、悩ましい表情を浮かべてきた。
「それが、連中。本当にどこにでもいるんですよねえ」
「特にこの時期になると活発に活動するみたいなんですが」
「一匹見たら三十匹はいるっていう話ですし」
「ほんのちょっとの隙間からでも、入り込んでくるから困りものですよねえ」
「なるべく湧いて出てこないように掃除は念入りにしていたつもりなのですが。申し訳ありません。ソルお嬢様」
そんな、口々に聞こえてくる情報に、ソルは血の気が引いていく。
嘘でしょ? あんな恐ろしく禍々しい生き物がうじゃうじゃと?
世界は狂ってる。
「まあ、アレが苦手な人間なんて、大抵の人はそうですし。ソル様の悲鳴には少し驚きましたけど、何事も無くてよかったですよ」
うんうんと頷いたり談笑したりして、その場の人間が和やかな雰囲気で締めくくろうとする。
その一方で、ソルは固い決意を胸にした。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
それから数週間が過ぎた頃。
ソルはくっくっと含み笑いをして、それを睥睨した。
「ご覧なさいリュンヌ? これが、私に逆らったものの末路よ」
床には、開封された罠が置かれ、その中には黒い虫の死骸が貼り付いていた。罠は野菜クズや油などを混ぜた糊をべったりと塗り、折りたたんで奴らが好みそうな隙間を作り上げるという仕組みだ。
「いや、虫の死骸にそんな勝ち誇った顔されても」
リュンヌは半眼を浮かべてきた。
「でも凄いですね。すぐにこんなものを研究、開発したのもそうですけど。こんな簡単な罠で、引っ掛かるものなんですね」
ふふんとソルは胸を張った。
「屋敷のあちこちにも仕掛けましたけれど、他の場所でも効果はあったみたいですわね。一番酷いのがユテルの工作室周辺でしたけれど。あの子、もうちょっと掃除しなさいよ」
同時に、この屋敷にどれだけこの黒い悪魔共が巣くっていたのかと考えると、改めて怖気が走るが。
「他にも、除虫薬を混ぜた団子も作りましたわ。こちらも、なかなか効果があるみたいですわね」
「色々と開発されてますね。でも、これで屋敷が平和になって、ソル様も安心出来るのなら何よりだと思います」
「屋敷?」
ソルは冷たく、リュンヌを睨め上げた。
「何を生温い事言っているんですの? 私はね? これの存在を決して許しはしませんわ」
「と、仰いますと?」
ソルはぐっと拳を握った。
「これらを更に開発し、改良し、売り広げますの。駆逐してやりますわっ! この黒い悪魔共を。この世界から一匹残らずっ!」
「どうして、そういう方向には才気と情熱に溢れるんですかあなたは。いえ、世のため人のためになるからいいと思いますけど」
「これは、私にとっては小さな一歩。けれど、人類にとっては大きな飛躍ですわっ!」
「何か、事情を知らずに聞いたら、物凄い名言に聞こえそうですね。その台詞」
虚空を見上げて、リュンヌがぼやいた。
だが、ソルの熱い思いはそんな程度で揺るぎはしないのだ。
「しかし、仮にこれらを量産して販売するとなると、それなりの人手や道具が必要となると思うんですが。そこは、どうお考えなのですか?」
「問題ありませんわ。道具については既にユテルが開発して、もう大分形になってきているそうよ。人手や材料も、これまで買収したところの伝手を使えば何とかなりますわ」
「なるほど。では、あとは売れる見込みはどのようにお考えで?」
「そちらも、ヴィエルに試供品としてあの子の知り合いや友達に配って貰いましたわ。評判は上々。もっと分けて欲しいという声が次から次へと来ていますの」
「えっと? それ、ちゃんとユテル様やヴィエル様にお小遣いなり何なり渡しているんですよね? 開発費とか、広報費とかを考えると、ただ働きというのはあんまりだと思うのですが」
「何を言っていますの。当然ですわ。然るべき報酬は渡していますわよ。ユテルは、他にも薬を大量生産させるための道具を開発させているから、ちょっと大変そうですけど。このお金があれば、自分が作りたいものも作れるとか言って、喜んでますわよ」
「それは結構です。しかし、ユテル様が作りたいものって何なんですかね?」
「さあ? 何でも、馬車の事故を減らすような道具や仕組みを作りたいって言っていましたけど。具体的にどうするかは、まだアイデアが思い付いていないみたいですわね」
「なるほど。それも、実現するといいですねえ。馬車や馬が事故を起こすと、庶民にとっては掛け替えのない財産や、稼ぐ手段を失うことになりますから」
「確かにね」
そういう意味でも、ユテルには色々と便宜を図った方がいいかも知れない。彼の働きは随分と貢献してくれているし、巡り巡って、彼自身の夢が自分にとっても助けになるような気がするのだ。
さっき、リュンヌは開発費と広報費と言っていた。そういう意味では、本当にユテルもヴィエルも己の才能を活かし、本当によく働いてくれたと思う。この二人が弟妹でよかった。
ふとソルは思う。この二人が今後も協力してくれるというのなら、自分達は更なる財を成し、この地方を豊かに出来るのではないか?
野望が、ソルの胸を熱くする。
くすりと、ソルは小さく笑みを漏らした。
何にせよ、黒い悪魔共との戦いは始まったばかり。私達の戦いはこれからだっ!
リュンヌ「いきなり最終回っぽい台詞言わないで下さい」




