第46話:悪魔の囁き
2025/09/09
イラストを入れました。
夏は日の入りが遅い。
警備隊が日勤と夜勤で交代するような時間となっても、まだ日没には余裕がある。
屋敷に一番近い橋の上で、ソルは眼下に流れる川を眺めつつ、待っていた。
「失礼。ソル=フランシアお嬢様でお間違えないでしょうか?」
誰何の声に頷き、ソルは声の主へと振り返る。視線の先には、警備隊の制服を着込んだ男が立っていた。
「あなたがカンセル=グラン? で、間違いなさそうですわね。リオンから聞いたとおりの姿のようですもの」
推測される年齢や体格の他に、顔の見た目なども一致している。間違いないだろう。
もっとも、彼にとって、替え玉を用意する意味も無いだろうが。
「如何にも、私がカンセル=グランでございます。私に何か御用がお有りと妻より伝え聞きまして、参りました。ソル様とリオンのことも、存じ上げています。先日にリオンと再会した話では、なんでも、ソル様の危ないところを助けたとか。知己として、彼を誇りに思います。また、ソル様には妻の危ないところを助けて頂いたそうで、深く感謝を申し上げます」
カンセルの礼儀正しい立ち居振る舞いに、ソルは好感を覚える。
如何様な境遇に身をやつしようと、騎士然とした誇りだけは失わない。そんな高潔さを持っているのだろう。
だが、今回ばかりは、それを捨てて貰おうか。
「何、リオンからあなたのことを聞いていて、たまたま気まぐれに立ち寄っただけですわ。シーニェが無事で何よりでしたわね」
「はい。事情を聞いて、私も肝が冷えました。まったく、無理だけはしてくれるなっていつも言っているのに」
「シーニェのこと、本当に大切に想っているんですのね?」
「はい。私にとっては、何ものにも代えがたい女です。一生を掛けて守ると誓いました」
力強く、はっきりとした決意を込めて、カンセルは言ってきた。
「シーニェは幸せ者ですわね。こんなにも愛してくれる殿方が夫なんですもの」
くすくすと、ソルは笑みをこぼす。
「なら、仮にですわよ? その大事なシーニェの命が失われるとしたら、あなたはどう思いますの?」
考えたくもない未来だと言わんばかりに、カンセルの顔から血の気が引いた。
実に素直で分かりやすい男だと。ソルは胸中でほくそ笑む。
「あいつの体のことですか? 何か、ソル様はご存じなのですか?」
ソルは首を横に振った。
「いいえ? 私は医者じゃありませんもの。詳しいことは何も。ただ、洗濯物を干そうと少し家の外に出るだけで、立ちくらみをして倒れるくらいですもの。かなり弱っているのではありませんこと? あのままで、出産に臨んで無事で済むか、心配ですわね?」
「その通りです。あいつは、私に心配掛けまいと大丈夫だって言うけれど。とても、そんな風には見えない。頼むから、少しでも休んで、食べて、体力を付けて欲しいのに」
沈痛な面持ちで、カンセルは溜息を吐いた。
「そうですわね。少しでも体力を取り戻して、元気な子供を産んで欲しいものですわよね」
うんうんと、ソルは頷いた。
「ところで、話は変わりますけれど、あなたももうすぐ開かれる剣術大会には出場するんですの?」
「え? ああ、はい。そのつもりです」
「そうなんですのね。リオンも喜びますわ。あの方、あなたと戦うためにわざわざここに寄ったって言っていましたもの」
「先日再会したときに、約束しましたから。共に、全力で戦おうって」
「なんでも、聞くところによると。去年の優勝者はカンセル。あなただったそうですわね? そんなあなたから見てどうかしら? リオンは強くなったと思いまして?」
しばしの沈黙の後、カンセルは口を開いた。
「はい。何年か前に戦ったことがありますが、その頃に比べて、間違いなく強くなっています。もしも、運悪く今年も王都の騎士団に入団出来なかったとしても、いずれ必ず、どこか名高い騎士団に入るか、重要な領地に任ぜられることでしょう」
「そう。では、あなたとどちらが強いのかしら? これは、正直に答えてくれませんこと?」
目を細めて、静かな口調で訊く。
カンセルは息を飲んだ。まるで自分を得体の知れない何かを見るかのように。
その警戒心は正しいですわよ? と、ソルは内心で告げる。ただ、それでも少し、判断が遅いと思うけれど。
「その質問は、本当に正直に申し上げて、答えかねます。実際にその時になってみないと分かりません」
「つまりは、どちらが勝っても負けても不思議ではない。実力は伯仲している。そう言っているということで、いいんですのね?」
「はい。その通りでございます」
「それは、名勝負が期待出来そうですわね」
くっくっと、ソルは口元に手を当てて笑った。
「でも、世の中ってままならないものですわね? そう、思いません事?」
「それは、どういう? 意味ですか?」
カンセルが困惑した声を上げる。
「リオンは自分の実力を量るためにも、全力であなたに挑んでくる。そうですわね?」
「そうですね。私も、それには全力で答える所存です」
「ですが、あなたにも、絶対に負けられない理由がある。そうではなくて?」
その問いに、カンセルは押し黙った。
「剣術大会と言っても、所詮は辺境の街の余興。別に、優勝したところで、生活が一変するほどの名誉や賞品が得られる訳でもないですわ。ですが、それでもこの地方に住むほとんどの人間にとっては、数ヶ月分の収入に値する賞金は出ますわね」
カンセルの表情が歪む。
「あなたにしてみれば、そのお金を得れば、愛する妻の命を助けられるかも知れない。腕がいいと評判の医者に診せる。滋養がある食べ物や、よく効く薬を買うことも出来る。共働きなら、それだけでも今後の生活に対する経済的余裕が出来て、心労も減りますわね。何にしても、取れる選択肢は大きく増えますわ」
カンセルは顔を背けた。
「止めて下さい。そんな話は。確かに、それはその通りです。しかし、これは私達の問題だ。リオンにも、話すつもりは無いっ!」
「けれど、そういう意味では。リオンはあなたにとっては、大切な妻の命を脅かす大きな障害。そうですわよね?」
「そんなことは無いっ! あいつは、私にとって大事な後輩なんです。そんな風に、思ったりなんかしていないっ!」
「その台詞。仮にですわよ? あなたがリオンに負けて、結果シーニェには何も出来ず、挙げ句お腹の子供も流れ、彼女が永遠に目を閉じる結果となったとして。そのときにも、同じ事が言えまして?」
「それは――」
無理だろう。そのときになって後悔するのだ。あのとき、自分が勝っていたらとか。リオンに頭を下げておけばとか、そんなことを考えて。
「でも、本当に困りましたわね。私は、どうしてもリオンに勝って貰いたいんですの」
カンセルの視線に、鋭い殺気が籠もる。
仮にも騎士を目指したものが、貴人に対して向ける視線ではないと思うが。見積もり通り、殴りかかってこないだけの自制心はまだあるようだ。
こういう目を向けられるのには慣れている。ソルは冷然と受け止めた。
「勘違いしないで下さいませ? 私は、本当に心の底からシーニェの体を心配しているんですのよ? その上で、どうしてもリオンにも優勝して欲しいんですの」
「それで? 私に一体何をしろと言うんですか?」
流石にここまで説明すれば、彼も何を要求されているのか。何のために呼び出されたのか、察しが付いたようだ。
「一つ、提案がありますの」
んふ。と、ソルは唇を歪めた。
そっち方面の実行力が揃えられていないというのが理由として大ですが。
こう言っちゃなんですが、シーニェを誘拐していないだけ、前世に比べてソルも甘くなったなあと思います。




