第45話:ここがあの男の家ね
その日、リオンとの逢瀬を名残惜しく想いながら、ソルは彼と別れた。
いつもなら、このまま真っ直ぐに帰宅するところではあるが、遠回りをしてカンセルが居を構える20番街へと向かうことにした。
日中であり、人目もそこそこある。治安も悪くない区域のため、女一人で歩いても、そうそう何か起きたりはしないだろう。ガラの悪い連中に絡まれるとか。
とはいえ、その程度の連中なら、最悪リュンヌを召喚すれば何とでもなるだろう。
ソルは思案する。
リオンの想いを確認することは出来た。
それならもう、いっその事その場でもう求婚してくれた方が嬉しかったのだが。そこは、リオンにも色々と感情の整理とかあるのだろう。
例えば、今度の剣術大会で勝ってこそ「自分は近衛騎士団相当まで腕を高められたのだ」とか。夢を手放すためにも、納得したいものはあるのだろう。他にも、勝つことで自分に相応しい男だと、自信が持てるようになるとか。父へのアピールにしたいとか。
正直言って焦れったいのだが、優勝してから求婚というのも、ロマンチックな気がして悪い気はしない。
だが、それ故に、まだ大きな壁が立ちふさがる事となった。
リオンには、何が何でもカンセルを破って優勝して貰わないと困るのだ。しかし、そのカンセルという男も、相当の手練れだというのがリュンヌの見立てだった。リオンが負けてしまう可能性は、低くない。
リオンの勝利を確実とする方法は何か無いか?
リュンヌの報告を聞く限り、カンセルには何も握れるような弱みは無い。また、弱みを作らせることが出来るかというと、性格的にそれも難しいような気がした。
それでも、何か無いか? まずはこの目で確かめてみようと、僅かでも手がかりを掴める可能性を求めて、向かったのだった。
何気なく歩きながらも、並ぶ家々の表札を素早く横目で確認していく。
やがて、その中の一軒に、カンセルの名前を見つけた。
「ここが、あの男の家ね」
警備隊で隊長を任されているという割には、周囲の家に比べても質素な家だと思った。それ程裕福では無いのかも知れない。
まだこの地に来て日が浅く、妻を迎えたばかりだというのなら、あまり蓄えが無くても不思議ではないが。
ふと、ソルは眉をひそめた。
人の気配がする? それも――
「呻き声?」
ソルは周囲を見渡し、視線が自分に向いていないことを確認して、門の内側を覗いた。
軽く息を飲む。庭へと通じる道になっている、家と壁の隙間に女が倒れていた。洗濯物と思しき衣類が籠から零れている。
「わ、私はまだ、何もしていないですわよ?」
誰に対する言い訳だと思いつつ、恐る恐る女へと近付く。まだ若い。二十代前半か半ばくらいだろうか?
「妊婦?」
そのお腹は、膨れていた。出産にはまだ数ヶ月はかかるだろうが。
ソルはしゃがみ込み、女の顔に手を当てる。まだ息はある。それも、規則正しい。顔中から汗を流しているが、悶え苦しんでいるようには見えない。どちらかというと、この暑さのためと考えた方がよさそうだ。
「洗濯物を干しに行く途中で、立ちくらみを起こして倒れた。そんなところかしら?」
そう、ソルは推理した。
何にしても、この女をこのままにしておけば、やがては暑さにやられて死ぬかも知れない。
ソルは舌打ちした。
「仕方ないですわね」
前世で多くの女を散々に嬲って殺してきた自分が、人助けをするなど。どんな因果かと思った。
ソルは、女の両脇に手を差し込み、中腰になって少しずつ、彼女を引き摺りながら、背中から後ろへに歩く。とてもじゃないが、小娘の力で気絶した人間を持ち上げるような真似は出来ない。
頼むから、家の鍵は開いたままであってくれと願いつつ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
こういうとき、どうすればよいのか?
そこは詳しくは知らないので、取りあえず床に寝かせて額に濡れたタオルを置いておいたのだが。そんなものでも多少は効果があったのかも知れない。
椅子に座りながら様子を見ていると、十分かそこらで、彼女は目を覚ました。
意識がはっきりとしていないのか、上半身を起こし、ぼんやりと周囲を見渡している。
「あ、ここは? 私、どうして?」
彷徨う視線がソルの姿を認めると、彼女は顔を強張らせた。
「あ、あなた。誰ですか? ここは、私達の――」
「ええそうね。あなたの家の中でしてよ。簡単に事情を説明してあげますわ。あなた、入り口近くで倒れていたんですの。それを私が見つけて、こうして家の中に運んだという訳ですわ。理解出来まして?」
「私。……倒れて? あっ!? そういえば、洗濯物を干そうとして――」
納得したように、彼女は肩を落とした。
「ごめんなさい。あなたには、迷惑を掛けてしまったみたいね。あと、助けて頂いて有り難う。いずれ、このお礼は必ずするわ。あなたは、私とこの子の恩人よ」
お腹を抱え、丁寧に、彼女は頭を下げた。
大袈裟な。とは思うが、礼を言われることには、ソルも悪い気はしなかった。
「さっきも、子供と言っていたわね。見たところ、妊娠しているようですけれど、大丈夫なんですの?」
訊くと、女は儚い笑みを浮かべた。
「大丈夫よ。ただ、つわりが重いだけだから。命に別状は無いって。お医者様には、極力安静にするようにとは言われているけれど」
だがソルから見ても、彼女は相当にやつれているように見える。お腹を除けば、体の線も細いし血色も悪い。このまま、いずれ出産となれば体力が保つのか危ういように思える。
「それなら、医者の言いつけを守るべきではありませんの? 外に出て倒れるくらいなら」
「そう……ね。今後は気を付けるわ。夫にはよくして貰っているんだけど。それがあまりにも申し訳なくて、私、あの人に甘えてばっかりで。せめてこれくらいはと思ったら。つい」
そう言って、女は泣きそうな表情を浮かべた。
放っておくと、このまま辛気くさい空気を振りまかれそうだと思い、ソルは話題を変えることにした。
「ところで、ここはカンセル=グランという男の家で間違いないんですのよね? その様子からすると、あなたはその妻というところかしら?」
「え? ええ。その通りよ。私は、シーニェ。シーニェ=グランっていうの。夫に、何か御用だったのかしら?」
「そうですわね。今は仕事中でしょうから、別に本気で会えるとは思っていなくて。今日はたまたま、様子を見に立ち寄ったというだけですけれど」
薄く、ソルは笑みを浮かべた。
「自己紹介が遅れたわね。私はこの地を治めるエトゥル=フランシアが長女。ソル=フランシア。怪しいものでは、ありませんでしてよ。証拠が必要だというのなら、何か家紋の入ったものでも見せようかしら?」
そう言うと、シーニェは慌てて居住まいを正した。
「い、いえ。滅相もございません。私の方こそ、知らぬ事とはいえ、とんだ失礼な態度を致しました。深くお詫び申し上げます。なにとぞ、ご容赦を」
「ああ、さっきまでの言葉遣いのこと? 別にいいですわ。気にしていませんから。名乗っていない以上、仕方ありませんもの」
もっとも、この後もさっきまでの口調を続ようというのなら、話は変わるが。
「ただ、そうですわね。先ほどの話。お礼をと言うのなら、カンセルに取り次いで貰えないかしら?」
「はい。畏まりました。その様なことでよろしければ、喜んで」
と、そこでシーニェは怪訝な表情を浮かべた。
「ですが、あの。もしよろしければ、お聞かせ願えないでしょうか? ソル様のようなお方がカンセルに、どのような御用なのでしょうか?」
「リオン=マグニスという男の話に関係する用件ですわ。ただ、その内容までは言えませんけれど。ですが、悪い話ではないから、安心なさい。ほんのいくつか、訊きたいことがあるっていうだけですの」
シーニェは視線を落とした。その答えでは納得いかないし、素直に安心も出来ないという態度だ。
「分かりました。伝えます」
しかし、無理に問いただす力が彼女にあろうはずも無い。シーニェは頷いた。
「ええ、頼みましたわよ」
にんまりとした笑みを浮かべて、ソルは時間と場所を伝えた。必ず、他言せず一人で来るようにと、約束も添えて。




