第29話:せめてもの願い
その晩、ソルは自室にリュンヌを呼んだ。
勉強机に座り、机の上にアプリルの百科事典を置く。
「お呼びでしょうか。ソル様」
「ええ」
小さく、頷く。
「ひょっとしたら、あなたももう知っているかも知れないけれど。アプリルが明後日、王都に旅立つわ。優秀な成績を修めた奨学生として」
「はい。存じています。僕のクラスでも噂になっていましたから」
「そうなのね」
「今日は、そのアプリルとの話でしょうか?」
「ええ」
乾いた笑みをソルは浮かべた。
何だか心が空虚で、そんな風にしか表情を作れない。
聞けば、もう既に父は彼が奨学生に値するか見極めるため、学校に出向いてアプリルとの面談も行っていたそうだ。成績に違わず、非常に理知的な印象を受けたと、満足げに語っていた。
「私はもう、二度と彼と結ばれる可能性は無い。そういうことなのかしら?」
少し間を置いて、しかしリュンヌは頷いた。
「はい。残念ですが、その通りです」
「そう。やっぱり、そうなんですのね」
リュンヌの言葉で、ようやく諦めが付いた。
「あなたは気付いていましたの? 私が、アプリルにフラれたことを」
「薄々は、気付いていました。アプリルとの話について、ずっと呼び出されることも無くなっていましたし。どこか、ソル様が落ち込んでいるようにも見えました」
躊躇いがち吐息が彼の口から漏れた。
「本当は、何があったのか、僕もソル様に尋ねようと思いました。場合によっては、お慰めした方がいいのかもとも思いました。ですが、それが返ってソル様の傷口を広げてしまわないかと。それが恐くて、訊けませんでした。申し訳ありません」
「謝らなくて結構ですわ。どっちが良かったのか、私にも分かりませんもの」
ソルは百科事典を手に取り、リュンヌに見せた。
「これは、アプリルがとても大切にしている。いつも肌身離さずに持ち歩いていた百科事典ですの」
自嘲する。
「私は、失敗しましたわ。アプリルを評価し始める女子生徒の噂を聞いて。強引な手を使って、これを盗んで、脅迫して、そうして私のものにしようとしたんですの」
「それで、彼を怒らせてしまったんですか?」
「そうよ」
「馬鹿ですか、あなたは?」
「ええそうよっ! 私は大馬鹿よっ! 人は、大事な物を奪われたら怒るのよ。大事なものであればあるほど、それを守ろうと必死になるの。敵対する相手を好きになる訳無いわっ!」
思わず叫ぶ。
両目から熱いものが零れそうになった。
「でも、そんな真似をしてしまうくらいに、好きだったんですね。アプリルのこと」
静かに、憂いと優しさを込めて、リュンヌが言ってくる。
ソルは顔を上げた。リュンヌの眼差しには、こんな話をしても、軽蔑の色は無かった。それだけでも、救われた気がする。
ソルは先ほどの問いに対して、無言で頷く。
「ねえ、リュンヌ? 相談に、乗ってくれませんこと?」
「僕でよければ、なんなりと」
「今更、もうアプリルと結ばれようとは望みませんわ。けれど、このまま嫌われて、謝ることも出来ないままというのは、嫌なんですの。そんなの、耐えられそうにありませんわ」
「分かりました。では、どうしたらいいか一緒に考えましょう」
困ったように、けれども優しげに笑みを浮かべるリュンヌに、ソルは泣き笑いを浮かべた。
ソル「ねえリュンヌ? この場合の慰謝料って相場はいくらぐらいになるのかしら?」
リュンヌ「謝罪の仕方が生々しいですっ!」




