第160話:彼女の頼み
それからまた一週間が経って、リュンヌが広場に向かうと、彼女は不敵な笑みを浮かべていた。先週の失敗作では、どうしても自分が許せないから、リベンジさせてくれと彼女は言っていた。
この様子だと、今度は本当に自信がある出来なのだろうなと。そんな事を思いながら、リュンヌは差し出されたクッキーを口に入れた。
思わず目を見開く。
「へえ。これは凄い。本当に美味しいよ。しかも、焼き立てで」
「でしょう? 苦労したんですのよ? 今度は計画的に、料理番達からも一つ一つ、手順を教えて貰いながら練習して。おかげで、今の私の家には、クッキーが山になっているくらいでしてよ」
「そうなんだ。それは、本当に頑張ったんだね」
リュンヌは素直に称賛する。それを聞いて彼女は得意げに鼻を高くした。
「ねえ? リュンヌ? それで、ちょっと聞きたいことがあるんですけれど、またこういうものを食べたいって、あなたは思っていたりするのかしら?」
「ああ、うん。そうだね。そういう機会があったら、いいなと思う」
これが、これ一度きりかと思うと、リュンヌは少し残念に思った。
とはいえ、彼女とは所詮、猫を助けてお礼をして貰うということになっただけの関係だ。これ以上の付き合いを求める理由が、リュンヌには無い。
「だ、だったら――」
不意に、上擦った声を彼女は上げた。何事かあったのかと、リュンヌは小首を傾げる。
「もし、あなたにその気があるというのなら。私の友達になりませんこと? あなたが望むなら、お菓子くらいいくらでも差し入れてあげてもいいんですのよ? と、友達になるっていうならの、話ですけれど」
真剣な表情で、彼女は上目遣いでリュンヌを見詰め、言った。
リュンヌは目を丸くする。
「えっと? 友達?」
「そうですわ。友達になりなさい。私の友達になるというのなら、お菓子だけではありませんわ。もっと他にも、あなたの力になって差し上げても良いんですのよ? 言っておきますけれど、大抵のことなら何とか出来ますわ。断る理由なんて、ありませんわよね?」
事態が飲み込めないまま、リュンヌは彼女の気迫に押された。どういう反応をすべきなのか、まるで頭が働かない。
沈黙を続けていると、彼女は表情を曇らせた。
「それとも、やっぱり嫌ですの? こうして、自分の都合ばかりを押し付けてしまうような女は、ご迷惑だったかしら」
リュンヌは慌てて首を横に振る。
「いや、そうじゃない。単に驚いていただけだ。また、こういうクッキーを食べる事が出来る機会があるなら、それこそ望むところだよ。でも、てっきり僕の方こそ、単にお礼の品をこうして渡したいだけの相手だって思っていたから。まさか、そんな風に言われるとは、まったく予想もしていなかったんだ」
そう答えると、彼女の顔から少し緊張の色が抜けた。
「ということは、私の友達になるのが嫌というわけではないんですのね?」
リュンヌが頷くと、彼女は大きく安堵の息を吐いた。
「でも、またどうして? 友達になるのは、全然構わないんだけど」
リュンヌが訊くと、彼女は気恥ずかしそうに目を背けた。
「その。先週に、リュンヌは私の好きな人の話を色々と聞いてくれたじゃありませんの。それで、少し心が楽になったっていいますか。私の友達って、他には女の子しかいなくて、殿方の視点というかそういうのも参考情報として欲しいと思った……ん、ですの」
徐々に弱々しくなる彼女の声に、リュンヌは苦笑する。
「なるほど、相談役が欲しかったのか」
「ごめんなさい。本当に、自分の都合ばっかりで」
「いいよ別に。僕も、女心なんて分からないことばかりだし。そういう、異性の視点がどういうものか知りたいっていう気持ちはよく分かるから」
そう言うと、彼女は怪訝な表情を浮かべた。
「リュンヌも? だってあなた、王都の騎士学校の生徒なんでしょう? そんな事言って、モテているんじゃありませんの? 友達にも何人もいますわよ。騎士学校の人と付き合いたいって言っている子」
リュンヌはしばし、虚空を見上げる。
「ああうん。まあ、そっち方面で要領の良い奴とか、ある程度慣れている奴とか。他には、姉や妹からの伝手でっていう感じで恋人がいる奴はいるんだけど。やっぱり、閉鎖的で男ばかりの環境だから。女の子に免疫が無くて近づけなかったり、剣一筋になってしまって、なかなか出会いがね。ぶっちゃけ、噂で言われているほどモテたりはしないよ。奥手なのが多くて」
更に言ってしまえば、男同士の粗野で子供じみた交流というのも多々あったりする。騎士物語に出てくるような、ご立派な騎士の姿としてはまず描かれることが無いような、ご婦人方の幻想をぶち壊しにしかねないあれやこれやが。
わざわざ言う必要も無いので、仲間の名誉のためにもリュンヌはそこは言わない。
「ふぅん? その割にはリュンヌ? あなたはそんな奥手にも見えないんですけれど?」
半眼を浮かべる彼女に、リュンヌは苦笑を返した。
「そこはまあ、僕の場合は世話になった屋敷に、歳の近いお嬢様達もいたから。それで、少しは慣れているんだよ」
「なるほどねえ」
納得したと、彼女は顎に手を当てて頷く。
「ねえリュンヌ?」
「何?」
「あなたは、好きな人がいるんですの?」
不意の質問に、リュンヌはむせた。
「何だよ。突然?」
にやぁ。と、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「いいじゃありませんの。私も話したんですもの。リュンヌの方はどうなのか、気になりましてよ。教えなさい。どうなんですの?」
鼻息を荒くし、熱を帯びた彼女に視線に耐えきれず、リュンヌは目を逸らした。
「その反応。いますわね? 私の目は誤魔化せなくてよ? 私、そういうのを見抜くのは得意なんですの。これまで、何人もの友達をカップル成立に導いてきましたわ」
だというのに、自分の恋愛は上手くいかないのかと、リュンヌは心の中でぼやく。自分事になると、客観視出来なかったり、どうすればいいのか恐くて動けないとか、色々あるものだとは思うが。
「ははぁ? 分かりましたわ。あなた、そのお嬢様の事が好きなんですのね?」
心臓を握られたような錯覚を覚え、リュンヌは顔をしかめる。
「何でそう思う?」
ともすれば不機嫌にも聞こえる口調で、リュンヌは訊いた。
「分かりますわよ」
しかし、彼女は優しい口調で、返してくる。
「先週にあなた、私の焦げたクッキーを食べたでしょう? 世話になっているお嬢様も、前にそんな風に焦がしたって言って。そのときのあなたの目と口調は、とても印象深いものでしたわよ」
「たった、それだけのことで?」
「それだけ。なんてことはありませんわ。そんな思い出にすら、あなたの想いは滲み出ているんですのよ。私の目は、それを決して見逃しませんわ」
揺るぎない彼女の口調。だが、リュンヌは首を横に振った。
「違うよ。違うんだ。僕は、彼女の事を幸せになって欲しいと思っている。そういう意味では、大切に想っているつもりだ。けれどこれは、君が考えているような感情じゃない。忠誠心とか、そういうものだ」
「どうしてそんな風に考えるんですの? 身分違いの恋だから?」
「だから、そういうのじゃないって。それに、彼女には今、恋人がいる。これまで、なかなかそういう関係に至れなくて悩んでいた彼女が、ようやく本当に幸せを掴めそうなんだ。僕は、それを心から祝福したい」
リュンヌは笑って、そう答える。
これは、紛れもない本心から、そう言っている。そのつもりだ。
だというのに、なんで目の前の彼女は、そんなにも責めるような、寂しげな目で見てくるのかと。リュンヌは内心、苛立ちを感じた。
彼女は、溜息を吐いた。
「そう。リュンヌがそう言うのなら、仕方ありませんわね。きっと、そうなのでしょう」
「分かってくれて、嬉しいよ」
「でも、それはそれで、そのお嬢様の事を色々と教えて欲しいですわ」
「どうして?」
「そのお嬢様に、興味を持ったんですの。リュンヌにそこまで大切に想われている子なら、きっと素敵な人何でしょうね。どうしたら、そんな風に想って貰えるようになるのか、参考になるところも多そうですわ」
「参考になるところ、あるかなあ」
リュンヌの頭に、これまでソルと過ごした時間がよぎる。
それらを思い浮かべながら、リュンヌは頬を緩ませた。
ソル「ハクション! ハクション!」
ソル「こんな時期にどうしてクシャミを? 誰か、私の噂でもしているのかしら?」




