第159話:第3種接近遭遇
厨房にて。アシェットによって届けられた品々を確認し、エリアナは良しと頷く。
「エリアナ様? ご注文頂けて嬉しいのですが、どうしてまたこんなものを?」
「別に? ただの気紛れでしてよ」
「はあ、エリアナ様がお菓子作りに興味を持たれた。そういうことでしょうか?」
「ええ。そんなところよ」
アシェットの問いに、エリアナは肯定する。
小麦粉や卵、牛乳などと一緒に購入したレシピ本を見ながら、どれにしたものかとエリアナは考える。ただまあ、ケーキのようなものよりは、クッキーやマドレーヌのようなものの方が、贈られた方としては扱いが楽かとは思う。
「どうしてまた急に?」
「ど、どうしてでもいいでしょう? 何か、おかしくて?」
エリアナが睨むと、アシェットは苦笑を浮かべた。
「いえいえ、全然おかしく何てありませんよ。今も昔も、そして身分を問わず、こういうのは女にとって強い武器ですからね」
「武器?」
「そうですよ? 胃袋を掴めって言うではありませんか。何だかんだいって、こういうのに弱い男性は多いんです。何を隠そう、私も旦那を見合いの席でそうやって口説き、捕まえました」
「口説……っ? いや、違っ。別に私、そういうつもりじゃ――」
エリアナは慌てて弁明しようとするが、アシェットは首を傾げる。
「アストル殿下に、という話ではないのでしょうか?」
エリアナは思わず呻く。
「そ、そそ。そうでしてよ。いつか、あの人に贈るため。その練習のためなんですのよ」
「ですよねえ」
幸いにして、アシェットは素直に納得してくれた。エリアナは内心、安堵する。と、同時にこれは確かに、いつかアストルへと送る際への絶好のアピール材料になると思った。
これを機会に、練習しておくのも悪くはない。
と、思った直後、エリアナは頬を引き攣らせた。
猫の鳴き声が、厨房に響いた。
「あら、猫ですか。こんなところに来るなんて、いけませんねえ」
サバトラ柄の仔猫が、元気にエリアナの足元へと駆け寄り、頬を擦り付ける。
「でも? この猫、あまり貴族の間では見ない柄のような?」
「ち、違うんですのよ? これは、決してうちで飼っているとか、そういう訳ではないんですのよ? 野良猫でしたけど、単に学校で誰も引き取り手がいなくて。だから仕方なく預かっているだけでしてよ? な、名前だってまだ無いんですからね」
「でも、随分と懐いているみたいですよ?」
「煩いですわね。兎に角、うちの猫という訳ではないんです。この猫にちなんだ変な噂が立つようなら、出所はあなただと判断して、ただでは済ましませんわよ」
「ええ、まあ。そこは貴族の人達にも色々な人がいますからね。言いふらしたりするつもりは無いですよ。ご安心下さい」
「そう? そこまで言うのなら、信じますけれど」
任せろと言わんばかりに、アシェットは胸を叩いた。
それを見ながら。実際、こんな心配は杞憂であって欲しいとエリアナは願う。
「ちなみに、私はこういうの、ちょっと自信があるのですが。お手伝いしましょうか? 少しくらいなら、時間がありますので」
「いいえ、結構よ。友人や料理番に聞いたけれど、レシピ通りに作れば良いだけなのでしょう? これくらい、簡単ですわ。それに、こんな時間に呼びつけたんですもの。あなたはもう、帰ってゆっくり休んで頂いて結構ですわ」
まだ朝も早い時間。リュンヌとの待ち合わせ時間には、十分な余裕がある。不安要素なんて、エリアナは何も感じていなかった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
待ち合わせの約束通り、リュンヌが広場に到着すると。彼女は目に見えて落ち込んでいた。ベンチに座って、がっくりと肩を落としている。
「どうしたの? そんなに浮かない顔をして」
リュンヌが訊くと、彼女は恐々と口を開いた。
「その。リュンヌ? 最初に、言い訳をさせて下さいまし?」
「言い訳?」
「ええ。最初はね? 約束していたお菓子に、私が贔屓にしている店のものか。友達の間で人気の店のものを贈ろうと考えていたんですのよ」
「うん」
「でも、友達がね? そういうのはよくないって。ほら? この前贈ろうとしたものは、あまりにも高価すぎるって、あなた言っていたじゃありませんの。それもあって。だから、本当に感謝の気持ちを贈りたいなら、手作りの方が伝わるって。そう、言ってくるものですから」
「エリシアが、自分で作ろうとしたの?」
彼女は頷いた。
「か、勘違いしないで下さいまし? 手作りにしたのは本当に、そういう理由で。私には、好きな人がいるんですのよ?」
「え? ああ、うん。そうなんだ。それは、勘違いしないけど。安心していいよ。僕も、そんな自惚れているつもりは無いから」
微かに頬を赤らめる彼女に、リュンヌは微笑む。
「な、ならいいですけど。それで、こうして作ってはみたんですけれど。友人お薦めのレシピ本も買って、材料も出来るだけ新鮮なものを取り寄せたんですのよ。朝から、準備も万端で――」
どんどんと小さくなる彼女の声から、リュンヌは察した。
「つまり、失敗してしまったと?」
溜息を吐いて、彼女は首肯する。
「段取りや、慣れの問題よね。これは。思うように作業が進まなくて、それで失った時間を取り戻そうとしたら、オーブンの火加減も間違えて」
「見せてくれる?」
彼女が無言で差し出してきた紙袋を開いて、リュンヌは中身を取り出す。かなり焦げたクッキーだった。
「せめて、約束を守るつもりだったのだということだけは分かって貰いたくて、持ってきましたの」
「なるほど」
リュンヌは手にしたクッキーを口の中に入れた。
「ちょっと? リュンヌ、あなた何を食べているんですの?」
「折角作ってくれたんだからね。勿体無い」
「でも、そんなの美味しくないでしょう? 出来るだけ、無事なものを選んだつもりですけれど」
「うん。苦くて焦げ臭い」
苦笑を浮かべつつ、リュンヌは素直に感想を述べた。
「とは言っても、食べられないほどじゃないし。前にも、似たような経験はしたことがあるからね」
「似たような経験?」
「世話になっている家のお嬢様が、友達と喧嘩して。お詫びにクッキーを作ったんだけれど、同じように失敗したんだ。奥方様が、食べ物の無駄には厳しい人でね。それで、僕もその失敗作の片付けを手伝わされたっていうわけ」
「でも、だからって。私はそのお嬢様でも奥方様でもありませんわ。そんな、無理に食べなくても」
「好きでやっているんだよ。これが、エリシアの感謝の気持ちだって言うのなら、それにきちんと応えたい。それだけだ」
しかし、そうは言っても彼女は納得がいかない。そんな、浮かない顔が消えなかった。
これは、いっその事何か罰を与えた方が、彼女の気が軽くなるのかも知れない。そう、リュンヌは考える。
「ちなみに、エリシアが好きな男の子って、どんな人なの?」
「なっ? 何で急にそんな? あなたに関係――」
「甘い話でも聞けば、ちょっとはこの口に広がる苦みも中和されるかも知れないと思ったんだけど?」
リュンヌが悪戯っぽく笑うと、彼女は呻いた。
「仕方ありませんわね。でも、名前は言いませんわよ。よろしくて?」
「いいよ。それで。それで? どんなところが好きなの?」
「どんなところって、訊かれましても」
彼女は、しばし虚空を見上げた。
「一言では、説明出来ませんわね。きっと、私はあの人のすべてが好き。そういう事なのだと思いますわ」
「べた惚れだね」
からかうと、彼女は顔を真っ赤にして俯いた。
「いつからっていうのも、分かりませんわね。子供の頃からですもの。私ね? 家の躾が厳しくて、それは仕方のない話だって分かっていましたけれど。それでも、子供心にはやっぱり辛くて、苦しかったんですの。今から考えても、暗くて地味な子供でしたわ」
「大変だったんだね」
「そうね。そんなとき、夜会であの人と出会ったんですの。同い年の子供で、そして同じような悩みや辛さを抱えている人だった。私達は、互いに慰め合い、励まし合った。大げさな言い方かも知れないけれど、人生で初めて私を理解してくれる人に出会えたって思ったの」
「その男の子の存在が、君にとって生きる希望になったっていうこと?」
「そうよ。そして、私もあの人にとって生きる希望になりたい。そう思ったの。この気持ちだけは、世界で一番。誰にも負けていませんわ」
強く言い切る彼女の言葉を聞きながら。リュンヌは少しだけ、口の中が甘くなった気がした。
【猫の名前】
エリアナ「猫の名前? そうね、ゲレゲレというのはどうかしら?」
リュンヌ「いや、その名前はちょっと……」
ソル「そうですわ。そんな名前を付けようだなんて、センスが無くってよ(お嬢様ポーズを決めながら)」
エリアナ「じゃあ、あなたならどんな名前を付けると言いますの?(怒)」
ソル「そうね? ここは今風に……ギコギコというのはいかが?」
リュンヌ「ベビーパンサーの名前じゃないんだってば!」




