第151話:消えない痛み
ソルは大きく息を吐き、脱力した。
「終わりましたわ」
手にした書類を他の書類の山に置いて、ソルは宣言する。
無事に締め切りに合ったという安堵感と共に、一気に疲労感が押し寄せてきた気がした。
「お疲れ。ソル」
「お疲れ様でした。ソル様」
アストルとリュンヌから、労いの言葉を貰ってソルは笑みを浮かべる。
「ええ。アストルもリュンヌもお疲れ様。本当に助かりましたわ。これなら、夜のうちに帰ることが出来そうですわね」
「とは言っても、もう日を跨いでしまいましたけどね」
互いに疲れた顔を見合わせながら、三人はささやかな達成感を味わう。
「ソル。この書類はどうするんだい?」
「指定の保管庫に入れておきますわ。提出も私が残って、朝になったらするつもりです。それまで、私はここで一眠りしますわ」
ソルは大きく欠伸をした。
そんなソルに、アストルは顔をしかめる。
「ソル様。それは流石に、お止め下さい。アストル様が心配されています。ソル様がそんな真似をするくらいでしたら、僕が残りますよ。ソル様は寮にお戻りになって、横になって寝て下さい。僭越ですが、アストル様。ソル様を送っていって頂けないでしょうか?」
「えっと?」
リュンヌから出てきた申し出に、ソルは少し躊躇した。
「そうだよ。ソル。そうしてくれ。馬車は外で待たせてある。ここは、私に君を送らせてくれないか?」
アストルから、有無を言わさない強い眼差しで見詰められて。
「分かりましたわ。お言葉に甘えさせて頂きましてよ」
ソルは、頷くしか無かった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
アストルに送られながら、ソルは人気のない通りを馬車の中から眺める。
こんな真似は何度も経験したつもりではあったけれど、気が抜けてくると眠気が襲ってきた。
「ソルは、リュンヌのことを随分と頼りにしているのだな」
沈黙に耐えられなかったのか、アストルから声を掛けられた。
ソルは苦笑を浮かべる。
「そうですわね。思い返せば、リュンヌには頼ってばかりでしたわね。相談に乗って貰ったり、愚痴を聞いて貰ったり。至らないところも多いけれど、助けて貰った事は多いですわ。あまりにもいいように使っているんじゃないかって、ときどき自分でも思うくらいですわ」
「彼も王都に来ることになって、ソルは安心したのかい?」
「そうですわね。そういう気持ちが全く無かったと言えば、嘘になりますわ。何だかんだで、小さい頃から一緒に過ごしてきたんですもの。もし、父もリュンヌも一緒でなければ、少し心細かったかも知れませんわね」
小さい頃から一緒に過ごしてきた。それは嘘である。彼とはまだ、ほんの数年の付き合いでしかない。けれど、仮に本当に子供の頃から一緒だったとしても、このような関係だったような気がする。
「仲もいいんだな」
「どうかしら? しょっちゅう喧嘩もしましたわよ? アストルの前だからさっきも澄まし顔でしたけれど。リュンヌったら、平気で私のことを『馬鹿ですかあなたは?』とか『ンだとこら!』とか、『マジでそれは止めろ』とか言うんですのよ? 私のことを一体何だと思っているんだか」
鼻を鳴らし、ソルは唇を尖らせる。
「そうか、君達は普段はそんな感じなんだな」
「いつもではありませんけれどね」
「じゃあ、一体何がどうしたら、そんな風な喧嘩になったりするんだ?」
アストルの問いに、ソルはしばし考える。
「ごめんなさい。よく覚えていませんわ。切っ掛けはどれも些細なことだった気がしますわね」
「そうなんだな」
とは言いつつも、リュンヌとやり合った色々な出来事が、妙に懐かしい気がした。
自然と、頬がほころんだ気がした。
と、馬車が寮の前に到着する。門限はとうに過ぎているが、事情は伝えているので、入り口の係に言えば穏便に中に入れて貰えるはずだ。
アストルがまず先に降りて、馬車の後ろを回ってソルの側の戸を開けた。
彼から差し出された手を取って、ソルは馬車から降りる。
「アストル?」
ソルの頭に疑問が浮かんだ。彼が、手を離そうとしない。
と、思った次の瞬間。ソルの顎が彼の左手で持ち上げられた。
「――っ!?」
そのまま、気付けばアストルから唇を塞がれていた。
あまりにも突然の出来事に、ソルは目を白黒させた。恋物語に出てくるような、目を閉じるといった考えも浮かばない。
どれほどの時間。という程には長くない時間だったと思うが。アストルの唇がソルの唇から離れる。
「ソル。君は、私のものだ。それを忘れないで欲しい。それじゃあ、お休み」
それだけ言って、アストルは踵を返し、素早く馬車に乗り込んだ。
ソルが追いかけようとか、何か言おうとするよりも早く、馬車が進んでいく。
ソルは唇に右手を押し当てながら、遠離っていく馬車を見送った。
余韻が残る唇の感触と胸の痛みに、彼女の頬を涙が一筋零れる。




