第148話:悪魔の手先
職場で机に向かいながら、オルトランは重苦しい溜息を吐いた。
あれから数日が経ったが、ソルと彼女が頼んだ商会は順調に成果を上げている。このままでは、あと数日後には溜まっていた仕事は無事に片付くことだろう。
それは、所属している部署、ひいては国全体のことを考えれば歓迎すべき話だ。
しかし、オルトラン個人が置かれた立場としては、非常に困ったことになる。
痛む腹を押さえながら、彼はゆっくりと仕事を進めていく。好きでゆっくりしているわけではない。頭の中がまるでまとまらず、集中出来ないからだ。
「これも、報いというものかも知れないな」
そう独りごちると、苦い思いが口の中いっぱいに広がった気がした。
エトゥルを陥れることに、何の呵責も無かったと言えばそれは嘘になる。辺境の田舎貴族らしく、少々気品に欠ける印象こそあったが、気さくで取っつきやすい人物だった。彼の方が年上ではあったが、そういうもので虚栄を張ろうという態度も無かった。
立場さえ違えば、友になれたかも知れないと思う。互いに娘を持つ父親同士、子育ての苦労や喜びといった話をするのは楽しかった。
だが、幾ら気乗りしないものが有ったとはいえ、事実として彼を苦しめたという結果に変わりは無い。
では、断るべきだったか?
オルトランは首を横に振る。
それもまた、出来ない選択だった。
中央近隣の多くの貴族達がそうであるように、オルトランの家もまた彼女の家からは大きな影響を受けている。そして、オルトランの家の場合は特に大きな借りがあるのだ。
父の代で、領地の運営で大きな失敗を起こしてしまった。農地と輸送路の拡大を計画したのだが、なかなか上手くいかなかった。それまでに費やした投資の額から、なかなか損切りに踏み切ることが出来ず、気付けば取り返しの付かないところまで進んでしまっていた。
そうして、破産しかけたところを救ってくれたのが彼女の家だった。彼女の家からの援助はまだ続いていて、それが途切れれば家は取り潰されたちまち一家は路頭に迷うことになるだろう。もしくは、よくて辺境への任地転向だ。
オルトランの頭に、故郷に残してきた家族の姿がよぎった。
庶民から見ればどうかは知らないが、伯爵という身分で考えると裕福とはいえない暮らしをさせていると思っている。子供が同じ伯爵の子供と会った時に、色々と自慢されて泣いて悔しがったこともある。色々と、我慢させてしまっていることも多い。それでも、家族の協力で少しずつ状況は改善してきたのだが。
何事も、優先順位を付けなければいけない。相手がどんなに良い人間であれ、自分の家族と相手の家族。優先して守るべき相手はどちらかと考えると、答えは一つしか無かった。
オルトランは、鬼になることを決断した。それに、彼女からはそれが政治の秩序を保つ結果に繋がるとも説明されていたのだ。確かに、辺境の田舎貴族がこうして中央貴族の場に入り込んでこようというのは、何者かの企みを感じる話だった。
しかし、こうして良心の呵責を押し殺し、エトゥルを追い詰めたというのに、今となっては追い詰められているのは自分の方だ。
ソル達が仕事を片付けてしまえば、彼女からの命令は未達ということになる。そうなれば結局、援助は減らされるか、最悪打ち切られることにもなりかねない。
ならば、彼女の両親に訴えるか? それも、現実的では無いだろう。
今の彼女は、ただの小娘ではない。詳細は不明だが、社交の場にめっきり出てこなくなった両親に代わって、家を取り仕切っているという話だ。つまりは、それが出来るだけの力を持っている。実質的に家の権力を握っているのが彼女である以上は、訴えは意味が無い。
一体、何が彼女を変えてしまったのか?
ふと、オルトランはそんな事を思った。
まだ幼かった頃の彼女の姿を思い出す。
彼女は物静かで大人しく、どちらかというと引っ込み思案な子だった。それでも、優しい子だった。
家が今よりも苦しく、オルトラン自身先の見えなさに不安に包まれ、自信を失っていた頃のことだ。彼女の家に現状と今後の報告に行った時、彼女に言われた。自分のことは親から知らされたのだろう。彼女はたどたどしくも「頑張って下さい。苦しいとは思います。けれど、あなたなら、きっと出来ますから」と言ってくれた。
当時のオルトランにとっては、弱り切っていた心に沁みた。今の彼女が、そんな話を覚えているかどうかは知らない。どれだけの影響を与えたことか分かっているのかも知らない。だが、その時にオルトランは誓った。この子のためなら、自分は幾らでも彼女を支えてみせようと。
「どうすれば、いいんだ」
進んでも、退いても、立ち止まっても、バッドエンドしか見えてこない。オルトランは途方に暮れ続けた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
夜遅くまで残業をして、オルトランは庁舎を出た。
昏い瞳を浮かべたまま、帰路に着く。こんな遅くまで残業をしていた者は他におらず、周囲に人気は無い。
「失礼、オルトラン伯爵様でございますか?」
と、庁舎の門を出たところで不意に声を掛けられた。
何の気配も感じていないところから声を掛けられたというのに、彼は驚かなかった。もう、そんな反応を見せてやる気力すら無いと、彼は思った。
無言で、オルトランは声の主を見た。声の通り、若い女のようだった。目深に被った帽子と夜の暗さで、彼女の顔はよく分からないが。
「だとしたら、何の用だ?」
オルトランは不機嫌な声を投げつける。
こんな時間に、一人で出歩く若い女などどうせろくでもない相手に決まっている。顔を隠す帽子もそうだが、黒を基調として闇に溶ける服装も、まるで喪服を思わせて怪しすぎる。
ただでさえ、精神的に追い詰められているところに、そんな女の相手などまっぴらご免だというのが、オルトランの正直な心情だった。
「あらあら、随分とお疲れのようですね。こんな夜遅くまで、お疲れ様でございます」
オルトランは舌打ちした。彼女にしてみれば、労いの言葉のつもりだったのかも知れないが、それすら患わしい、
「要件があるなら、さっさと言え。私は疲れているんだ」
「これは失礼致しました。それでは、早速本題に入らせて頂きましょう」
恭しく一礼して、彼女は一枚の札を取り出して見せてきた。
それを見て、オルトランは思わず彼女を睨み付ける。貴族として、その商会の屋号は覚えている。
「貴様、一体何のつもりだ?」
彼女は薄く嗤って見せてきた。
「そのご様子だと、さぞかしお困りのこととお見受け致します」
オルトランは押し黙った。相手の出方が分からない以上は、下手な返答は出来ないと思った。
「そう邪険にしないで下さい。私は、あなたを助けに来たのですから」
「助けだと? 貴様が? 私を?」
オルトランは困惑した声を上げた。彼女がそう言ってくる目的がさっぱり見えてこない。
「はい。私から、あなたに耳寄りな提案があるのですが。いかがでしょうか? 少々、お時間頂けませんか? ああ、勿論長いお時間は頂きません。場所も明るい場所に移しましょう。こんな所に押し掛けておいてなんですが、私も人妻ですので。妙な噂は立てられたくないんです」
「是非、そうして貰いたいものだな。私も、妻を愛しているのでね」
長年、苦労を共にしてくれた妻だ。裏切るなど、到底出来るはずもない。もしこの女が、そういった申し出の為に近付いてくる女だったとしたら、即座に断るつもりだった。
しかし、直感として、悪魔の手先のように感じたこの女の提案に素直に乗ることが正解かどうかも、また分からなかった。
「いや」と彼は内心苦笑し、思い直す。
悪魔の手先というのなら、自分も既に似たようなものではないのだろうか?
笑うセールスレディ
オルトラン「貴様は誰だ」
???「セールスレディです。いえいえ、ただのセールスレディではございません。私が扱うものは心。あなたの心の隙間を埋めさせて頂きます」
???「ど~ん!(人差し指を向けながら)」