第144話:協力者とクッキー
寄宿舎からエトゥルを連れだし、ソル達は停めていた馬車へと彼を押し込んだ。
エトゥルにしてみれば、寝間着姿のまま、こうして寄宿舎の中で好奇の視線に晒され、連れ出される姿というのは恥ずかしくて堪らなかっただろう。
その代わりに、ソルとリュンヌは精一杯に胸を張って、堂々とここまで来た。
「出して頂戴」
馬車の中で待っていた女が、御者へと告げる。馬車は速やかに指示に従い、前へと進み始めた。
見知らぬ女が馬車にいたことに、エトゥルが困惑した気配を出すのをソルは感じ取った。
「お父様。説明が遅れましたわね。彼女は私達の味方です。私達は、彼女の情報からお父様の身を案じて駆けつけたのです」
「ええっと? 失礼、どなたなのかな?」
「私達が作っている薬の販売で協力して頂いている、バラン=マーシャンの妻ですわ。ほら? 去年の秋に来た、商人の男がいたでしょ?」
「あ、ああ」
「そこから先は私が」と、女はソルに頷く。
「アシェット。アシェット=マーシャンと言います。旧姓はグランソンです。エトゥル様、お会い出来て光栄です」
恭しく、アシェットは頭を垂れた。
「グランソン? グランソンって、ひょっとしてあのグランソン商会の?」
「お恥ずかしながら。そのグランソン一族のものです。それに、この国の中でも最も老舗というだけで、今となっては商会の規模も影響力も微々たるものですよ。私も、一応は本家の人間ではありますが」
アシェットの自己紹介に、エトゥルは唸る。
「それが、何故?」
「幸いながら、細々とですが王室とは未だに懇意にさせて頂いているお仕事もあります。その関係上、王室に関係する情報も集めるようにしております。その関係でソルお嬢様がアストル殿下と月婚関係を結ばれたことも聞いております。失礼ながら、その延長でソルお嬢様の事やエトゥル様のことを気に掛けておりました。お嬢様には、夫がお仕事で大変にお世話になっていますので」
「なるほど」
「そこで、気になる噂を聞いたのです。辺境担当の部署から、中央地方へ異動してきた貴族が仕事で成果を出せていない。また、何日も無断で欠勤をしているという話でした。捨て置くにはあまりにも気になる話です。ですので、商会の人間を使って、数日前からエトゥル様のご様子を探らせて頂きました。そうしたところ、噂通り、寄宿舎から出勤されたご様子がございませんでした。これは、何事かある気がして、勝手ながらソルお嬢様にその事を伝えた次第でございます」
「そういうことだったのか。まさか、そんな風に私のことを見ている人間がいたとは」
エトゥルは苦笑いを浮かべる。
「それともう一つ。エトゥル様を気に掛けたのは、決して商売の損得だけの話ではございません」
「というと?」
アシェットは軽く笑い、脇に置いた箱を手に持ち、エトゥルの目の前で開ける。
「こちらは、私が何者かを証明するために用意したものです。ソルお嬢様にも、召し上がって頂きました」
「これは? クッキー?」
「お一つどうぞ」
微笑むアシェットに促され、エトゥルはクッキーを一枚摘まんだ。しげしげと見詰める。
「ご安心下さい。毒なんて入っていませんよ。お嬢様も、随分とそうして見ていましたけれど」
くすくすと、アシェットは手を口に当てて笑う。ソルは唇を尖らせた。だって仕方がないじゃないか、染みついた経験が、そうさせたのだから。そんなに面白がることないだろうと思う。決して、説明は出来ないが。
それが、アシェットにしてみれば、似たもの親子だとでも思っているのだろうけれど。
「いや。すまない。そういうつもりじゃないんだ。ただ、こんなところで、こんな風にクッキーを出されるとは思わなかったから。有り難く頂くよ」
苦笑を浮かべ、エトゥルはクッキーを囓った。
「ん?」
彼は小首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「あ、いや。その」
エトゥルは頭を掻いた。
「気のせいかな? ああ、その。実を言うと、ここ最近、ずっと味覚がおかしいんだ。何を食べても味が鈍いというか、食感も砂か土を噛んでいるような感じがして。だから、錯覚かな? こんなこと、あるはずが。でもこれは、まるで――」
「お口に合いませんでしたか?」
アシェットの問いに、エトゥルは首を横に振る。
「いいや。とんでもない。美味い。本当に美味いよ。久しぶりに、こんなに美味しいものを食べた気がする。しかし、この味は一体どういうことだ?」
「正真正銘、私が焼いたクッキーです。奥方様や、ソルお嬢様が焼いたものではございません」
「馬鹿な。しかし、これはあまりにも妻が焼いたものに似ている」
「理由は、簡単なことです」
「というと?」
唸るエトゥルに、アシェットは頷いた。
「エトゥル様の奥様は、商家の娘でした。そうですよね?」
「あ、ああ。その通りだ。私の妻、ティリアは離れた街の。そこでは結構大きな商家の娘だったんだ」
「このクッキーは、元々は我が商会に代々伝わるものです。生まれた娘や、暖簾分けをする店にだけ教えるんですよ」
「とすると、まさか?」
「過日。私達も奥方様の出身の商家を確認しました。由来を確認しましたが間違いありません。奥方様は、私達と縁ある方です。そして、エトゥル様やソル様もです。故に、我が商会の掟に従い、僭越ながら助力に参った次第です」
「そうか。聞いたことがある。君達、グランソン商会は、そうだったね。掟と、商会に連なる者の絆を大事にすると」
納得したと、エトゥルは頷いた。
「今、この馬車は商会が手配した部屋に向かっています。エトゥル様にはそちらで、療養して頂きます」
「療養って。いや、こんな事を言うとあれだが、私の体はどこもおかしくは――」
エトゥルの言葉を遮って、ソルは彼の肩を掴んだ。思いっきり睨んで、揺さぶる。
「何を言っているんですの? 勢い余ってあんな真似しようとしたくせに! 今のお父様は、心が弱り切っているんですの。二度とあんな馬鹿な真似をなさらないように、何が何でも休んで貰いますわよ?」
「わ、分かった。分かったよ。大人しくそうするよ」
ぐらんぐらんと首と頭を揺らしながら、エトゥルは応える。
「それで? 次はお父様の番ですわ。お父様は、一体何があったんですの? 落ち着いて? 詳しく話して下さいまし?」
「あ、ああ。そうだな。ちゃんと、お前達に話さないといけないよな」
エトゥルは大きく肩を落とし、溜息を吐いた。
ボツネタ①
放課後の寮でソルがアシェットに出合って、クッキーを食べたとき ※本編の描写は無いシーンです
ソル「しかし、この味は一体どういうことですの?」
ソル「いえ待ちなさい? 微かに、微かに何か香りがついている。この香りが、この一見すると何の変哲もないクッキーに鮮やかでふくよかな奥行きを生み出しているのね」
ソル「この香りは何? おのれ、この私を試そうというんですの!」
ソル「そう。問題はこの香り。果物? いいえ違う、これは木の実ね。木イチゴではない、サクランボでもない、コケモモでもない――」
リュンヌ「ソル様? これは、どこぞのグルメ漫画ではないんですが?」
◆ ◇ ◆
ボツネタ②
エトゥルがクッキーを食べたとき
エトゥル「お、おお。うあ、あああああ(感涙)」
エトゥル「美味い。こんなに美味いクッキーは久しぶりに食べた気がする。美味い。本当に美味い(涙腺崩壊)」
エトゥル「これに比べたら、ソルのクッキーはカスだ」
ソル「くっ(歯ぎしり)」
アシェット「ふふっ。ソルお嬢様。料理は人の心を感動させてはじめて芸術たり得るのです。そして、これが本物のクッキーというもの。お嬢様との違いが、何によって生まれたか、お分かりですか?」
ソル「材料の差ですわ! 豊富な資金を使い、最高級の材料を集めてこれを作りましたわね」
アシェット「材料の差ですって? 何を愚かなことを!」
リュンヌ「だからあんたら。これは、どこぞのグルメ漫画じゃないんですってば!」