第143話:誇らしき父
部屋に入った途端、ソルは息を飲んだ。エトゥルが床にへたり込み、刃物を自身の首に押し当てていたのだ。
暗い部屋の中で、エトゥルは光を失った瞳でソルとリュンヌを見る。それでも、彼は微かに笑っているように見えた。
「ごめん。本当に、すまない。折角来てくれたのに。でも、お前達の顔が見れてよかった。リュンヌ、どうかソルの事を――」
「馬鹿な真似はお止めなさいっ!」
弱々しいエトゥルの声を聞くなり、ソルは我に返り、反射的に喝を入れた。それに気圧されて、エトゥルがびくりと体を震わせる。
間髪入れずに、リュンヌが動いた。エトゥルがろくに反応するよりも速く、彼はエトゥルへと突進して、その手を蹴り飛ばす。
軽い音を立てて、部屋の片隅へと刃物が転がった。
「エトゥル様。失礼しました」
呆然とするエトゥルの前にリュンヌは跪き、頭を垂れた。
ソルは燭台に明かりを灯し、エトゥルへと近付く。明かりによってエトゥルの様子がよく見えるようになると、彼の様子の酷さがより分かった。
エトゥルの様子は、明らかにおかしかった。顔色は悪く血の気が失せている。その視線にも力が無い。
へたり込むエトゥルの前に、ソルも座る。エトゥルに、目線を合わせた。そして、彼の手を取る。その手の温もりが、最悪の事態に至らなかったことの証明で。その事にソルは安堵した。
「お父様。無事で、何よりですわ」
「ソル。でも、俺はもう、お前達に到底、顔向け出来るような男じゃないんだ」
「まさか、お母様を裏切って、浮気でもしたんですの?」
目を細めて、ソルは訊いた。考えもしなかったのか、エトゥルは少し目を丸くして、首を横に振った。
「し、してないよ。そんなことは。俺は、ティリア以外の女と何て、考えられない」
「じゃあ、何ですの? また、秘戯画集に手を出して、歯止めが利かなくて何百冊も買ってしまって、誤魔化しが利かなくなったんですの?」
「馬鹿な。お前、実の父親を何だと思っているんだ。ティリアにも固く約束させられているんだぞ? そんなもの、買うわけ無いじゃないか」
どうやら、まだ嘘を吐く気力は残っているようだとソルは判断した。
流石に、無視出来ないほどの購入をしてはいないが、数冊程度の購入は絶対にしているはずだ。特に、先日にリュンヌと二人きりになった時間が怪しい。その日のリュンヌの反応から、ソルは確信している。それを今、追究する気は無いが。
「博打に手を出して、莫大な借金でも作ったんですの? それも、人に言えないような相手にとか」
「や、やっていないよ。そんな真似、とてもじゃないけど俺には出来ないし。興味も無い」
「ですわよねえ」
うんうんと、ソルは頷く。同様に、彼女の隣でリュンヌも頷いた。
「となると。まさか、犯罪に手を染めてしまった? 誰かを殺してしまったとか?」
「いやあ? ソル様。エトゥル様に限って、それは無いでしょう」
「ですわよねえ?」
ねえ? と、ソルとリュンヌは顔を見合わせ、互いに頷く。
それに釣られて、エトゥルの顔も、少しだけ頬が緩んだ。そう、ソルには思えた。
「どれも違う。そういう話じゃないんだ。俺は、仕事が出来なくてね。新しい部署に異動してからというもの、本当に役立たずで、無能で、足を引っ張ってばかりで。ダメな男だよ。今日も、黙って仕事を休んでしまったんだ」
ぽつりと告白するエトゥルに対し、ソルは嘆息した。
溜息に対し、怯えて身を震わせたエトゥルに対して言ってやる。
「なぁんだ。そんなことですの?」
「はぇ?」
予想だにしていなかったのか、エトゥルから間の抜けた声が漏れた。
「な、何を言っているんだソル? 俺はな? 中央地方の担当になったんだ。そして、そこで何の成果も出せなかったんだぞ? それが、どういうことなのか分からないのか?」
「だから、それがどうしたっていうんですの?」
「それがどうしたって。お、お前は本当に分からないのか? いいかい? 中央地方の貴族や仕事というのは――」
「お黙りなさいっ!」
ソルの声に、エトゥルは口をつぐんだ。すかさず、ソルは続ける。
「いいですこと? お父様は浮気もしていなければ、犯罪も犯していない。目先の欲に溺れて馬鹿げた借金を作ったりもしていない。人の道に外れたことは何一つとしていないんですのよ? そんな真似をしていない限り、お父様は例えどうなろうと、私達にとっては誇らしいお父様ですわ」
「そうですよエトゥル様、ソル様の仰る通りです。エトゥル様がご家族のことを想い続け、人道に背くような真似をなさらない限り、僕達は決してエトゥル様を見損なったりなんてしないんです。どうか、信じて下さい」
「そうか。お前達は、まだ俺のことをそんな風に想ってくれるのか」
エトゥルは項垂れた。嗚咽が漏れる。
「大丈夫。すべては、大丈夫ですわ。お父様は今、お仕事でお疲れになっているんです。今のお父様に必要なのは、休養ですわ。後のことは、私達に任せて下さいまし」
「エトゥル様。この部屋を出ましょう。こんな部屋に閉じ籠もっていては、治るものも治りません」
リュンヌがエトゥルの隣へと移動し、肩を彼の脇に入れて立たせた。
「この部屋を出る? 出て、俺を一体どこへ連れて行こうと言うんだ?」
「それは、道すがら説明しますわ。お父様も、何があったのか具体的に教えて下さいまし」
「分かった。俺も、説明するよ」
リュンヌの反対側へと回り、ソルも肩を貸した。ちらりと横顔を見ると、エトゥルはぎこちなく、微笑みを浮かべていた。