第142話:死と救済
ここのところ数日、ソルとアストルによる、短い放課後デートは盛り上がりに欠けた。
それが、ソルの正直な感想であり。また、アストルもそうだろうと彼女は思っている。
会話が無い訳ではないし、一緒にいて楽しくないわけでもない。彼と一緒にいる時間が幸福であることに、変わりはなかった。
けれど、唇を重ねる直前まで行きながらも、結局それには至らなかった後で、またどうすればそのような雰囲気に持って行けるのかというと、なかなかそうもいかなかった。
あれ以来、互いに妙に意識してしまって、どこか遠慮がちになってしまっている。そういう溝をソルは感じていた。
「着いたよ。ソル」
「そうですわね。本当に、あっという間ですわ。これも、何度も言っているように思いますけれど」
名残惜しく、ソルは苦笑を浮かべた。
「それじゃあ。私はこれで。愛しているよ。ソル」
「ええ。私も、愛していますわ。アストル。また明日」
互いに微笑みを浮かべながら軽く手を振る。
アストルは、踵を返し。ソルに背中を向けて遠離っていった。ソルはぼんやりと、遠離るその背中を見詰める。
その背中も人混みの中に消えていく頃に、ソルもまた女子寮の門を通って、敷地内へと入っていった。
と、ソルは小首を傾げた。
寮の建物入り口前に、見知らぬ女が立っていた。ソルよりは幾らか年上だが、若い女だ。
それだけなら、ソルもさして気にはとめなかっただろう。念のため、それとなく記憶の片隅には残しておくだろうが。
しかし、その女は明らかにソルに対して意志ある視線を向けてきた。それが、邪悪なものにも感じられなかったが。
少しだけ訝しげに入り口に向かっていくと、その女は礼儀正しく、軽く頭を下げてきた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
時として、人生には決してやってはならない、取り返しの付かない過ちをしてしまうことがある。
エトゥルはそれを今、激しく痛感し、後悔していた。
その過ちがいつからかというのも分からないし。何が間違いだったかと言えば、きっとこれに関わる全部だったのだろう。何から何まで、間違え続けてきた。それが、今の結果なのだと思う。
王都にいる間に与えられた、真っ暗な自室の中で、エトゥルはベッドの中で藻掻き苦しむ。
とにかく、頭が痛い。そして、全身が鉛のように重い。指一本動かすことすら億劫で仕方がない。吐き気を催すくらいに気持ちが悪くて、いつも誰かに悪く囁かれているような気がする。
何もしていないのに、無性に涙が零れてくる。ただただ悲しくて、今自分がこうしていることが申し訳なくて堪らない。
眠くて仕方がないのに、眠ればきっと良くなると思うのに、眠ろうとすると全身の痛みや不安、恐怖がそれを妨げてきて、まるで眠くはならない。
そのくせ、やっと眠ったと思ったら恐ろしい悪夢ばかりを見てしまうのだ。その悪夢がどんなものだったかは覚えていない。いちいち、とてもじゃないが覚えていられない。ただしかし、どれもが死んでしまった方がマシで、一体自分のどこからこんな発想が出てきたのかと思えるほどに恐ろしい目に遭う夢だった。
ひょっとしたら、ルトゥ。家で預かっている遠縁の男の子も、思えばこんな思いで部屋に閉じ籠もっていたのかも知れない。
彼は、家にやって来て少し馴染んできたかと思った頃に、町で恐い目に遭わされて、閉じ籠もった。ひょっとしたら、そうして閉じ籠もったままになってしまうのではないかと心配に思ったが、彼は翌日には部屋から出てきてくれた。
それを思えば、彼はまだあんなにも小さな少年だというのに、何という強い心の持ち主だったのだと、エトゥルにはそれが眩しく思う。その一方で、自分の心の弱さが際立つように思えて、情けなくて仕方がない。
ろくに仕事で成果を上げられなかった挙げ句、無断で休むようになって、もう何日が過ぎたか分からない。
だというのに、この部屋には誰も訪れようとはしなかった。見舞いに来る者は勿論、叱責に来る者もいない。
誰も来ないというのもまた、エトゥルにとっては有り難く、そしてまた同時に恐ろしいことだった。
つまりは、誰も今の自分を咎めに来ていないということであり、それは今のエトゥルにとっては耐え難いことだからだ。しかし、同時にエトゥルはそんなはずが無いことも理解している。これが、仕事の上で何のペナルティも無い訳が無いのだ。今頃はもう、とっくに自分の与り知らないところで処分が決まっていて、いつその通告が来るのかも分かったものではない。
そういう、いつ終わるとも知れない宙ぶらりんの状態が、エトゥルに絶え間なく想像を掻き立てさせてくるのだ。
その処分がどうなるかは分からない。けれど、最悪の結末として予想は付く。
お家取りつぶし。家屋敷、財産は没収されて、一介の平民としての暮らしになる。家族には当然、強く恨まれることだろう。特に、ソルだ。彼女は今、この国の王子とお付き合いをして、女の子ならおよそ誰もが一度は持つであろう夢を叶えようと、そんな幸せの真っ直中にいる。そんな夢が、この愚かな父のせいで、砕かれようとしているのだ。彼女の絶望がどのようなものになるかと思うと、父親として胸が張り裂けそうになる。
「嫌だな。あの子のそんな顔、見たくないよ」
だから。もうこれで何度目か分からないが。死のうとも思った。
窓から飛び降りるか。首を吊るか。あるいは、自刃するか。そんな事を考えた。
けれども結局、実行に移せなかった。それだけの自責の念はあったのだと伝える手段は、もうこれくらいしか残っていないと言い聞かせながらも。決行した後の後始末とか、それに携わる人達の迷惑とか。そういう言い訳が次から次へと思い付いて、実行出来なかった。
エトゥルは、重苦しく溜息を吐いた。
長く静かな部屋にいるせいか、妙に耳が良くなった気がする。部屋の外の廊下を歩く足音が、今ではとても良く聞こえるようになった。人によって、歩き方が違うとか、それで誰が建物に戻ってきたのかとか、そういうのが分かるようになってしまった。
と、不意に慌ただしい足音が近付いてくるのが聞こえた。
軽快な足音と。そして、そのすぐ近くに、規則正しく力強い足音。
思わず、エトゥルは目を見開く。
その足音から割り出すイメージとして、少女と少年の組み合わせが思い浮かぶ。そして、彼の中でこの建物を訪れるそんな二人組は、愛する娘と、息子のようにも思える少年ぐらいしか可能性が残されていない。
早足で、二人は真っ直ぐにこの部屋へと向かってくる。だから、この予想はきっと間違っていないとエトゥルは確信した。
エトゥルはのそのそとベッドから這い出て、近くのキャビネットを開きペーパーナイフを取り出した。
床に座り込んで、彼は昏い瞳を浮かべ、腕を振るわせながらペーパーナイフの切っ先を喉元へと向ける。
慌ただしく近付いてくる二人の足音は、彼の部屋の前で止まった。