第141話:崩れていく足元
これ見よがしに。机を挟んでたっぷり長々と、エトゥルの前で男は溜息を吐いた。
その反応に、エトゥルは唇を噛んで体を強張らせる。
コツコツと、苛立たしげに男が机に人差し指を打つ音が響く。
「エトゥルさんさあ? 一体ここに何をしに来ているのか分かっているの?」
「申し訳ございません」
「うん? それは、分からないという意味?」
「いえ、決してそういう意味では」
「だったら、何が言いたいのかをきちんと相手に伝わるように答えましょうよ? 何度も、お願いしましたよね? まあ、幼少の頃からの教育如何では、なかなかそうもいかないのかもしれませんけど」
哀れみと侮蔑が混じった声に、エトゥルは固く拳を握り、震わせた。それが、怒りなのか、屈辱なのか、恐怖なのか。その理由ももうよく分からない。
ただ、目の前の男。オルトランに逆らうことは出来なかった。
自分は男爵。そして、自分に叱責を与えている相手は伯爵だ。そして、彼は異動した新しい職場での上司であり教育役でもある。
しがない下級貴族の生まれとはいえ、エトゥルにもその生まれに恥じないだけの教育は与えられてきたし、研鑽を積んできたつもりではあった。そうして築き上げてきた誇りが、日に日に砕け散っていくような感覚に襲われる。
「まったく。聞けばもう、かなり大きなお嬢さんやご子息がいるんでしょう? そのお歳でこれって、恥ずかしいとは思わないんですか? あなた、ここの部署に来てどれだけですか? 一体いつになったらまともに書類を作成出来るようになるんですか? あなたよりも10は年が下の私にここまで言われて、何とかしようとも思わないのですか?」
エトゥルは押し黙る。
その反応をしばし眺めて、再び男は深く溜息を吐いた。
「何も言えないんですか? 君のその口はただの飾りですか?」
ごくりと、エトゥルは唾を飲んだ。
「違います。私も、努力はしています」
恐々と、エトゥルは答える。
しかし、それもまた相手の神経を逆撫でするだけでしかなかった。
「そうですか。つまりあなたは、こうして実績が伴わないものを努力と呼ぶ。そんな意識なんですね」
「いえ、そういうつもりでは」
「じゃあ、どういうつもりだと言うんです?」
どう? と言われても。
それを説明する術は無い。何をどう言おうと、自身の実力が不足していることが明白で。つまりは自分が悪い。そういう結論が導き出されることになる。
エトゥルには、再び押し黙ることしか出来なかった。
「自分が何をどう考えているのかも分からない。それを説明することすら出来ないって。それでよくここまで、その歳まで生きてこられたものだと思います。大したものだと思いますよ本当に」
沈黙するエトゥルの前で、男は何度も何度も机に人差し指を叩き付ける。
「エトゥルさんはさあ。反省することすら出来ないんですか?」
「反省はしています」
「所詮『つもり』なだけですよね? その結果がこれなんですから」
オルトラン伯爵は、エトゥルが提出した書類を摘まみ上げ、彼に見せてきた。その書類には、何カ所もの添削が書き加えられている。ここはこうしろと言われていた指摘の抜けや認識違いの他。単純な誤字脱字もある。
エトゥルが何度も何度も見返したはずなのに、どうしてこうなるのかと、エトゥルには訳が分からなくなる。でも、そこにある書類は間違いなくエトゥルが作成したものだった。書類が細工されたとか、そういう痕跡は見当たらないし、エトゥルの記憶通りのものだ。
まるで、上書きされたのは書類ではなく、自分の記憶の方なのではないか? 例えば、魔法か呪いでも使われて、操られでもしたのだろうか? そんな馬鹿げた妄想が真実のような気さえしてくる。
どうして、こんな子供でもやるか分からない誤字脱字を繰り返してしまうのかと思う。つい半月ほど前に、ここに異動してくるまでは、こんな事は無かったと思うのにだ。
「それで? これをどうする? いつまでも黙っていないで」
「はい。やり直します」
「具体的には? 他にも任せている書類はありますよね? そっちの進捗は大丈夫なのですか?」
「それは――」
到底、期限に間に合うペースだとは言えない。
深夜まで残って、出来る限りのことはしているが、それでも追い着くとは思えない。
それが、全くの無理だったならば無理だと説明出来ただろう。しかし、理想的に進めば。いや、普通にやればそれだけのことで追い着ける見積もりなのだ。オルトランによってそのように、スケジュールが調整される。こうして、現実的に可能だと示される以上は、「出来ません」とは言えない。
「またですか。本当に、いい加減にして下さいよ」
心底うんざりしたオルトランの声に、エトゥルはただ頭を下げることしか出来なかった。