第140話:たとえ雨が降ろうとも
ソルをアストルが女子寮まで送る。そんな、短いデートが日課になってから一週間程度が過ぎようとしていた。
月婚の証である耳飾りをした者同士が、仲睦まじく一緒に連れ立っている姿は既に目撃され、それなりに噂にはなったが。ソル達の口で公表こそされていないものの、以前から薄々とは認知されていたのでそれほど盛り上がってはいない。
「しかし、参ったな。今日も雨か」
放課後。雨の夕暮れ。
ソルの隣で傘を差すアストルは空を見上げて手をかざし、ぼやいた。
例年に比べて雨が集中する時期には少し早いので、理由は別なのかも知れないが。空が不安定になっているのか、ここ数日の天候は目まぐるしく変わる事が多かった。
「あら? アストルは、雨は嫌いなの?」
アストルは微苦笑を浮かべて、軽く首を横に振る。
「いいや、別に嫌いって訳じゃないよ。窓の外で、静かに降っている雨を眺めるのは心が落ち着く気がする。ただ、こうも気紛れに、激しく打ち付ける雨が続くとね。真っ黒な雲を見ていると、陰鬱な気分になりそうだ。父さんが傘を持って行けってしつこく言ってくれて、助かったよ」
「何故、陛下が?」
「父さんは、昔から空が好きで。天気とか星とかそういうのに興味がある人なんだよ。ときどき天文学者達と混じって、彼らの話を聞いたりときには研究発表すらしているくらいだ。それで、今日も雨が降る確率は高いと言っていたんだ」
「素敵なお父様ですわね」
「ときどき、星や天気の話をすると止まらなくなるのが玉に瑕だけれどね。アプリルほど、酷くはないけれど。いや、なるほど。自分で言って思ったけど。実際に父さんとアプリルって似たところがあるかも知れない。道理で、彼に対してどこかで見たような親しみを感じるわけだ。合点がいったよ」
愉快そうに、アストルは笑う。
「ちなみに、そういうソルは雨はどう思う?」
「私? 私はですわね。今日は好きですわ」
「今日は?」
ソルの返答に、アストルは不思議そうに首を傾げた。
「ええ。今日は好きですわ。だって、こうしてあなたのすぐ隣にいられるんですもの。前々から、少し憧れていたんですわ。こういうの」
アストルが差す相合い傘の下で、ソルは顔をほころばせる。
自然に、いつも以上に寄り添い合って、肩や腕を触れ合わせて歩くのは、より彼を近く感じることが出来た。
「そ、そうか。うん。そう言われると、そうかも知れないな」
照れくさそうに、動揺したアストルの声をソルは愛おしく感じる。
「あのさ。ソル? 今さら、こういう事を聞くのもおかしな話かも知れない。男のくせに、女々しい質問だなどと、笑わないでくれよ? 君は僕の、どこをそんなにも好きになってくれたんだ?」
「本当に、今さらですわね。言わないと、不安ですの?」
「ああ。そうさ。だって、そうじゃないか。ほんの一年前までは、私達は直に会ったことも無い。私が一方的に君の肖像画を見て焦がれていただけだ。不安だったんだ。君がこうして、本当に王都まで来てくれるのか? 私と付き合ってくれるのか? よしんば付き合えたとして、本当に好きになってくれるのか? 今こうして、君と同じ傘の下で歩けるというのは、私にとっては信じられないほどの奇跡のような思いなんだ」
「そうですわね。私だって、そうでしたわ。お姫様になりたい。素敵な王子様と結婚して、やがては王妃となり誰にも愛される人生を歩みたい。そんな、子供じみた夢を見ていたけれど。肖像画を送ってくれた王子様が、本当にそんな人かも。直に会ったらがっかりさせてしまわないかと。不安でしたわ。こうして直に会って、そんな事はないってすぐに分かって、安心しましたけれど」
「そうなのか?」
「ええ。安心して下さいませ。私は、本心からあなたを愛していますわ。あなたが王子とかそういうことは関係が無い。アストル=レジェウスという、努力家で。いつだって他人のことを思いやれる優しさや揺るぎない気高さを持った人。そんな人だから、私はあなたが好きになったんですのよ」
ソルの答えに、アストルは押し黙る。
「ちょっと? どうして、そこで黙るんですの?」
ソルはむくれた。
「ごめん。あまりにも照れくさすぎて。私は、私自身がそんな大層な男だとは思えなくて。凄く嬉しいけれど、持ち上げすぎじゃないかなって」
「ふふ。そういう反応も、可愛いと思いますわよ」
くすくすと、ソルは笑った。
「じゃあ。あなたの方からも、教えて下さらないかしら? でないと不公平ですわよね。私のどこが、好きになってくれたんですの?」
「えっ!? 言わないと? あ、ああ。うん、やっぱりダメだな。それは、不公平だ」
アストルは悩ましげに呻く。
「そうだな。私はあの絵を見て、あの微笑みを見て。『いいな』って思ったんだ。恥ずかしい話かも知れないが、切っ掛けは本当にそれだけなんだ。たったそれだけで、君のことが気になって仕方なくなってしまった。自分でも、まさかそんな事でって思う。それから、思い切って君に来て貰って。直に会って。こうして付き合って色々と話をしたりして。君のことを知れば知るほど、理知的で、聡明で気高くて愛情深い女の子だって知って。そういうところが、好きなんだ」
ソルは、何も言えなかった。
ただ、顔が熱くて。悶絶しそうになっていることだけは自覚した。思わず自分の顔に手を当てる。頬が緩みそうになるのを抑えた。
女子寮はもうすぐ目の前。到着するより先に、彼からその言葉を聞けて良かったと。そう、ソルは思った。
「改めて言われると、私も恥ずかしいですわね。嬉しいですけれど」
「可愛いよ。ソル」
ソルは小さく呻いた。気付いたら、アストルの顔がすぐ目の前に近付いていた。
彼女の顎が、アストルの手で上げられる。
これから何をされるのかを理解するよりも早く、本能的にソルは目を閉じた。
たとえ雨が降ろうとも、この人と一緒なら――
決意と期待を胸に、ソルはその時を待った。
そして。
しかし力無く、アストルの手が自分の顎から離れるのをソルは感じた。いつの間にか頭から消え去っていた雨の音が、蘇ってくる。
ソルは目を開けた。
どうかしたの? その疑問を聞こうとしたものの、アストルはソルから目を逸らしていた。
彼の視線の先に、何があるのかとソルもまた、その視線の先を追う。
傘を差した、艶やかな黒髪の少女が立っていた。いつからそこにいたのか、気付かなかった。エリアナ=ジェルミ。
彼女は、何も言わずに。ただそこに経っていた。アストルもまた、彼女を見詰めたままで、何も言おうとはしない。
やがて、エリアナは無言で近付いてきた。その顔は、傘と夕闇に隠れてあまりよく見えない。それでも、ソルはそんなエリアナから目を離せなかった。
静かに、ゆっくりと歩いてくるエリアナ。彼女が近付くにつれて、その顔がどんなものか見えてくる。
それは、無表情だった。いっその事、人形の方がまだ感情を感じ取れる。そう、見るものに思わせるほどに、何も浮かんでいなかった。
エリアナは終始無言のまま、アストルの隣を擦れ違って、彼らの後ろへと去って行った。、
これは時間にして、ほんの数十秒ほどの出来事。しかし、ソルにはとても長い時間に思えた。
蘇ってきた雨音が、今ではとても煩い。
「ソル。すまなかった」
「いえ」
寂しげなアストルの謝罪に、何に対する謝罪なのかもよく分からないままだけれど。ただただその声が寂しげで、それだけを理由にソルは彼を許す。
そこから、門を抜けて。寮の建物入り口に着いて別れの挨拶をするまで、彼らは無言だった。
NGシーン
思わず自分の顔に手を当てる。頬が緩みそうになるのを抑え―――
ソル「でゅふ❤」
――無理でした。
アストル「ごめん、分かれてくれないか」
ソルの恋。―完― BAE END No.013「だから『でゅふ❤』は止めろって言ったでしょ」