第127話:ソルの護身用スプレー
黒い悪魔襲来事件から数日後。
生徒会はソルとの約束通り、速やかに寮に害虫駆除の許可を取り付け、その事を周知した。
具体的な日程や段取りいった話は、すべてソルに任せた上で、詳細は全て生徒会に報告しろと寮母からソルに伝えられている。面倒なことはすべて、言い出しっぺであるソルがやれという話だ。
無論、ソルとしては最初からそのつもりではあったし。駆除業者についても、おかしな所を選ぶつもりは無い。折角なので、バランの会社の系列に頼む予定だし、費用も自費で出すつもりだ。
この行動について、生徒達からの評価はというと、特に反対は無かった。寮に外部の人間がやってくることには多少の抵抗は覚えても、害虫が出てくる可能性が減るメリットは歓迎するところではある。
自分達にメリットのある真似をしてくれるソルと生徒会に対して、やや歓迎。やや許容。そんな手応えをソルは感じている。
それもあってか、黒い悪魔に大騒ぎしたという醜聞も、彼女の落ち度というよりは愛嬌というイメージに上書き出来た。
「ねえ、ソルさん。ちょっと教えて欲しいことがあるんですけれど」
「どうかしまして? リコッテ? そんな改まって」
休み時間になって、リコッテがソルに話しかけてきた。
「ええ。前から、ソルさん達が売っている化粧品や薬については、どんなものがあるのか教えて貰った事があるけれど。確か、護身用のスプレーっていうものがあるって、言っていましたよね?」
「ええ。言いましたわ。それが、どうかしましたの?」
ソルが小首を傾げると、リコッテは神妙は表情を浮かべた。
「その時は何となく、あまり気にとめていなかったんですけれど。具体的には、どんなものなんですか? こう? 本当に人に向けて使っても大丈夫なものなのかとか。何を使って作っているのかとか。どれくらい効果があるのかとか」
「それは、差し障りが無い範囲ならいいですけれど。でもどうして? ひょっとして、リコッテ? 護身の必要を感じているんですの?」
「そういう訳でも無いんですけれど。私も、こういう身の上ですし、もし何かあったらということを考えたら、自衛の手段の一つとして、考えておいた方がいいのかもとは思います」
「まあ、そうですわよね。実際、私もそう思ってあれを開発したわけですし」
「そうなんですか?」
ええ。と、ソルは頷く。
「私が育ったソレイユ地方って、基本的にはのどかで治安も悪くないところなんですけれどね。流れ者の野盗が来たことがありまして。そいつらに、襲われたんですのよ」
「襲われた? 大丈夫だったんですか?」
ギョッとした表情を浮かべるリコッテに、ソルは大きく頷く。
「ええ。流石にこの私も、あの時はもうダメかと思いましたわね。乗合馬車を使って移動して所を奴らは襲ってきたんですけれど。私は足を挫いて動けないし。暴走した馬も脚の骨を折って倒れていましたし。御者も他の客も、みんな逃げてしまっていましたわ」
「そんな状況に? それから、どうなったんですか?」
「リオンやアプリルから聞いてないかしら。当時、武者修行の旅をしていたリオンが偶然駆けつけて、野盗を薙ぎ払ったのよ。あと、ついでにリュンヌも野盗を倒したわね」
「そんな話が? 私、その話アプリル君から聞いてません。ソルさんにお世話になった繋がりで、リオンさんと友達になったっていうのは聞いていますけれど」
「あら? そうだったんですのね。でも、リオンが私に世話になったって言っていましたけれど。私にしてみれば、そのときの恩を返しただけですわ」
そして、一時は恋に落ちたりもしたのだが。
「それを切っ掛けに、自分自身でも何か身を守る手段が手に入らないかと考えたのが。護身用スプレーですわ」
「なるほど。それで、実際に使うとどうなるんですか?」
おっかなびっくりと言った表情を浮かべるリコッテに対して。ソルはにたりと、実に悪魔的な笑みを浮かべた。
「あれは、去年の夏のことでしたわ。理由があって、私達は親戚の男の子を預かっているんですけれどね? ルトゥっていうんですけれど。ええ、これがまた。アストルによく似た、アストルを少し小さくしたような。とても将来、熊のような大男になってしまうとは思えない、それはそれは可愛らしい男の子なんですのよ」
うっとりとした声をソルは上げた。
「なんで、そんなにもその男の子の可愛さを強調するの?」
リコッテは、半眼を浮かべてくる。
「本当に、可愛いからですわ」
きっぱりと、ソルは言う。
数秒、リコッテは額に人差し指を付けて、瞑目したが。納得したようだった。
「それで? そのルトゥ君にかあったっていうこと?」
「ええ。そのルトゥが街を一人で散歩していたら、質の悪い不良に恐喝されていましたの。私と一緒に、彼を探していたリュンヌが不良を叩きのめして。私はスプレーをそいつらの顔に吹き付けましたわ」
ごくりと、リコッテの喉が上下した。
ソルは遠く、虚空を見上げる。ふぅ。と、静かに息を吐く。
「彼らも、馬鹿なことをしたと後悔したでしょうね。声にも鳴らない悲鳴を上げてのたうち回って。見下ろす私にこう言いましたわ。『すみません。許して下さい。何でもしますから、助けて下さい』って。でももう無駄。あれを吹き付けられたら最後。眼球が真っ赤に腫れ上がって、十分程度で熟しすぎた果実のように腐って顔から落ちていくんですの」
ソルがそう言うと、リコッテは血相を変えた。
「腐って!? そんなに強力なの? そんなの、売って大丈夫なの? つ、捕まらないの?」
「大丈夫ですわよ? 多分、あと百倍ほど効果を上げないと、そうはならないでしょうから」
それを聞いて、リコッテは安堵の息を吐いた。まさか、本当に本気にしたということは無いと思うが。リコッテのノリのいい反応にソルは嬉しく思う。
「でも、後悔したのは本当でしょうね。あれ、本当に痛いのよ? 何本も針を眼球に突き刺されたように痛いから」
改めて、リコッテは顔を引き攣らせた。
「一体、中身は何なの?」
「企業秘密。と言いたいんだけれど。簡単に言うと、ちょっと? いや、かなり? 強烈に刺激が強い。辛味系の香辛料の元になる薬草の煮汁とかをミックスしたものよ? 数時間ほど涙と咳が止まらなくて、痛みに悶絶するだけ。後遺症が出るような、そういうものではありませんわよ」
「そんなの、よく作りますね。どうやって、試したりしたんですか?」
今度は、本当にソルは遠い目を浮かべた。
「あのときは、本当に大変でしたわね。リュンヌと一緒に、自分でも効果を試してみましたけれど。もう二度と、やりたくはないですわね」
「ソルさんも、体張っているんですね」
リコッテはソルの告白に戦く。
ちなみに、当時は「せめて、吐き薬もそうして自分でも試して下さいよ」とリュンヌは訴えていたが。それは却下した。お仕置きと商品開発は別物なのだ。
「ちなみに、相手に使われた場合はどうしたらいいとか、あるんですか?」
「そうねえ。冷たい水でスプレー液を洗い流すとか、それくらいかしら? それでも、直ぐに痛みが引くっていう事は無いけれど。やらないよりは少しはマシになるわね。変な相手には売らないように、そこは注意するように頼んでいるけれど。」
「なるほどねえ。そういうものなら、試しに一度、買ってみようかしら?」
「そう言ってくれると嬉しいわ。必要ならいつでも言って頂戴。お安くするわよ」
「ありがとう。でも、気持ちだけ頂くわ。そういう特別扱いって、他の人に悪い気がするもの」
「そう。分かりましたわ」
ソルは満足げに頷く。
「あとそれ、ソルさんは今も持ち歩いたりしているんですか?」
「う~ん? 秘密❤」
悪戯っぽくソルは笑う。リコッテは肩を竦めた。
と、リコッテは不意にソルの耳元へと顔を寄せてきた。
「ところで? 話は全然変わるんですけれど。アストル様と次のデートの予定とか、決まっているんですか?」
耳打ちの質問に、ソルも声を潜める。
「まだ、具体的な話は決まっていませんわ。どうしようか、考えてはいるところですけれど」
「じゃあ、私から一つ提案があります」
ぴくりと、ソルの耳が動いた。
リュンヌ「ソル様。その護身用のスプレーなんですが」
ソル「何ですの?」
リュンヌ「容器に充血した眼球のシールを貼るのは止めましょうよ。恐いですって」
ソル「え~? 効果が分かりやすくていいじゃありませんの」
リュンヌ「商品名も、メガクサールとか止めましょうよ。安直な上に、やっぱり恐いですって」
ソル「え~? 効果が分かりやすくていいじゃありませんの」