第114話:臆病者の勇気と教訓
2025/09/09
イラストを差し替えました。
商店街を抜けて、ソルとバランは広場にあるベンチに並んで座った。
陶器細工を買った後には、他にも家具屋や木工細工の店。花屋、本屋、屋台の菓子屋。色々と見て回った。その都度、バランは自分がどんなものが好きかを語り、ソルにも訊いて、ソルもときにはそういった問いには答えた。
予想と違って、互いを知り合う時間は、ソルにとって不愉快なものではなかった。認めがたいことに。
「こちらをお受け取り下さい」
そう言って、バランは肩から提げた鞄から紙袋を取り出した。
「これは?」
「クッキーです。宿の人に無理を言って、作らせて貰いました」
「あなたが?」
「はい」
頷くバランを見て、ソルは怪訝な表情を浮かべる。
「変なものは、入れていません。お疑いでしたら、自分が先に食べて見せます」
「いえ、そこまでしなくていいですわ」
どうせ、何かあれば直ぐに吐き出せる備えはしているのだから。
ソルは紙袋から一枚、クッキーを取り出し、口の中に入れた。念入りに、味を確認する。取りあえず、毒の類いは入っていなさそうだ。
「どうでしょうか? お口に合いましたでしょうか?」
「お世辞にも、美味しいとは言えませんわね。吐くほど不味くもないですけど。あなた、こういうの作り慣れていないんでしょう?」
率直に、ソルはクッキーの味を評価する。
「はい、お恥ずかしながら」
気恥ずかしそうに、バランは笑った。
「もう少しだけ。自分の話をさせて貰っていいでしょうか?」
ソルは無言で頷き、促す。
「私の家は、今でこそ急成長して大きくなりましたが。子供の頃に一度、破産しかけています。それも、ドゥオーレ商会の手によって。懇意にさせて貰った取引先に、でっち上げの悪情報を流されたりして、一本一本指を折られ、手脚をもがれるようにじわじわと力を削がれていったのです」
バランは表情を消して、眼を細める。
「その頃のことは、今思い出しても心が凍り付きそうになります。金の切れ目が縁の切れ目だと言わんばかりに、信頼していた、優しいと思っていた大人達や、友人達が手の平を返してきましたよ。両親が大事にしていた品々も次々と抵当に入って。家の中がどんどんと寂しくなっていくのを見るのは、悲しかったですね」
「苦労されたのね」
ソルもまた、前世で似たような経験をした身だ。彼の心情は、幾らか理解出来るつもりだと思う。
「結局、私達は座して死を待つような真似だけは出来ませんでした。幸いなことに、最後の最後まで残ってくれるような協力者が数名いてくれて。彼らと一丸になって、幾つもの危機を乗り越えることが出来ました。すべては、ドゥオーレ商会を倒す。そんな思いから」
そう語るバランの口が薄く歪み、瞳に暗い愉悦の色が浮かぶのをソルは見逃さなかった。
「商売理念だけは、決して捨てたつもりはありませんが。しかし、そんな生き方を続けているうちに、人間関係を利害関係と金銭でしか考えることが出来なくなった。ときどき、そんな風に思います」
「そんな自分が、嫌いだったりしますの?」
バランは頷き、認めた。
「こうして、身一つであちこちを飛び回っていると。移動中のふとした景色に目を奪われたりとか。そんな瞬間がたまに。そんなときに、自分が失っていたものを思い知らされる気がして。でも、それも段々と、薄れていくような気がしたんです」
バランは大きく溜息を吐いた。本当に、疲れ切った人間が吐く。そんな溜息だった。
「白状すると。私は、初めてソル様に会って、ソル様お手製のクッキーを頂いたときから、あなたに惹かれたのかも知れません。セリオちゃんの家が作るパンなどもそうですが。私は、ああいうものが、本当は好きなんですよ。少しずつ、切り捨ててしまった気がするものを思い出せた気がして」
「意外。と言っては失礼かも知れませんけれど。随分と、感傷的な人ですわね」
「全くです。でも、悪い気分じゃないんですよ。自分はまだ、血の通った人間でいられるんだという気がして」
自嘲気味に、バランは笑う。
「ソル様の事業のやり方を見ていて。私とこの方の考え方は近いものがあると思いました。そして、期待しました。この人なら、私という男のことを理解してくれるのでははないかと。憧れました。この人と一緒になれたなら、私はソル様のように、人間らしい心の持ち主でいられる。いや、なれるのではないかと。そう、考えたんですよ」
「だから、どんな手を使ってでも、私を手に入れたいと思った。そういうことですの?」
含みを持たせるように「どんな手を」とソルは強調する。
その意図が伝わったのか、バランの横顔が強張る。
だが、それも彼にとっては覚悟の上だったのかも知れない。あまり迷った素振りも無く、口を開いてきた。
「やはり、お気づきになっていたのですね?」
「ドゥオーレ商会の事を言っているというのでしたら、そうですわね」
「流石です。でも、どうして?」
「領民の動向とか、察する情報はなんとでも。でも、もっと言うなら。あなたが言ったとおりですわ。私は、あなたととてもよく似ているんですの。だから、分かりますわ」
「そうでしたか」
どこか晴れ晴れとしたように、バランは秋空を見上げた。
物語によっては、事件を起こした犯人が、結末では悪事を白状し、背負い続けた罪の重さから解放されたかのような態度を見せることもあるが。彼は今、そんな心境なのかも知れないと、ソルは思った。
「個人的な経験から言わせて貰いますけれど。そういうやり方で人を手に入れようとすると、最後に傷付くのは自分ですのよ?」
そっと、ソルは自身の腹を撫でた。
前世の最期のあの感触は、今もなおありありと思い出せる。
「きっと。そうなんでしょうね。私はもう、二度とするつもりはありません」
静かに、しかし、固い決意がバランの声には宿っていた。
「しかし、そんなバランさんが。どうして今日はこんな真似を? 今日は随分と、素直じゃありませんこと? どんな心境の変化があったとでも言うのかしら?」
薄く笑みを浮かべながら、ソルは訊く。
「単純な話です。ここ数日、私はソル様を手に入れるための方法を考えた。それこそ、ソル様を本当に喜ばせることが出来るものが何かを考えました。そうしたら、もしも、可能性があるとしたら。私とソル様が近しいのだとしたら、これしか無いだろうという結論に至りました。どんなに豪華なものを贈っても、きっとソル様の心には響かないだろうから。それで結局、考えた結果が、そんなクッキーになってしまったんです」
そう言って、バランは苦笑を浮かべる。
釣られて、ソルも小さく笑みを浮かべた。
「ソル様。臆病さ故に謀ろうとした身ですが。恥を忍んで言わせて頂きます。どうか、私と一緒になっては頂けないでしょうか? 私はあなたと一緒に、生きていきたい。今日の贈り物が、少しでもあなたの心に届いたのなら」
落ち着いた声で、伝えられる。
ソルは無言で、空を見上げた。快晴の秋空はどこまでも高く広がって、澄んでいた。そして、どれだけ探そうと、空に答えなんてありはしなかった。
「――やはり。それが答えということですか。私と一緒になることは、ソル様には出来ないのですね」
どれほどの時間が経ったのかは分からないが。答えを返すには長すぎるほどの時間が過ぎてから、寂しげにバランは言ってきた。
「ごめんなさい」
小さく、ソルは謝罪の言葉を口にした。
「今日のあなたは。決して、嫌いではありませんわ。買って頂いたバラの細工も、このクッキーも、何も思わなかったと言えば嘘になります。でも、どうしてなのかしらね? どうしても、頷けないんですのよ。本当に、どうしてなのかしらね?」
結婚という手段は、あんなにも覚悟していたつもりだったというのに。
「そうですか」
バランは、頭を掻いた。
「ならきっと。私は、ソル様の中にある。どうしても譲れない何かに負けたということなのでしょうね」
それだけ言って、バランは立ち上がった。
「どちらに行くんですの?」
「すみません。私はもう、ここで失礼します。少し、一人になりたいですから。ドゥオーレ商会の事は気にしないで下さい。私が、責任を持ってケリを付けます。ソル様。お元気で」
「分かりましたわ。バラン。あなたも、お元気で」
早足で遠離っていくバランの背中を見詰めながら。ソルは言えなかった言葉を心の中で伝える。
もしも今日、あなたが何も気付かないままのあなただったなら。私はあなたにそれを気付かせるために、一緒になるつもりだったのだと。そうしなければ、とてもじゃないけれどあなたという存在を許せそうにないと思ったのだと。
だが、それを口に出す機会は、永遠に失われた。




