第105話:素顔
その日、学校が終わった放課後。
ソルはセリオの家へと赴いた。リュンヌとの一件は終わった話だが、それからも彼女とは交流が続いている。ソルにしたら、そんな切っ掛けにしろ、知り合うことが出来た心許せる同世代の友人である。
以前なら、こんな凡庸な平民の娘など相手になどしなかったとソルは思うが、我ながら変わるものだと、ソルは時々、内心くすぐったい気持ちになる。
しかしそれでも、彼女とのたわいない世間話に興じる時間というのは、ソルにとっても楽しみな一時であった。リュンヌについての話題だけは、極力避ける必要があるが。
リュンヌはもう、セリオにマドレーヌのお礼は伝えたそうだ。「本当に美味しかった。ありがとう」と、柔らかな笑顔で。そう、リュンヌから言われたとセリオは言っている。そして、それで、セリオは自分の気持ちに決着を付けることが出来たと言っていた。
時間が経つにつれて、失恋の傷痕から立ち直っているのか、セリオから笑顔が増えたように思う。その様子には、ソルも安堵している。
逆に、そういう意味ではリュンヌの方がまだ引き摺っているかも知れない。お土産にセリオの家で作っているパンや菓子を買って帰ったりすることもあるのだが。リュンヌはたまに、手にした菓子を手にしては遠い目を浮かべていたりする。女々しい奴だ。
ユテルがお気に入りの味らしく、それで買って帰るのでリュンヌにしても止めろとは言えなかったりする。
セリオとの世間話で盛り上がるのは、やはり恋バナだ。特に、ソルの失恋話については、盛り上がった。アプリルやリオンに対してやらかした汚点については、全力で伏せて話しているが。
彼女らの店の近くで、ソルは馬車を降りた。今日も、ユテルからは何か買ってきて貰うように頼まれた。「そんなにも好きなら、自分で買いに行きなさい」とも言っているのだが、年頃の男一人でそういうものを買いに行くのは、気恥ずかしいらしい。全力で拒否してくるのだ。
どうにも、部屋に閉じ籠もっているだけでそういう神経が無いのかと思っていたら。案外とそこは繊細な男心を持っているらしい。
店に向かう途中。
「おや。ソル様ではありませんか」
不意に、背後から男に声を掛けられ、ソルはびくりと背筋を伸ばした。思わず、反射的に背後へと殴りかかりそうになるが。その衝動は必死に抑える。この声は聞き覚えがある。バランだ。
数秒経つか経たないか立たないかという間に、ソルは余所行きの笑顔を作り上げる。
そして、優雅さを纏いながらゆっくりと背後へと振り返った。
「あら、バランさんではありませんの。奇遇ですわね」
「いや。申し訳ありません。その様子だと、驚かせてしまったようですね」
バランは謝罪の言葉を述べながら、頭を下げてきた。
「驚かせてしまうつもりはなかったんですが。どうも、昔からこうなんですよね。自然と足音が消えてしまう癖が付いてしまっているようで」
「全く気配を感じませんでしたわ」
この私の背後を取るとか。ただ者ではないとソルは思う。もしこれが、暗殺者の類いだったら、命は無かっただろう。気が緩んでいたかも知れない。
「そんな癖。早く直した方がいいんじゃありませんの?」
「そう思うんですけどね。これがなかなか、思うようにいかないんですよ」
そう言って、バランは苦笑を浮かべた。
「何でそんな癖が付いてしまったのかは、分かりませんの?」
ソルが訊くと、バランは軽く目を逸らした。
「さあ? 本当に、何でなんでしょうね?」
バランは曖昧に笑みを浮かべた。理由は分かっている。けれど、言いたくはない。そんな気配をソルは感じた。
「ところで、ソル様はどちらに?」
露骨に話題を逸らしたなと思いつつ。ソルはバランに乗る。
「ちょっと、友人の家に遊びに行くところですの。バランさんはどちらに?」
「はい。丁度この先に美味しいパンと菓子を売っている店を見付けまして。そちらに向かうところです」
その答えに、ソルは内心呻いた。この先でパンと菓子を売っている店といえば、セリオの家しか無い。となれば、バランが向かう先もまず間違いなくそこだろう。
「あら、そうなんですの? ひょっとしてそれは、この先にあるフクロウの看板のお店ですの?」
「はい。その通りです。よくご存じですね。ひょっとして、ソル様もよく利用されるんですか?」
嫌な予感は的中した。ソルは諦める。
「ええ。そうなんですの。そこが、まさに私の友人の家ですわ」
「へえ。奇遇ですね。では、そちらまでご一緒願えませんか?」
「そうですわね」
おほほ。と、口元に手を当てながら。ソルは「どうしてこうなるんですの!」と、胸中で叫んだ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
店内で、ソルはセリオに訊いた。
「この方、最近よく来るんですの?」
「はい。よく来ますよ」
本当に、良いものに対する嗅覚は鋭い男だと。ソルはある意味で感心した。
ソルとセリオの前で、バランは鼻歌交じりで菓子やパンを物色している。
「この人、ソル様のお知り合いだったのですか?」
「まあ。そうですわね。最近、私の事業について色々と話をしている商人が街に来ているって言ったでしょう? それが、この人ですわ」
「えっ!? じゃあ、この人が?」
セリオが目を丸くする。ソルと同じく、庶民に溶け込む格好をしているからそうとは気付かないのもやむを得ないが。これが、若くして巨額の財を成した大金持ちの男だと知ったら、驚くのも無理はないだろう。
目に見えて、セリオが身を固くした。
「あなた。パンや菓子の類いがお好きなんですの?」
ソルの問いに、バランは小首を傾げた。
「特に、そういう訳でもないんですが。この店の品は、気に入りました。あちこちを旅していると、こういうものに出会えるから楽しいですよ」
「ひょっとして、この店にも投資して大きくさせようとか。そんな事考えていますの?」
そうソルが訊くと、セリオはますます身を固くした。どことなく、ソルの背中に逃げつつあるようにも思える。
しかし、バランは首を横に振った。
「そこにいる、お店のお嬢さんにはがっかりさせてしまうかも知れないけれど。そんなつもりはありません。確かに、ここの品は美味しいけれど、それはきっとこの店がこのままでなければ出せない味わいだと思うので。そういうので、台無しになってしまうのは、誰にとっても不幸なことだと思いますから」
「いえっ! 大丈夫です。私も、そう思いますから」
バランの答えに安堵したように、セリオが明るい声を上げた。そんなセリオに、バランは笑みを浮かべる。理解して貰えて、彼も安堵したのだろう。
「あ、でも。私達のお店のパンやお菓子のどういうところが好きなのか、教えて欲しいです」
「そうだね。やっぱり、こう。上手く言えないけれど、何も飾っていない素朴な優しさっていうのかな? そういうのが伝わってくる気がするんだ 凄く落ち着く味で。そこが、好きなんだよ。これを言って良いのか悪いのかは難しいところだけど、変な商売っ気が無い。毎日食べても飽きない家庭の味みたいな。それでもやっぱり、家庭には出せないような美味しさを持っている」
「ありがとうございます」
まさに、そういう評価を望んでいたらしい。セリオがぐっと拳を握った。
「へえ。そう言ってくれるとは、嬉しいですね。お兄さん。旅の人なんだってね? なら、ここにいる間は、この味をたっぷり堪能して貰わないとな。来て貰ったら、サービスするよ」
騒ぎを聞いてきたのか、セリオの母親が店の奥から現れる。
「いいんですか?」
バランに対し、セリオの母親は深く頷いた。
「ありがとうございます」
「あ、それとそれと。うちの商品だと、特にどれが好きとか、ありますか?」
「うん。そうだね。なら、例えばマドレーヌとか――」
セリオと彼女の母親が、バランを囲む。それに対して、バランは屈託の無い笑顔を浮かべて答えていた。
そんな彼の顔をソルはぼんやりと眺める。この男が、こんな風に笑うというのは、意外だった。だから、見ていた。それだけかも知れない。どことなく、微笑ましいものを感じた。
なるほど。こんなところでも、自分とこの男は似ているのかも知れない。心が落ち着く、飾り気の無い素朴な優しさに満ちているものが好きというところが。
うん? と、ソルは眉をひそめた。
ふと、バランと目があった気がする。
でも、気のせいかも知れない。そそくさと、バランはソルから顔を背けた。
ソル「私の後ろに立つな!(鉄拳炸裂)」
リュンヌ「どこのウサギのように臆病な殺し屋ですか」
ソル「この世界はね? 病的な用心深さと、それ以上の臆病さを持ち合わせている者だけが、生き残れる資格を持っているんですのよ?」
リュンヌ「乙女ゲー世界だっての!」