読者の需要を追うだけのスタイル
もう随分と前に、何かの雑誌で読んだ記事に書かれてあった内容なので、記憶が曖昧な上にそれが正しいかどうかすらも分からないのですが、失敗したゲームハードは、
「たくさん可愛い女の子が出て来て、エロいゲーム」
を出す傾向にあるそうなんです。
そういったゲームは、大ヒットこそ滅多にしないものの、クオリティがそれほど高くなくてもある一定の売上が期待できるからだと言うのですね。
つまり、“たくさんの可愛い女の子”を需要する消費者がある一定層いて、その消費者層はクオリティに甘い判定をしてくれるのでターゲットにしているってことなのでしょう。つまり、このビジネス戦略は、ローリスク・ローリターンなのですね。
はい。
ラノベや漫画でも、これと同じビジネス戦略を執っている人達がいますね。特に、多分、“小説家になろう”界隈では多いのではないでしょうか?
――ちょっと前に「なろう作品は作家の妄想か否か」で、YouTubeのレビュアーさんなんかの間で軽い議論(?)が巻き起こっていたようです(それぞれが、勝手に主張しているだけで、直接議論し合っていた訳じゃなかったみたいですが)。
あるYouYuberさんの、
「(一部の)なろう作品は作家の妄想じゃない。読者の需要に応えているだけだ」
というような主張に対し、他のYouYuberさんがコメントしていくみたいな事が起こっていたようなんですね。
もしかしたら、この議論(?)の発端は、僕の書いた「だから、“なろう”は嫌われる ~ビジネス戦略としてのなろうランキングの問題点と改善案」ってエッセイかもしれない、このエッセイで迷惑をかけたYouYuberさんがいたらごめんなさい、なんて思いつつ、その議論(?)の内容を聴いて、僕はついこんな事を思っちゃいました。
「フィクションである小説が、“作家の妄想”でないのなら、それはつまりはパクリって事なんじゃないの?」
いや、まぁ、そんなつもりで、主張した訳じゃないのは分かっているんです。「読者が好きそうな内容をリサーチして、それを小説に反映させて書いているんだよ」ってな事なのだろうと思いますから。ただ、リサーチした内容の反映させ方が下手な作家さんは、多分、パクリと思われてしまっているでしょうけど……
(一応、敢えてツッコミをいれると、読者の需要を作家が妄想して書いているのだから、本当にパクリでない限り、絶対にそれは“作家の妄想”になります。他人の心理を読む行為は、自分の心理を読む行為だし)
ところで、“読者の需要に応えている”という内容を聞いて、疑問に思った人はいませんか?
世間では、“鬼滅の刃”とか、“呪術廻戦”とか、“進撃の巨人”とかが人気ですよね(ラノベじゃないけど)。なら、“読者の需要に応える”って言うのなら、そういった作品の内容を作品に反映させるのが筋だと思うんです。何故、そうしないのでしょうか?
この疑問に対し、なろう作品に否定的なレビュアーさんなら、こう答えるでしょう。
「難しいから、なろう作家には書けないんだよ」
そういう作品は、ストーリーが複雑だったり、心理描写にリアリティが求められたり、設定に整合性が必要だったりと、ハードルが高いですからね。技術力のある作家さんでなければ書く事はできません。しかも、共有テンプレートから外れると、一気に“盗作判定”が厳しくなりますから、“真似するな”という批判も受けやすくなるでしょう。だから、工夫だって色々としなくちゃいけません。
もちろん、これには反論があるでしょう。なろうはスマートフォンで短時間読む前提で書かれている作品が多く、それら作品とはタイプが根本から異なっているので参考にならないのかもしれませんし。
ただ、そのように考えてしまう人がいるのはほぼ確実で、そして、“小説家になろう”でありがちな作品を考えると、なかなか否定し辛い一面があるのも事実だと思うのです。
ここで、冒頭で述べた「たくさん可愛い女の子が出て来て、エロいゲーム」のビジネス戦略の話を思い出してください。
たくさん可愛い女の子が出て来て、エロくさえあれば、クオリティが低くても需要はあるんです。
多分なんですが、「なろう作品は作家の妄想」という議論で言われている“なろう作品”って、そういった読者層をターゲットにした作品なのじゃないでしょうか?
だからこそ、作家さんは“自分の妄想”と思われるのが嫌で、「読者の需要に応えただけ」と主張する……
だとするのであれば、その批判の本質は、多分、作品が“作家の妄想”である点ではないのではないかと思います。
いえ、それどころか、“読者の需要を追うだけのスタイル”は、「それでクリエイターと言えるのか?」というような批判の理由になりますから、「読者の需要に応えただけ」と主張することは、却ってイメージを悪化させてしまう危険すらあります。
一流のクリエイターは、「読者の需要を追う」のではなく、「読者の需要を新たに創出する」ことを理想とするものでしょう。その志の高さは尊敬の対象になります。
“読者の需要を追うだけのスタイル”は、その逆なんです。
だから、もし、批判されるのが嫌ならば、“読者の需要を追うだけのスタイル”を変える必要があるのではないかと思います。
断っておきますが、「“読者の需要をリサーチする”のを止めろ」と言っているのではありません。
「読者の需要+α」の作品を書くべきだと言っているんです。
ここで、ちょっと話を変えます。
“ゴジラ”って知っていますよね? あまりにも有名な怪獣の名前です。
ゴジラが登場する第一作は映画作品で、もちろん、観客を楽しませる為の娯楽作品なんですが、それだけじゃなく、「核の恐怖」を訴えた作品だとも言われています。そして、その点がゴジラの評価を高める理由にもなっています。
これは、そこから派生した様々な怪獣にも引き継がれていて、だから“自然を安易に破壊する人間”への警鐘として、怪獣が登場したりなんかもするのです。
(因みに、この怪獣の特性は、神道における自然崇拝の影響を受けているとも言われています。“自然を破壊する者を祟る霊”である荒神が姿を変えたのが、怪獣だというのですね)
作品を批判されるのが嫌な作家さんは、読者の需要を追うだけではなく、このゴジラ映画の「核の恐怖」に相当する“+α”…… “メッセージ性のある何か”を付け加えるべきだと僕は思うのです。
僕の作品への感想欄で、あるレビュアーさんに対し、「書いてもいない内容で作品批判をしていた」と怒っている人がいました。
(因みに、“書いてある通りに記憶しておく”って、実はとても難しいです。その人自身が僕が書いてもいない内容で、僕のその作品を批判していて、それを証明しちゃっていたりするのですがね)
確かにそれが事実だとするのなら酷い話ですが、その内容を読む限りでは、もしその誤解が解けたとしても、恐らく、そのレビュアーさんのその作品への評価はあまり上がらないだろうという印象を僕は持ちました。
多分、そのレビュアーさんが、その作品を低く評価した理由はそんな点にあるのじゃないんです。
ですが、もし、「読者の需要+α」の作品を書いていたなら、きっと評価は変わっていたと思うのです。その“+α”が、とても素晴らしいものであったのなら、大きく評価が上がっていたことでしょう(いや、多分だけど)。
もちろん、伝わるように書かなくちゃ駄目ですけどね。
「だから、“なろう”は嫌われる ~ビジネス戦略としてのなろうランキングの問題点と改善案」
というエッセイを投稿して、色々と反響があったのですが、それを受けて、「もしかしたら、“責任”と“原因”の区別がついていない人が多いのじゃないかな?」なんて感想を僕は持ちました。
上記エッセイで追及しているのは、飽くまで“なろう”が嫌われる“原因”であって“責任”ではありません。
「なろうが嫌われるのは、作家の所為だ、読者の所為だ」
なんて事は、一切述べていないんです。
仮に一部の人が主張している通り、“読者に責任がある”となったとしても、だからといって、それで“なろう”が嫌われなくなるなんて事は起こりません。
だって、問題発生の“原因”はそのままなのですからね。
なろうが嫌われてしまう根本的な問題は、僕はなろうのランキングシステムにあると考えています。だから、その改善案を上記エッセイで出したのですがね。
ただそれは、“小説家になろう”という場を嫌われなくする為の方法に過ぎません。作家さんについては、嫌われる作品を投稿し続ける限りにおいて、やはりそのまま嫌われてしまったり軽蔑されてしまったりするでしょう。
なので、今回は、作家さん向けに“出来る限り嫌われない方法”を提案してみました。
YouTube上で行われていた「なろう作品は作家の妄想か否か」の議論(?)によると、多くのなろう作家さんは、本当は「読者の需要に応える作品」など書きたくはないのだそうです。
ならば、その“本当に書きたい自分の作品”を、それほど負担にならないサイズの短編で書いてみるというのはどうでしょう?
そして、自分の作品を馬鹿にするレビュアーさんに対し、「ほら、これが本当の自分の作品だ」と見せつけてやるのです。
それによって、どんな評価が下るのかは分かりませんが、少なくとも、「作家の妄想ではない」という事くらいは証明できるかもしれませんよ?