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さよならの裏側

作者: 廃村の管理人



     1



 僕には好きな人がいる。友達の延長としての『好き』なのか、『恋』をしているのか、『愛』しているのか、自分では判断しかねるが、とにかく一緒にいたいと思える人だ。その気持ちは、あの約束を機に膨らむ一方だった。あの約束で彼女も同じ気持ちを持ってくれていることを確信し、あの約束がそれ以降の僕の人生を作り上げ、あの約束がある限り僕らの道が分岐することはないと思い込んでいた。


「さよなら」


 頭の中で彼女が言ったその言葉が反響する。彼女も僕同様に、あの約束を愛してくれているものだと思っていた。だからこそ、突然こんなことを言われても、何が何だかわからなかった。唖然として固まる僕を置いて、彼女は行ってしまった。今までの人生を全否定された僕は、呼吸することも忘れ、しばらく動くことすらできなかった。



     2



 十年前の夏休み。外灯はおろか人工物も、視界を遮る物質も何一つない満天の星の丘の最上部で、大の字になって夏草の上に身体を横たえていた。眼前には写真や図鑑で見るよりもはるかに眩しい星空が無限に広がっていて、横に視線を移すと、その時を今か今かと待ち焦がれている彼女の恍惚とした表情が目に映った。気を抜くと僕を置いて闇に溶けていってしまいそうなほど弱々しい彼女の存在は、『道中暗くて怖いから』と差し出された彼女の小さな手から伝わる体温が、それを事実として裏付けてくれていた。


「そろそろだね」


 なるべく平静を装ったであろう彼女のその言葉には、しかし溢れんばかりの期待が込められていることが、その声を聞いただけで理解できた。初めは大した興味もなく暇潰しに付き合うつもりでついてきたはずだったが、ここに着くまでの間に彼女に毒されてしまったようで、今では僕も高鳴りが抑えられずにいた。

 彼女が持ってきた携帯ラジオからも、音割れの隙間から『人類皆空を見ろ』と煽り立てるキャスターの声が聞こえた。それほどに、今日のコレは珍しい物らしい。


「そうだね」


 僕もなるべく平静を装って呟いたけど、多分彼女には見透かされていたと思う。だって、僕でも見抜けたんだから。

 居心地の良い静寂が続いた。親の運転する車の後部座席で微睡んでいるみたいな感覚だ。そんな僕の意識を現実へと引き戻したのは、彼女の小さな「あっ」という声、ぼやけた視界の隅で空を差す彼女の細い指、その先で刹那青白く輝いた流れ星だった。


『ペルセウス座流星群がピークを迎え、全国各地で見頃となっております』


 先ほどのキャスターが先ほどよりも半音ほど上がった浮かれ声で熱く語り出し、これを皮切りに幾つもの流れ星が現れては消えていった。十を超えたあたりから数えるのをやめてしまったが、その後もできるだけ見落とさないように、僕は空を眺め続けた。その間僕らの間で言葉が交わされなかったのは、多分今の心境を的確に表現する言葉を持ち合わせていなかったからだと思う。『きれい』『すごい』『びっくりした』。そんなチープな言葉で目の前の景色を形容するのは、失礼に当たってしまうような気がしたのだ。自分の理解の範疇を超えた超常現象にただただ圧倒されていた。

 小学生の僕らには、流れ星が何故光るのか、何故すぐに消えてしまうのか、なんてことはわからなかった。流れない星との違いも、ペルセウス座というものが何なのかも、何も知らなかった。だからこそ、一つ一つの明滅にあれ程感動することができたのだろう。

 

「次にペルセウス座流星群がこんなに綺麗に見れるのは十年後くらいなんだって」


 ピークを超えたらしく、だんだんと見られる流星が減ってきた頃、彼女はそんなことを呟いた。


「十年後っていうと、私たちはちょうど二十歳だね」


 二十歳。頭の中で、彼女のいったそれを反芻する。免許の取得や結婚はもう少し前からできるけど、それに加えてお酒と煙草も合法になる歳。小学生から見た『大人だからできること』が軒並み解禁される歳。それが小学生から見た二十歳という年齢だ。だから、その『十年後』というのは、とても遠い未来のことのように聞こえた。


「その時、僕たちはどうなってるのかな」


 大学生になっているかもしれないし、専門学校に通っているかもしれないし、もう既に働いているかもしれない。全く想像ができない未知の領域だ。極端な話、生きているかもわからないし、彼女との関係が続いているかもわからない。


「未来のことを想像するのって、ちょっと怖いよね」


 そう言う彼女も僕と同じような考えに至ったようだった。握られた手に力が入ったのがわかる。


「そうだね」


 彼女と同じくらいの力で、僕も握り返す。隣から小さな「ふふっ」という声が漏れた。

 名前も知らない、流れない星々を、流れ星の余韻に浸りながら眺めている僕の隣で、不意に彼女が上体を起こした。ラジオからの音声が聞こえなくなったのは、彼女が電源を落としたからだろう。先ほどまで喧しいキャスターにかき消されていた風に揺られる夏草の葉音が、僕らの不安を掻き消すように優しく囁き出した。


「だからさ」


 彼女は握っていた手を解き、行き場を探るように真っ直ぐ伸ばされた細い脚を手で摩り、そして膝の上にそっと乗せた。


「十年後。私たちが大人になった時、また一緒に、ここに流れ星を見に来よう」


「良いね、そうしよう」


「そして、さ……」


 彼女は丁寧に息を整えてから続けた。


「もしその時、ちゃんと流れ星が見れたら、その時は……その……結婚、しませんか」


 理解に時間がかかったのは、何も僕の頭の出来が悪いからとかそういうわけでは無いと思う。聞き間違いではないことを頭の中で何度も確認し、言葉を一つ一つしっかり噛みしめる。

 僕は彼女の意図を正しく汲めているだろうか? 僕の期待が空回りしているだけではないだろうか? 

 恐る恐る隣に目をやると、同じタイミングでこちらを向いた彼女と視線が重なった。彼女の表情を確認する間も無く、磁石の同じ極を近づけたかのように、反射的に視線を逸らしてしまった。


「そんな約束しちゃっていいの? 君の気が変わるかもしれないのに」 


「私の気は変わらないから、大丈夫だよ。あとは夏輝なつきくん次第」


 そよ風に揺れる夏草を眺めながら訊ねる僕に、彼女は迷いもせずにそう言い切った。それでも僕は視線を落としたまま、上に広がる美しい星空を無視して、地面を覆う緑に視線を送り続けていた。今あの景色を目にしたら、幸せと感動のキャパオーバーで爆発してしまうような気がした。


優祈ゆきがいいなら、えっと……よろしくお願いします」


 嬉しさと恥ずかしさとよくわからない高揚感とがぐちゃぐちゃに混ざり合い、心臓が煩いほどに高鳴っていた。

 再び視線を彼女へ移すと、またしても視線が重なった。しかし先ほどとは僕側の極が変わっていたようで、お互い吸い込まれるようにしっかりと目を合わせ、お互いの認識に相違がないことを確かめた。

 将来への不安は依然として解消されていないが、この瞬間、将来への期待がそれらを上回った。この約束がある限り、僕は未来を切り捨てないで済む。どんな壁にぶつかっても、腐らないで済む。


「帰ろうか」


 上体を起こそうと地面についた手の上に、彼女の手がそっと被さる。「ふふっ」とくすぐったそうに笑う彼女の潤んだ瞳は、今日見たどの星よりも綺麗に映った。


 帰り道、一際大きく眩しい流れ星が一つ、視界を横切った。神様なんか信じない。けど、僕は咄嗟に願った。この約束が、どうか叶いますように。



     3



 『起きた時間が朝である』という信条を持つ僕にとって今は朝なのだが、おそらく世間一般では昼と言われる時間なのだろう。寒さと耐えられない空腹で目を覚ましてしまい、食糧を求めてふらふらと台所へ足を運んだものの、期待を込めて開いた冷蔵庫の中には度数の強い酒が二本と少量のチョコレートのみ。いくら僕でも平日の昼間から一人で酒を飲む気にはなれないし、この程度のお菓子で空腹を紛らわせることは出来ない。我ながら辟易しつつ扉を閉めると、コンロの上に僕のものではない鍋が置かれていることに気がついた。


 『きちんと栄養あるもの食べないとダメだよ』


 見覚えのある端正な文字で書かれた書き置きを退けて蓋を開けると、醤油とみりんの柔らかい香りが鼻腔をくすぐった。玉ねぎ、人参、サヤエンドウ、じゃがいも、そして牛肉。僕の自炊では決して見ることのできない色鮮やかな料理。優祈の得意料理の中でも、この肉じゃがは僕が特に好きなものの一つだ。きっと夕飯の残りだろう。昨晩僕の部屋に集まった時、今日は予定があると言っていたが、その前にわざわざ置いていってくれたのだろうか。感謝しつつ今すぐにでもがっつきたい衝動をなんとか堪えて、鍋を火にかけ始めたのだった。



 示し合わせて同じ大学を受験した僕らは、無事に合格し、高校卒業と同時に地元を離れて都会で一人暮らしを始めた。アパートの隣あった部屋を各々借り、夜の空き時間やお互い授業のない日にはどちらかの部屋に集まって目的もなく同じ時間を過ごしていることが多い。なので表向きには一人暮らしだが、同棲していると言っても過言ではないかもしれない。


 優祈は頻繁に手料理を振る舞ってくれる。僕が全然自炊しないのでそうせざるを得ないだけかもしれないが。買い物は一緒に行くことが多く、その時はご飯のお礼と称して僕が払うようにしている。優祈は折半にしたがるが、「それでは僕が一方的にもらっているだけになってしまうから、せめてこれくらいはさせてほしい」という僕の駄々に彼女が折れ、代わりに彼女が、僕の期待以上の料理を提供してくれるというサイクルが出来上がっている。


「なんだか、夫婦みたいだね」


 この生活が始まってすぐの頃、初めて二人で買い物に行った帰り道で、優祈がそんなことを呟いていたのを思い出した。買い物袋をぶら下げて二人で歩く夜道、彼女は笑っていた。いつの間にか開いた身長差が、僕の視線を斜め下へと動かす。確かにねと笑いながら、歩く速度を緩め、肩を寄せる。彼女の中でも約束が生き残っていることに胸を撫で下ろして。

 


 しっかりと温まった肉じゃがが、冷えた体をじんわりと暖めていく。孤独を紛らわせるためにつけたテレビでは、大切な人に送るプレゼントについて街でアンケートを取る様子が映し出されていた。奮発してブランド物のバッグを送りたいと熱弁していた大学生の男。あまりお金がないからお揃いのマフラーにしようと照れていた高校生の女の子。結婚十周年記念ということで、旅行でも行って豪勢に祝いたいと意気込んでいた中年の男性。形は違えど、どれだけ相手のことを思っているのかは、プレゼントについて語る彼らの表情から容易に汲み取ることができた。根拠はないが、なんとなく、彼らは幸せな一日を過ごすのだろうということが伝わってきた。


 かく言う僕も、画面の向こうの彼らに言及できないくらいには、その事実に浮かれている。明日はクリスマスイブだ。毎年この日は優祈と共に過ごしている。昼前にどちらからともなく集まり、軽い昼食を食べてからだらだらと買い物なり映画なりを堪能し、夜は普段行かないようなお高めのレストランで至福の時を過ごす。きっと今年も、似たような流れになるだろう。しかし明日は、例年とは違う意味を持っている。

 今年のクリスマスは、あの約束の前最後のクリスマスでもあるのだ。もしかしたら来年のクリスマスには、僕らの関係が今とは違ったものになっているのかもしれない。ある意味では最後のクリスマスということもあり、いつも以上に気合が入っている。

 こっそり服や靴を新調したし、プレゼントも用意した。クローゼットの最奥に突っ込み、彼女が部屋に遊びに来ても決してバレないように立ち回りつつ、それらが日の目を浴びる明日という日をずっと待ちわびていた。その日がついにやってくるのだ。


 食べ終えた食器と優祈の鍋を洗っていると、『コンコン……コン』という独特のリズムで扉を叩く音が聞こえた。これは来客が互いであることを知らせるために、僕らの間で決められた信号のようなものだ。軽く手を拭いてから玄関へと走り扉を開くと、そこには案の定優祈がいた。


「ただいまー」コートのポケットで手を温めながらぼーっと立っていた優祈は、僕を見るなりにぱっと笑った。


「おかえり」僕はそう返した。どんな表情をしていたかは、ちょっと自分じゃわからない。


 刺さりそうなほど冷たい外気から逃げるように、優祈はすたすたと奥に入っていった。まるで本当に自分の家に戻ってきたかのようだ。

 換気がてらに少し外の空気を堪能したが、上下スウェットという軽装の僕にはすぐに寒さの限界が訪れた。扉を閉め、彼女の手料理で温まったはずが瞬く間に冷やされてしまった体を手で摩った。寒いのは少々苦手だ。でも、冬は嫌いじゃない。夏に比べて過ごしやすいし、大好きな布団が一番愛おしく感じることのできる季節でもあるからだ。

 リビングに入ると、優祈が大きなクッションを枕代わりにして床に寝そべっていた。


「えへへ、ちょっと疲れちゃった」


 僕が部屋に戻ってきたことを察知すると、優祈は顔を上げて僕を見上げるようにいった。確かに、顔に少々疲れの色が浮かんでいるような気がする。


「そんなところで寝たって疲れも取れないし風邪引いちゃうよ。僕の布団使っていいから少し休みな」


 優祈は「ありがとー」と言ってゴロゴロと寝返りで転がりながら、先ほどまで僕が寝ていた敷きっぱなしの布団に移っていった。最初こそ「夏輝くんの匂いだ」と掛け布団に抱きついて弱々しくはしゃいでいたものの、すぐに小さな寝息が聞こえてきた。


 理性を保つためにも、凍てつく外気に身を置いた方がいいだろうか?



     4



 陽が沈み始めた頃、優祈は億劫そうに目を開いた。


「大丈夫?」


「うん。おかげさまで、だいぶ楽になったよ」


 確かに先ほどよりは元気そうだが、それでも目を擦りながら笑顔を浮かべる彼女の表情には、まだわずかに疲労が残っているように見えた。


「今日は僕がご飯を作ろうかと思うんだけど、何か食べたいものはある?」


 そう訊くと、優祈は大袈裟に手を振った。


「え、悪いよ。私はもう大丈夫だから……」


「久しぶりに作りたい気分なんだ。それに、優祈が無理して明日に影響したらまずいでしょ?」


 明日という言葉を聞いて観念したようで、渋々承諾してくれた。これは僕の我が儘でしかないが、彼女が元気でいてくれるならば強硬手段もやむを得ないだろう。


「じゃあ、シチューが食べたいな。あんまり食欲がないから、少しだけ」


「わかった」


 スウェットの上からダッフルコートを羽織り、いつも優祈と二人で行くスーパーに一人で赴いた。クリームシチューのルーを手にとり、パッケージに書かれた食材を鶏肉、玉ねぎ、人参、じゃがいも、牛乳、と順番に放り込んでいく。念のためヨーグルトやリンゴ、スポーツドリンクといった体に優しそうなものも入れておいた。一人で店を回って品物をカゴに入れて行く工程も、その間に一言も交わさないことも、良く言えば新鮮だったけど、不安と孤独感にガッチリと心臓を掴まれたような気分だった。


 一刻も早くこの不安を払拭しようと急ぐ帰り道、首筋に冷たい何かが触れた気がした。気のせいだろうと歩を進めると、また。さすがに気になってキョロキョロと辺りを見回して、その現象にやっと気がついた。思い出したと言った方が適切かもしれない。空気中を踊るように優しく、雪が降り始めていた。

 地元にいた頃は嫌というほど見てきたが、こちらにきてからは一度も見た記憶がない。田舎の何もない暗闇で滝のように降り頻っていた景色に比べて、本当に少量ではあるけれど、都会の眩い光に多方向から照らされながらゆっくりと舞い降りる雪は、遥かに洒落て見えた。でもどうせなら今日ではなく、明日降ってほしかったものだ。一人ではなく二人で見た方が、大層綺麗なことだろう。それは明日に期待するとしようか。


 途中から小雨に変わってしまい、家に着く頃には湿気を吸ったコートがどっしりと重くなっていた。スウェットの裾も濡れてしまっている。濡れた衣類というものは、不思議なほどに人間の体力を吸ってしまうものだ。近所のスーパーを往復しただけだというのに、まるで重労働を終えたサラリーマンのように疲れ果てていた。しかし、扉を開いた時に飛び込んできた優祈と、その「おかえり」という優しい声が、そんな小さな疲れをどこか遠くへ吹き飛ばしてくれた。


「ただいま」


 僕がこちら側に立つのは久しぶりな気がした。以前はお互いの部屋を行ったり来たりしていたが、最近は優祈の要望で僕の部屋に集まることが多い。諸事情で散らかっているから恥ずかしいと言っていたが。


「雨降ってるみたいだけど、大丈夫だった?」


「うん。たった今大丈夫になった」


 優祈は疑問符を浮かべながらも、「寒かったでしょ? お風呂沸かしておいたから、ゆっくり浸かってきて」と言ってくれた。事情を知らない他人がこの光景を見たら、間違いなく新婚と勘違いするだろう。僕自身、その幸せな錯覚に危うく陥るところだったのだから。

 礼を言って湯船に浸かる。雨雪に芯まで冷やされた身体が悦んでいるのがよくわかる。布団といい炬燵といい湯船といい、暖かいものは本当に素晴らしい。このまま寝てしまおうか。だんだんと宙に浮かんでいく意識を僕の中に引き戻したのは、一つの直感だった。


「優祈のやつ、まさか……」


 慌てて湯船から飛び出て、大きめのバスタオルを巻いて部屋に飛び込んだ。すると案の定、優祈はキッチンに立ち、僕が買ってきた袋から食材を取り出して夕食の支度を始めていた。


「やっぱり……」


 僕の思わぬ登場に優祈はしばし目を点にして立ち竦んでいたが、すぐに「バレちゃったか」と悪戯っぽく微笑んだ。


「でも、大丈夫だから。明日だけは、何があっても絶対行くから」


「そ、そう? 本当に大丈夫ならいいんだけど……」


 優祈らしからぬ力強い声色に、僕は少々困惑してしまった。彼女も僕と同じくらい明日を楽しみにしてくれているということだろうか。だとしたら嬉しいし、そんな彼女の意思を無下にもしたくなかった。


「だから心配しないで、お風呂にゆっくり浸かってきて。そんな格好でいたら、夏輝くんの方が風邪引いちゃうよ?」


「わかった。悪いけど、お言葉に甘えさせてもらうよ」


 そう言って僕は幽体離脱の続きに勤しんだ。優祈の思惑通りになってしまったのは悔しいが、本人も大丈夫だと言っているし、信じる他ないだろう。彼女の手料理が食べれるというのも、本音を言えば非常に嬉しいことだ。


 長風呂を終えて部屋に戻ると、支度を終えた優祈が食卓につき、満面の笑みで僕を待っていた。


「今日のシチューは自信作です」優祈は得意気だ。


 お礼と「いただきます」を彼女に告げ、期待を込めてスプーンを口に運んだ。するとどうだろう。クリームの優しい甘みに包まれた食材たちが、口の中でホロホロととろけるほど柔らかく煮詰められている。煮崩れしているわけはなく、しっかりと野菜個人のアイデンティティを保った上で、最善の形に調理されている。そんな甘味の中から、しっとり柔らかな鶏肉に添えられた黒胡椒が、ピリリと刺すような辛味を主張する。しかし喧嘩しあっているわけではない。互いが互いの存在を認め合った上で、自分のテリトリー内を駆け回っている。


「めちゃくちゃ美味い」


「でしょー?」優祈はご満悦だ。


 結果的にではあるが、優祈に作ってもらって正解だったかもしれない。美味しく調理された方が、具材たちも喜ぶだろう。それに彼女の言った通り、すっかり元気になっているようだ。時期が時期なだけに、少し心配しすぎたかもしれない。


「何か特別な仕込みとかしたの?」


「いやいや。そんなことする時間なかったから、大体箱に書いてある通りに作ったよ」


「じゃあ何か調味料とか入れた? 普通に作るより圧倒的に美味しいんだけど」


 優祈は頬に人差し指を当てて少し考える素振りを見せたが、やがて微かに頬を紅潮させてはにかんだ。


「愛情、かな」


 多分この時の僕は、世界で一番幸せ者だったんじゃないかと思う。そしてこの幸せは日に日に大きくなっていって、約束の日を境に確固たる形を持ったものになっていくのだと、彼女の心中を知らないこの時の僕は思い込んでいたのだった。



     5



 目が覚めて最初に飛び込んで来たのは、数センチ、いや数ミリ先で静かに寝息を立てている夏輝くんの寝顔だった。不意を突かれた私の心臓がドキリと跳ね上がる。そういえば私のわがままで、一緒の布団で寝ることにしたんだった。私が夏輝くんの部屋に押しかけて勝手にそこで寝ようとしているというのに、彼は私に布団を譲って自分は床で寝ようとするものだから、そんなことをされてしまったら私の心の方が壊れてしまいそうだったのだ。


「ほんと、昔から優しいよね、夏輝くんは」


 頭を撫でると、彼はくすぐったそうに呻き声を漏らしたが、起きる気配はなかった。彼の背中越しに見える掛け時計が、午前五時半を指している。いくら今日が待ちに待ったクリスマスデートとはいえ、さすがにちょっと早すぎる。


「デート、か」


 頭の中で留めていたはずなのに、思わず口から漏れてしまった。慌てて口を紡ぐ。


 私は知っているけど、彼はまだ知らない。今日が最後のデートになることを。今日、恐らく彼は、私の身勝手のせいでたくさん傷付くだろう。こんな素敵な人を裏切るなんて、私は本当に最低な女だと思う。だからこそ、彼には私を嫌いになってもらう必要がある。あんな女と別れて正解だったと思ってもらう必要がある。

 その瞬間の予行演習は、頭の中で何度もしてきた。その度に、胸が締め付けられるなんてものじゃない、引き裂かれるかのような苦しみと悲しみが襲ってきた。何度経験しても慣れない苦しみ。もちろん今も例外じゃない。


「ごめんね……本当に、ごめんね……」


 寝ているのをいいことに、私は彼の胸に顔を埋めて泣いた。声を殺して、気持ちを殺そうとして、でも殺せなくて、子供のように。



     6



 もっと都心部へ行けばたくさんの娯楽で溢れ返っていたのだろうが、「あんまり人が多すぎるのも嫌だな」という優祈の意見から、僕らは家の近くの大きなショッピングモールへ向かうことにした。彼女の意見には僕も大いに賛成だった。都心に出ても一日で全て周り切れるわけもなく、時間に振り回されてしまう形になるだろう。そういうわけで、時間を持て余すほど何もないわけではないが、皆都心に出払っているおかげで人に酔わなくて済むこの地域は、僕らのような人間にはうってつけのデートスポットになっていた。


 あまり来る機会のない大きなショッピングモール内をふらふらと歩き回った。CDショップで僕らの好きなユニットの新しいアルバムが発売されることを知って興奮し、書店独特の静寂に包まれながら背表紙の文字列に目を通し、雑貨屋でお揃いのコップなんか買ったら楽しそうだよねと話し、そして今は休憩がてらに喫茶店でコーヒーを啜っている。目の前では呪文のような長い名前の液体を片手に持った優祈がぼーっと窓の外を眺めていた。つられるように視線を移すと、人工的に薄暗い廊下が、一つの施設に続いているようだった。


「映画館か。何か見たいのでもあるの?」


「見たい映画があるわけじゃないんだけど、映画が見たい気分なんだよね」優祈は視線を固定したままポツリと言った。


「じゃあ何やってるか見てみて、面白そうなのがあったら観ようか」


 優祈はこちらに向き直り、手を叩いて「やった!」と喜んだ。僕らは同じタイミングで飲み物を飲み干し、そそくさと店を出て向かいの映画館へと足を運んだ。あの薄暗い廊下の両壁には上映中の映画のポスターが等間隔に貼り付けられている。可愛いらしいキャラクターが表紙を飾る子供向けの映画、緻密な背景に目を奪われる有名なアニメーション監督の作品、見たことがないから内容の想像もできない大人向けのラブストーリー、露骨な不気味さを無遠慮に撒き散らすホラー映画等々、選択肢は実に様々だった。

 一般的なカップルというのは、こういうシチュエーションにおいてはラブストーリーを見るのが定石なのだろうか。きっと主役の男女に自分たちを代入して、改めて愛を確かめあうのだろう。詳しくないので定かではないが。

 しかし僕らはアニメーション映画を選んだ。僕がこの監督の作品が好きであることに加え、優祈がその美しいキービジュアルに惹かれたことで即決だった。この監督の作品は外れないし、以前から優祈に勧めていて一緒に見たいという話をしていたので、ちょうどいい。それに、今更僕らの愛を確かめる必要なんてどこにあるのだろう?


     *


 およそ二時間の上映が終わった。予想に反してというべきか、案の定というべきか、映画館から出てきた僕らは顔も目も真っ赤にしていた。傍から見たら、かなり滑稽だったんじゃないだろうか。

 映画の終盤。物語が大きく動き出した時、ヒロインの自己犠牲的な決意に胸を打たれたらしい優祈が、ぽろぽろと涙を流し始めた。僕は右腕を彼女の肩に伸ばし、子供を泣き止ますようにぽんぽんと叩いて宥めていた。しかし、物語が進むに連れて段々と姿を現すバッドエンドと、僕の腕の中で嗚咽を漏らす彼女に感化され、気がつけば僕の目も決壊してしまったのだった。

 涙というのは狡いと思う。たとえ自分が涙を流すほどの何かを受け取っていなかったとしても、誰かが涙を流しているという事実を経由することで、訳もわからず涙が溢れ出してしまう。そうしてやっと、自分が感じていた輪郭のない感情の正体が『感動』であることを思い知らされる。

 最終的には主人公の頑張りでハッピーエンドにたどり着くことができたわけだが、それがまた僕らの涙を誘発させた。一度涙を流すと、もう自力で止めることはできない。

 主題歌がかかり、エンドロールが流れ出す。ただ漠然と『いい曲だな』と思っていた主題歌も、映画を見てから改めて聴くと、歌詞の一つ一つに大きな意味が込められていることを知った。背景では元の平和な日常に戻った主人公たちが描かれている。最後に監督の名前が表示され、主題歌が終わり、真っ暗だった映画館内に優しい光が灯される。その間、僕らはずっと泣いていた。繋がれた手が、ずっと震えていた。


「さて、そろそろ行こうか」


 僕は震えた声で促した。二人揃って感動する作品なんか見た日には喫茶店にでも入ってその映画について語り合うのが定石なんだろうが、そんなことしたらいよいよ声を上げて泣いてしまうような気がした。

 優祈は僕の意図を察してくれたようで、笑顔を作って「うん」と頷いてくれた。そんな彼女も、やはり声は震えていた。


     *


「お洒落なお店だね」


 優祈は周りの装飾をキョロキョロと見回していた。まるで無邪気な子供のようだ。通された二人個室には外からの声は一切届いておらず、まるで世界から僕ら二人だけが切り取られてしまったような居心地の良い空間だった。藺草の優しい香りが心地良さに拍車をかけているようだ。


「よくこんなお店見つけたね」


「優祈は和食の方がいいかと思ってね」


「ありがとう。ふふ、よくわかるね」


「そりゃあもちろん。何年一緒にいると思ってるのさ」


 自分ではいいことを言ったつもりだったのに、それを聞くと優祈は愛想笑いもせずに表情を曇らせてしまった。地雷を踏んだ心当たりはないのだが、何か間違えてしまったのだろうか。

 優祈はすぐに我に返った様子で弱々しい笑みを浮かべていたが、それが作り物であることは僕でもわかった。困惑する僕に構いもせず、開けられた襖から料理が運ばれてくる。先付けのようだ。まだお酒が飲めないことが悔やまれるが、それは来年以降の楽しみとしてとっておくとしよう。


「さ、いただいちゃいましょ」


 そう言う優祈は、やはりどこか空元気に見えた。心配だが、優祈が自分から切り出さないなら、態々自分から訊こうとするのは野暮というものではないか。僕も平静と笑顔を装って「そうだね」と頷いた。


 それから順にお造りや天婦羅、蒸し物と様々な料理が振る舞われた。その後優祈がお手洗いに立っている際に、メインディッシュである鯛の煮物と黒毛和牛の網焼きが届き、図らずも戻ってきた彼女へのサプライズのようになっていたのが面白かったのを覚えている。

 それらを食べている時、優祈に先ほどの暗雲は立ち込めておらず、心からこの食事を楽しんでくれているようで安心した。しかし最後の食事が提供され、甘味が提供され、今日という日が終わりに近づくにつれて、彼女の表情は再び暗く沈んでいった。そして何よりそわそわしている。落ち着きがない。


「どうしたの? さっきからちょっと変じゃない? あんまりお気に召さなかったかな?」


 サイン波のような浮き沈みの激しさに流石の僕も不審感を覚え、思わず訊ねた。


「いやいや、そんなことないよ。お料理とっても美味しかったし、雰囲気も良かったし、個室っていうのも嬉しかったな。最後に夏輝くんと二人きりでこんなところに来れて幸せだったよ」


 優祈は大袈裟なほどに手を振って答えた。多分、彼女は嘘をついていない。料理を食べる時の彼女の笑顔は本物だったし、人がたくさんいる場所が苦手な彼女には、個室というのも加点要素のはずだ。そして先入観というか経験則だが、意外と彼女はお世辞というものを言わない。だからこそ、彼女の言葉は本心からだと思い安心することができた。ただ一つ、聞き捨てならない単語が混じっていること以外は。


「……最後って、どういうこと」


 視線を落として固まっていた優祈は、目を瞑り、大きく深呼吸をしてから、凛とした視線を僕へと移した。


「その言葉の通りだよ。私たちが会うのは、今日が最後」


「……どういう、ことだよ」


「別れましょう」


 頭の中が白く染まっていく。力が抜けていく。


 優祈は何を言っているんだ? 


 空っぽの頭が湧き続ける疑問符で埋まっていく。


「なんか、夏輝くんがそういう相手に見えなくなってきちゃったの」


「気は変わらないって、言ってくれたじゃないか……」


「そうだったっけ? なら、私は嘘吐きなのかもね」


 子供の頃の約束を馬鹿正直に祈り続けていた僕がおかしいだけなのか? 記憶の中のあの日がこんなにも色付いて刻まれているのは、僕だけだったのか? 

 優祈はおもむろに立ち上がり、カバンを手に歩き出した。襖を開け、最後にこちらを振り返り、


「さよなら」


と吐き捨てて、彼女は姿を消した。


 映画館で散々泣いたおかげかな、不思議と涙は出なかった。あまりの突飛な出来事に脳が追いついていないのか、はたまた現状の理解を拒んでいるのか、どこか他人事のように感じている節がある。涙が出ないのもそのせいかもしれないな。

 動き方も忘れて固まる僕の後ろのカバンの中で、彼女への贈り物が出番はまだかと息を潜めていた。



     7



 しばらくのフリーズとラグを経て我を取り戻した僕は、僕らの暮らすアパートに向かって全速力で走っていた。優祈がそこに戻っているのかはわからないけど、そこに戻っていなかったとしたら、もう僕から彼女に近づくことはできないだろう。


 店から出る際、優祈を追いかけたい一心で慌てて会計をしようとしたら、店員さんに「もうお代はいただいています」と言われた。優祈がいつの間にか会計を済ませていたのだろう。帰り際にはそんな時間はなかったと思うから、お手洗いに立った時が怪しい。つまり、優祈は以前からこれを計画していたことになる。これで今までの関係を全て清算しようとでもいうのだろうか。縋る思いでかけた電話は、「この電話は、お客様の都合により、お繋ぎすることができません』という無機質な機械音声によって突き放された。


 僕の内心を具現化したような鈍色の空の下を走り続け、やっとの思いで優祈の部屋の前に着いた。店からここまでは大した距離ではないはずだが、着くまでの時間は異常に長く感じられた。実際は十分も経っていないくらいだろうが。


「優祈! 僕だ! 開けてくれ!」


 お決まりのリズムなんか忘れて、ドンドンと扉を叩き続けた。慌ただしいノックの音が、静かに澄んだ空気中に虚しく残響する。しかしいくら叩いても、その扉が開かれることはなかった。


 きっとまだ帰っていないだけだ。ここで待っていれば、じきにひょっこり現れるだろう。


 必死に言い聞かせた。そうでもしないと、この場で狂ってしまいそうだったから。

 彼女の部屋の前に腰掛けて、呆然と重苦しい空を眺めた。いくら内心を彩って平常心を保とうとしても、彩度なんてものは全て虚空に吸い込まれてしまい、残ったのは無彩色に枯れた心だけだった。


「まったく、これだから冬は……」

 

 震えが止まらないのは、きっと寒さのせいだ。身体を暖めるべく三角座りからもっと手足を密着させ、膝の間に顔を埋めた。コートの裾の隙間から覗くベージュのチノパンに、水玉模様があしらわれていく。


 地面を引きずるような足音が聞こえた。反射的に視線を移しそうになったけど、明らかに優祈のものとは違う歩調に、顔を下げたまま溜め息を吐いた。その足音はだんだんと大きくなり、そして僕の目の前で止まった。


「どうかしたのかい?」


 聞き覚えのある嗄れ声に、ゆっくりと顔を上げる。


「ああ、大家さん、こんばんは」


 目の前にはこのアパートの大家であるおばあさんが、心配そうな眼差しをこちらに向けて立っていた。僕と優祈のことを気に入ってくれていて、良く親切にしてもらっていた人だ。


「ちょっと優祈の帰りを待ってるんです」


 ストレートに別れたと言うのは憚られたので、優祈がここに戻ってくるという祈りも込めて僕はそうお茶を濁した。が、そんな小さな希望すら、大家さんの一言によって叩き潰されることになる。


「あれ、聞いていないのかい?」


「何をです?」


「優祈ちゃんは少し前に引っ越したさ」


 真冬だというのに、嫌な汗が背筋を伝った。


 これは何だ? 夢か? 悪夢なのか?


 誰でもいいから、早くドッキリ大成功の看板を持って出てきてくれよ。あんたらの企画は僕の心臓を締め付けるほどには成功している。だからさっさと、僕をこの地獄から解放してくれ。

 いくらそう願っても、現状に変化がもたらされることはなかった。


「ああ、それでかい。ちょっと待っててな」


 お婆さんは一人で何かを納得したように部屋に帰り、すぐに一つの封筒を持って戻ってきた。


「いつだったかな、優祈ちゃんが部屋にやってきて、今日の夜、夏輝くんに渡してくれって頼まれてたさ」


 そう言って僕にその封筒を手渡した。礼を言って受け取ったその封筒には、表にも裏にも、何も書かれていない。この中にドッキリ大成功って書かれた紙でも入っていてくれれば、もうそれでいいんだけどな。


「風邪ひいちゃうから、部屋で読んだ方がいいよ」


 部屋に戻るお婆さんの背中にもう一度お礼を言って見送ると、忠告を無視してその場で封筒を開けた。中からは三つ折りで畳まれた紙が一枚入っているだけだった。紙を開くと、そこにはやはり彼女の端正な字がびっしりと綴られていた。



 夏輝くんへ


  

 急な事で驚いているでしょう。まずはそのことについて謝ります。ごめんなさい。 

 

 夏輝くんがどれだけ私のことを想ってくれていたのかは、普段のあなたの言動から伝わってきていました。こんなにも私のことを想ってくれている人がいるという事実は、とても心強かったし、何より嬉しかったです。しかし残念ながら、人間関係というのはイレギュラーがつきもののようで、想いの強さだけでは上手くいかないようなのです。


 ここだけは勘違いしないでほしいのですが、夏輝くんは何も悪くありません。全て私の我が儘です。私が偉そうに言うなんてもってのほかですが、絶対に自分を責めたりしないでください。


 夏輝くんは本当に素敵な男性だと思います。私にはもったいないくらい。ですから、こんな自分勝手な私をどうか恨んで、憎んで、嫌って、純粋にあなたのことを想ってくれる素敵な女性を見つけてください。


 もう会うことのないあなたの幸せを、遠くから祈っています。



 優祈より



 こういう時、「あなたは悪くないよ」と慰められるより、「全部お前が悪い」と一方的に責められた方が、まだ気が楽だったと思う。僕の過ちで関係が崩れたと言うのなら、自分を責められるし、正解択を選ぶことができていれば、この関係が続く可能性は充分にあったわけだ。でも、僕が悪いわけでもないのにこの関係が終わったというのなら、それは正解択云々の話ではない。元から可能性が存在しなかったんだ。こんな残酷な話があるだろうか?


 三回読んでから、丁寧に折り畳んで封筒に戻した。やたら手が悴むなと思ったら、いつの間にか雪が降り出していた。「明日雪降ってくれ」という昨日の僕の想いはどうやら天に届いたらしいが、一番届いてほしかった想いは行き場をなくし、ふわふわと冬の空を彷徨っていた。



     8



 それから一月が経った。

 去年までは優祈と年越し蕎麦を啜っていた大晦日の夜は独りでカップラーメンを啜り、優祈と毎年初日の出を見てから初詣に出かけていた元旦は外出すらしなかった。冬休みが終わってから二週の授業と期末試験を受けたはずだが、授業内容も、試験の出来も、何も覚えていない。単位が来るかもわからなかったけど、そんなことはどうでもよかった。

 今までの人生を完全に否定された僕は、無気力症候群のような状態に陥っていた。せっかく春休みが始まったというのに、昼過ぎに布団の上で目を覚まし、そのまま空っぽの頭で何も考えずに寝返りに勤しんで夜を迎える日々が続いていた。孤独だった。寂しかった。こんな気持ちはいつぶりだろう。

 慣れない独りぼっちの部屋での生活も限界を迎え、僕は実家に帰ることを選んだ。夏休みも、冬休みも、優祈と二人きりの時間を過ごしたいという理由で帰省はしておらず、そのことは両親も許してくれていた。そんな僕が急に「明後日帰る」と言ったことに対して、電話先の母は事情を聞くこともなく「じゃあ、お料理たくさん作って待ってるね」と言ってくれた。久しぶりに感じた人の暖かみが嬉しかった。


 昼過ぎに着いた地元の空港は空いていた。地元と言っても、実家まではここから車で三時間ほどかかるのだけど。スーツ姿で取引先か何かと思われる相手と通話をしている男性の会話を盗み聞いて、初めて今日が平日であることを理解した。この世に平日と休日という概念があることを思い出した、と言った方が正しいかもしれない。

 通話中の男性から三つ離れたロビーの椅子に腰掛けて少しすると、影が二つこちらに伸びた。


「おかえり、夏輝。飛行機一人で大丈夫だった?」


「ただいま。もう大学生なんだから、それくらい平気だよ」


 およそ一年ぶりにみた両親は、しかし記憶の中の二人となんら変わっていない。母はいつも通り心配性というか親バカを発揮しつつも笑顔を絶やさず、父は口数こそ少ないものの僕を見た時に口元を小さく綻ばせていた。しかし親から見た子というのはたった一年でも大きく変化するらしく、母が「背伸びた?」「痩せた?」「その服新しく買ったの?」などと怒涛の質問責めを繰り広げてきた。まだ実家で暮らしていた高校生の頃は母の口の減らなさに煩わしさを覚えたこともあったが、一年のブランクを経た今、それはある種郷愁のような懐かしさを感じさせた。 


 

 家に着く頃には陽が傾き出していた。都会と違って住宅の密度も小さく平屋が多いので、見上げれば視界を遮る物はなく、視界一面にオレンジ色の空が広がっている。この光景も散々見てきたはずだが、昔よりも遥かに美しく、儚く見えた。蝕むように少しずつ黒く染まっていくグラデーションを写真に収めたところで、またしても現実が降りかかる。

 綺麗な景色を撮るのは昔から好きだったけど、僕がそうなった理由も、やはり優祈だった。まだ小さい頃、携帯電話なんて便利なものを持っていなかった時期、父親がデジタルカメラを貸してくれたことがあった。見たこともない謎の装置に興味津々な優祈の前でそれを使って見せると、彼女は目を輝かせてはしゃいだ。確か小学二年生の頃だ。陽が沈む前の満天の星の丘で、あの時の空も今と似たように鮮明なオレンジだった。それから僕は事あるごとにカメラを借り、写真を撮り、優祈に見せた。お互いが携帯電話を持ってからは、出先で撮った写真をお互いに共有することも多かった。そんな彼女とのトークルームは現在、僕から発せられた既読のつかないメッセージで埋まっている。無駄だとわかっていながらも、僕はそこに写真を投げ込んだ。いつか声が返ってくることを祈って。



     *



 せっかく実家に戻ってきても、やはり退廃的な生活が続いた。引き摺りすぎだと思われるかもしれないけど、それほど僕の中身は空っぽになってしまっていた。まるで核の部分をごっそり抉られたかのように。

 部屋で微睡んでいるというか放心していると、玄関のドアが開いた音が聞こえた。用事があると言って出かけていた母が帰ってきたようだ。


「夏輝、ちょっといい?」


 気を取り直して虚無に浸っていたところに、母からの召集がかけられる。重たい体を引きずって居間へ行くと、母が焦燥したような面持ちで待ち構えていた。息子の堕落っぷりがいよいよ心配になったのだろうか。


「どうしたの?」


 どうせ自分のことについて訊かれるものだと思っていたから、出来るだけ平静を装う努力をした。こんなことで両親には心配をかけたくなかったから。しかし母は、僕が盾を構えていない方向から懐深くに突っ込んできた。


「優祈ちゃんはまだ向こうにいるの? 元気にしてる?」


その名前にドキリと胸が跳ね上がる。なぜ今更になって聞いてきたのだろう。


「優祈は課題が山積みだからって向こうに残ってるよ。大変そうだけど元気にはしてる」


 突然の話題に事実を告げる覚悟が決まっていなかった俺は、咄嗟に嘘をついた。本当にそうであったら、どれだけよかったことか。

 それを聞いた母は「そう、それならいいんだけど……」と曖昧な返事をよこした。


「急にどうしたの?」

 

 探るように訊ねた。まさか僕が捨てられたことがバレているわけではあるまいが、それでも母の神妙な面持ちは僕を不安にさせた。

 やはり親は子の変化に敏感なものなのだろうか? と考えていると、またしても母は僕が想定していない方向から切り込んできた。


「いやね、うちの二つ隣に住んでる奥村さん覚えてる? 少し前に入院しちゃったから、今日お見舞いに行ってきたんだけどね」


 もちろん覚えているが、急に繰り広げられた優祈と関係のない話題に少々戸惑った。さっきまでの話はどこにいってしまったのだろうか、と考えているうちに、母は最悪の繋げ方をした。


「隣の病室に小鳥遊優祈って名前が書いてあったから、不安になっちゃって。同姓同名かと思ったけど、珍しい名前だし……」


 その後母が何かを話していたような気がするが、その内容は覚えていない。覚えているのは、僕が病室の番号を聞いたこと、家を飛び出そうとした僕を「面会時間は過ぎている」と母が止めたこと、晩ご飯も食べずに布団にくるまって早く明日が来るのを祈ったことだけだ。


 ずっと会いたかった。彼女がいるかもしれない場所がわかった。でも、そこには居てほしくないと、僕は願った。



     9



 面会時間の一時間前から病院で待機し、時間と同時に受付に駆け込んだ。母から聞いたものと同じ部屋番号を伝えられ、面会証を首から下げた僕はその病室の前に立っている。部屋の前にはめ込まれたネームプレートには、間違いなく『小鳥遊優祈』の文字が刻まれている。

 ノックを躊躇っている理由は、人違いが怖いからではない。本人であることが怖いからだ。人違いだったら謝って部屋から出ればいい。


 でも、もし本人だったら? 


 僕は考える。どんな顔で会えばいい? 何を話せばいい? 事情を聞くべきなのか? そもそも会うべきではないのではないか? 一度見限った人間が見舞いに来るなんて迷惑ではないか? 僕はなんでここに来たんだ?

 渦巻き出した負の思考は、希望を飲み込みながらより大きく広がっていく。


 帰ろう。


 ドアに伸ばしかけた手を引っ込めて踵を返す。所々に汚れの目立つ白いリノリウムの床を睨みつけながら、入院病棟から出ようとした時だった。正面からやってきた中年の女性が、僕の顔を覗き込むようにして言った。


「あれ、夏輝くんじゃない?」


 聞き覚えのある懐かしい声に、反射的に顔を上げる。

 会いたくなかった。この人に会ってしまうと、最悪のシナリオが確定してしまうから。しかしその人は暢気に「久しぶりだね。変わってないからすぐわかったよ」と言ってニコニコしている。僕も諦めて「お久しぶりです、お義母さん」と返す。優しく微笑む優祈の母は、僕に彼女の笑顔を想起させた。



     *



「夏輝くんは、どうして優祈が入院していることを知っていたの?」


 ロビーの長椅子に隣り合わせで座ると、お義母さんは諭すように訊ねた。


「昨日別の人のお見舞いに行った母から、優祈の名前があったと聞いて……」


「そうだったの」


 お義母さんは目を瞑り、何かを考え込んでいるようだった。鼻を刺すアルコール臭、幼児の泣き喚く声、忙しなく動く医師と看護師、ゆっくりと回る秒針の音が、とても遠くに感じられた。まるで僕らのいる空間だけ世界から切り抜かれたかのような、居心地の悪い静寂が漂っている。


「これも運命かな、うん」


 納得したように漏らしたお義母さんの一言で、止まっていた僕らの空間が再び動き出した。


「大体の事情はあの子から聞いているわ。夏輝くんは今、あの子のことをどう思ってる?」


 普段は優しくニコニコしているのに、真剣な時だけ凛々しくなる優祈の表情は母親譲りなんだなと、場違いながら思った。その表情に気圧されていることを察してか、お義母さんは「気を遣わないで、正直に答えてくれていいからね」と付け足した。


「デートの途中で逃げ出した酷い女? もう赤の他人になっているのかな? それとも……」


「……今も昔も、僕にとって一番大切な人です」


 しばらく視線を重ねていると、僕が本心から言っていることを理解してくれたようだった。お義母さんはまた目を瞑り、今度は口元を綻ばせながら、大きく二回頷いた。


「それなら、私が勝手に説明するのは野暮かもね。私はここで待ってるから、優祈と二人で話してきたらどう?」


 一連のやり取りで、僕の中の負の渦は鳴りを潜めたようだった。


 決心はついた。


 最後にお義母さんにお礼を言ってから、僕は再び入院病棟に向かって力強く歩き出した。



     10



 大きく深呼吸をしてから扉を叩いた。もちろん、あのリズムで。

 扉の向こうから「え……夏輝くん?」と独り言のように唱えたのが聞こえた。息を整えてから「そうだよ」と返すと、少しの沈黙を経てから、震えた声で「どうぞ」と返ってきた。無視される可能性までは考慮に入れていたので、ひとまず最初の壁を越えたことに胸を撫で下ろす。


 扉をゆっくりと開くと、その先には薄い緑色の入院着に身を包んだ優祈が、上体を起こしてベッドの上からこちらを眺めていた。あの日あの時あの場所で別れてからずっと焦がれ追い求めていた彼女は、残念ながら笑顔を向けてはくれなかった。驚いたような、怯えたような表情で全身を硬らせている。


「久しぶり」


 感動の再会は笑顔で飾りたかったところだが、無理に笑おうとしたら心がガリガリと削られているような感覚に陥り、『久しぶり』の五文字さえ、絞り出すのがやっとだった。どうやら向こうも同じようで、小さく「なんで……」と呟くのが精一杯のようだ。


「『なんで』はこっちのセリフだよ」


 口調に怒気を含んでしまっているような気がして、慌てて口を噤む。心を落ち着かせて、慎重に単語を一つ一つ選びながら、今に至るまでの経緯を説明した。優祈と別れてからのことを。優祈を失った僕がどれだけ絶望し、優祈のいない世界に僕がどれだけ辟易し、僕がどれだけ優祈を求めていたのかを。説明を聞いている間、彼女は目を伏せ、掛け布団の上で握られた拳をじっと眺めていた。


「さて」


 一通りの説明を終えた僕は、ベッド横に置かれた来客用の椅子に腰掛けた。優祈はもう、手を伸ばせば届く距離にいる。


「次は優祈の番だよ」

 

 彼女は上目でこちらをチラリと覗き見た。その表情はやはりまだ硬い。僕は反射的に目を逸らしてしまった。こんな彼女は、見たくなかったから。


「落ち着いてからでいいから」


 明後日の方向を向きながら、僕はその時をじっと待つことにした。開いた窓から入り込んでくる冬の風が頬に刺さり、乾いた空気に痛めつけられた目は必死に潤いを取り戻そうとしているようだった。



「……白血病なんだ、私」


 五分ほどの沈黙の後、優祈は観念したようにそう呟いた。


「こんな惨めなところ、夏輝くんに見られたくなかったなあ……」


 今の言葉で、彼女が言った「さよなら」の裏側が鮮明に見えた気がした。そうあってほしいけれど、そうあってほしくない、複雑な気持ちだ。一つ一つの真偽を確かめるなんて面倒なことはやめて、僕は単刀直入にこう言った。


「ねえ、優祈。隠し事をする必要がなくなった今、もう一度本心を聞かせてくれないか。君が今ここでまた僕をフってくれたら、僕は泣かないで済むと思うんだ」


 優祈はおもむろに顔を上げ、真っ直ぐに僕の顔を見ると、ふわりと薄い笑顔を浮かべた。


「もう一度別れましょうって言えばいいの? それともまた、夏輝くんが魅力的な男性に見えなくなったって、言えばいいのかな?」


「言葉なんて上っ面の体裁はどうでもいいよ。ただ僕を拒絶してくれれば、それで充分」


 僕の冷たく尖った言葉が、形だけの笑顔を乗っけていた優祈の顔を少しずつ歪めていく。眉を八の字に曲げ、目を細め、下唇を噛み、拳を震えるほど強く握り締めていた彼女は、次第に大粒の涙をポロポロと落とし始めた。


「無理だよっ!! だって私は……ずっとずっと昔から夏輝くんが大好きなんだから! あの日夏輝くんに酷い言葉を言った時に私がどれだけ胸を痛めたか、別れた後にどれだけ泣いたか、知らないでしょ⁉︎ もうあんなに辛い思いはもう、したくないよ……」


 布団を抱き抱えて泣きじゃくる優祈に近づき、そっと抱き寄せた。布団を抱き抱えたまま僕の胸の中で「ごめんなさい……」と泣き続ける彼女に、僕は言葉をかけられなかった。僕が優祈を責める気なんて毛頭ないことや、むしろ僕も彼女と同じことを想っていたこと、今僕は間違いなく幸福の頂にいることを伝えたかった。優しい言葉で彼女の笑顔を取り戻し、「幸せだね」と笑い合える今がほしかった。しかしどんな言葉も、嗚咽に邪魔されて形にできなかった。

 この瞬間、世界には僕たち二人だけしかいなかった。二人きりなのをいいことに、誰にも邪魔されることなく、僕らは気の済むまで抱き合い、泣き続けた。



     11



 三ヶ月ほどが経ち、四月、僕らは新学期を迎えた。本来ならばごく普通の大学二年生になっていたはずの僕らは、しかし片方は休学、片方は退学という形で、明るいキャンパスライフとは対極の薄暗い病室での毎日を送っている。



 優祈と初めて病院で会って事情を聞いた僕は、一人では抱えきれない不安を無理矢理抱えて家に戻った。両親に心配させないように空元気を演じていたが、その異変に気づいたのは意外にも父だった。仲はいいとは言え、僕の一挙一同に興味があるというわけではなさそうだったから、おそらく露呈していたであろう小さな変化に気づかれるとは思ってもいなかった。

 夕食を終えて部屋に戻ろうとする僕に、父は「ちょっといいか」と部屋に呼んだ。久しぶりに入った父の部屋は、家具の配置こそ変わっていないものの、ディスプレイが一回り大きいものに変わっていたり、一杯だった本棚からいよいよ溢れ出していたり、煙草の銘柄が変わっていたりと、一年間という時間の経過を如実に表していた。僕は父のベッドに腰掛け、椅子に座った父と向かい合って次の言葉を待った。きっと大学生活一年目が終わった節目の時期だから、将来の目標とか、やりたいこととか、そういうのを聞かれるものだと思っていた。


「何かお前、変じゃないか?」


 予想外の質問に反射的に目を逸らし、消えるような声で「そんなことないよ」と呟いて自分の膝に視線を落とした。その言葉は、もしかしたら父には届いていなかったかもしれない。


「まあ親に言いたくない悩みもあるだろうから無理に吐けとは言わないが、そうでないなら少しは頼ったらどうだ」


 ゆっくりと顔をあげる僕に追い討ちをかけるように、「それとも、この親父はそんなに信用できないか?」と言ってニカっと笑った父の顔を見て、いよいよ我慢の限界に達したのだった。親の前で泣いたのなんて、いつぶりだろう?

 全てが始まったクリスマスイブの一件から、僕が実家に戻ってきた理由、そして病院での出来事を、僕は具に説明した。泣いて、震えて、上手く形にならない僕の言葉を、父は急かさずに待ってくれた。全てを聞き終えると、父は「そうか……」と言って腕を組み、目を瞑って低く唸り出した。父が考え事をする時にこうするのは、昔からの癖だ。色々と変わってしまった空間の中で、父だけは昔のままだった。


「休学したらどうだ」


 唸り続けた父が導き出した結論が、これだった。


「学校なんかいつでも行けるが、その子といられる時間は限られているんだ。今しかできないことを放り出して、いつでもできることをする必要なんてないだろう。あんまり最期って言葉は使いたくないが……その時まで、一緒にいてやれ」


 この父からの後押しを受け、僕は新学期が始まると同時に大学に休学申請を送付し、そのまま今まで通り優祈の待つ病院へ向かった。新学期が始まったというのに地元に留まり続けている僕を見て全てを察したらしく、目尻に涙を浮かべながら申し訳なさそうに微笑んだ。


「学校はいいの?」


「ついさっき休みになったよ」


 僕のくだらない冗談を、彼女は笑って受け入れてくれた。僕が勝手に選んだこの道のせいで彼女に負い目を感じて欲しくなかったから、その反応が心地よかった。


「私は休みどころか、大学生じゃなくなっちゃった」


 大学生ではなくなった。その言葉が意味するのは、ただの事実確認だけではないことが、わかりたくなくてもわかってしまった。寛解し、普通の大学生に戻ることが、すでに絶望的である。きっとそういうことなんだろう。

 僕の思い描いていたキャンパスライフは既に僕の手から零れ出していて、今更それを拾い上げることはできない。そして目の前の彼女も、いずれは僕の手から零れ落ちてしまう。そう考え出した途端に、愛おしさと恐ろしさが濁流のように押し寄せてきて、気づけば僕は優祈を抱きしめていた。くすぐったそうに笑い、僅かに照れながら抱き返してきた彼女の力は、僕の知っている彼女ではないくらい脆く弱々しいものだった。


「私から夏輝くんを遠ざけたくせに、いざ一人ぼっちで病室に放り込まれたら、寂しくて、怖くて、不安で、夏輝くんに来て欲しいとしか考えられなくなっていたの。情けないよね。全部正直に話して来てもらおうかとも考えたけど、拒絶された時のことを考えたら怖くて怖くて、どうしても話せなかったの」


「僕が優祈を拒絶するはずないじゃないか」


「ふふっ。だから扉のノックが聞こえた時、身体中が震えるほど緊張したし、開いた扉の奥に夏輝くんの顔が見えた時、叫び出したくなるほど嬉しかったの。また一緒にいられるのかなって思って」


「じゃあ、こうすればずっと一緒だね」


 僕はカバンから小さな箱を取り出し、優祈に差し出した。


「これは?」


「あの日優祈に送るつもりだったプレゼント。開けてみて」


 恐る恐る開くと、優祈は目を輝かせて「わあ!」と声をあげた。興奮する優祈を宥めてから、僕はそれを取り出して彼女の白く細い指にはめた。優祈はそれをえらく気に入ってくれたようだったが、彼女の指の上でキラキラと輝く指輪は、しかし僕にはこの部屋で二番目の美しさであるように映った。それほど、僕にとって優祈の嬉し涙は尊いものだった。


「夏輝くん」


 手招きされて顔を近づけると、優祈の柔らかい唇が僕の頬に押しつけられた。彼女の唇に触れている肌の触覚、先ほどまで正面から彼女を捕らえていた視覚、短く切られた髪からふわりと香る彼女を感じる嗅覚、僕だけに向けられた言葉を大切に受け取る聴覚。あらゆる感覚をフルに活用し、今在る彼女を身体中に刻み込む。その時が来ても、思い出さなくていいように。後悔しないように。



     12



 日を重ねるに連れ、優祈は目に見えて衰弱していった。だんだんと上体を起こすことすら難しくなり、口数が減り、僕の手を握ることもできなくなった。キャッチボールと言える会話はほとんどなくなり、僕が一方的にボールを投げているような時間が続いている。そんな状態でも優祈は笑顔を作り、僅かながらに相槌を打ってくれるのだ。今にも壊れそうなほど弱々しい笑顔は今の優祈の全力で、ほんの少しの相槌さえも今の彼女にとっては重労働なのかもしれない。僕がここに来て一方的に喋るせいで、彼女は余計な体力を使わされているのかもしれない。それでも、優祈は僕がそうすることを願っているように思えた。これはエゴだろうか? 都合の良い思い込みだろうか? ……そうかもしれない。

 僕は謝辞を口にする代わりに、優祈の手にそっと手を重ねる。彼女の細く冷たい指がぴくりと動いた。


「……約束……守れなくて……ごめんね」


 僕はどう返事をすれば良いのかわからなくて、「うん」と頷いた。


「……隠し事……してて……ごめんね」


「うん」


「……酷い、こと……言って……ごめんね」


「うん」


「……来てくれて……ありがとう」


「うん」


「……受け入れて……くれて……ありがとう」


「うん」


「……好きで……いてくれて……ありがとう」


「……こちらこそ」


「……大好き、だよ」


「……僕もだよ」


 その日の夜、暗い病室で、彼女は息を引き取った。



     13



「今日は来てくれてありがとうね」


 葬儀が終わり、項垂れている僕に優祈のお母さんが声をかけてくれた。娘を亡くしたばかりだというのに、その顔は晴れやかだ。


「いえ、そんな」


「あの子、病気が見つかってお医者さんに入院しろって言われても、『どうせ助かる確率が低いなら夏輝くんとのデートまでは待ってください』って泣きながら頼み込んだり、『入院してること、絶対夏輝くんに教えないでね』って言ってたくせに、私がお見舞いに言ったらあの子、必ずキミの話をしてたのよ。それだけ愛していた人が見送りに来てくれたんだから、きっとあの子も悔いなく旅立てるわ」


「そうだったんですか……」


「長生きだけが幸せとは限らないからね。あの子はあまりに短い命だったけど、キミのおかげで幸せだったと思うわ。本当に、ありがとうね」


「幸せをもらっていたのは僕の方です。こちらこそ、ありがとうございました」


 お義母さんはポケットから取り出したハンカチで目尻を軽く擦ってからカバンにしまい、入れ違いに一通の白い封筒を取り出した。差し出されたその封筒の表には、見覚えのある文字で『夏輝くんへ』と書かれていた。


「あの子から、お葬式が終わったら渡すように頼まれてたの。受け取ってあげて」


 お礼を言って受け取り、折れないよう丁寧にカバンの奥にしまった。去り際にもう一度頭を下げてから、僕は斎場を後にした。


 そして今、僕は優祈とあの約束をした場所にいる。時刻は夜だが、持ってきた携帯電灯のおかげで手元は明るい。十年前と同じように一面の夏草の上に寝そべり、頭上のラジオに耳を傾ける。十年前と違うのは、僕が大きくなったことと、隣に優祈がいないことくらいだ。

 持ってきた封筒を綺麗に開け、中に入っていた手紙を取り出した。



 夏輝くんへ


 夏輝くんに手紙を書くのは、これで二回目ですね。どちらも直接手渡せなかったのが心残りです。


 この手紙が読まれる頃には、きっと私は夏輝くんの近くにいないでしょう。だから心置きなく、正直に話します。


 まず一つ目。クリスマスイブに私は嘘吐きだと言いましたが、あれはその場しのぎの嘘ではありません。小さい頃から、夏輝くんには嘘を吐いていました。例えば十年前、一緒に流れ星を見に行きましたね。あの時の往路で、私は暗くて怖いからと言って手を差し出しましたが、あれも嘘です。ただ手を繋ぎたかったけど恥ずかしかったから、適当に理由を作ったのです。他にも元気なのに仮病を使って甘えたり、教えてもらうためにわざと宿題を忘れたり、夏輝くんには数え切れないくらいの嘘を吐いてきました。

 

 二つ目もイブの日についてです。あの時は、本当に私のことを嫌って欲しかったのです。どんな形であれ、夏輝くんの頭の中に私が存在してほしかった。もう会えないと思っていたから、例えそれが最悪の形であろうとも、完全に忘れ去られてしまう方が私にとっては恐ろしかったのです。それが私なりの、死への覚悟でした。けれど夏輝くんは、そんな私の愚かさを上回る優しさで包み込んでくれました。お陰様で、覚悟を決めたはずなのに、また死ぬことが怖くなってしまいました。まったく、責任をとってほしいです。


 最後。私は、あなたが好きです。この想いは幼い時からこの手紙を認めている今この瞬間まで、一秒たりとも欠けたことはありません。そしてこの気持ちは最期の最期まで欠けることはないと、自信を持って断言します。


 この先続いていく夏輝くんの道を、一緒に歩けないことだけが残念でなりません。ですが、過去に後悔はありません。夏輝くんのおかげで、私は本当に幸せ者でした。約束、守れなくてごめんなさい。もう会うことのできないあなたの幸せを、遠くから祈っています。


 優祈より


 手紙が終わりに近づくに連れて文字の線が細く、形が崩れている。病床の彼女にとっては、この手紙を書き切るのも大変だったのだろう。その字を見ているだけでも辛かったが、彼女が一生懸命立ち向かった残酷な現実に僕が目を逸らすわけにはいかない。最期の一文字までじっくりと目に焼き付けてから、丁寧に折りたたんで封筒に戻した。

 頭の奥底に大切に仕舞っていた記憶が間欠泉のように吹き出す。記憶の中の優祈が『そろそろだね』と微笑みかける。


「そうだね」


 記憶の彼女に相槌を打ち、明かりを消してその時を待つ。


「ねえ、優祈」


 虚空に独り語りかける。頭の中の彼女は、相変わらず笑顔で振り向いてくれる。


「……会いたいよ」


 震えた声で呟くと、真っ暗な空に一滴の雫が流れたかのような儚い光の跡がふわりと浮かんだ。その一滴を皮切りに、僕の気持ちが伝播したかのように、空が凄まじい勢いで泣き出した。空に向かって真っ直ぐに手を伸ばし、彼女の涙を拭ってあげるように何度も何度も指を動かした。自分の涙を拭うことすら忘れて、今も僕は空を宥めている。



 僕には好きな人がいた。


 


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― 新着の感想 ―
[一言]  信用している人であっても、本当のことを打ち明けるのは怖いです。自分も病気持ちだから、女性に少しだけ感情移入してしまいました。  
2020/11/07 19:56 退会済み
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