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文末表現の繰り返しはほんの少しの理解でステキなスパイスになるっていう驚嘆すべき話

 どういうわけか、こんな言葉を目にする。


 ――文末表現の繰り返しは悪である。


 あるいはこれを読んでいる人の中にも、見たことがある人、こう主張する人は、多いかもしれない。


 本当にそうだろうか。

 そうかもしれない。

 でも、私には、過度に一般化された話に思える。


 それを主張するために、具体例を用意した。

 場面はスポ根の、相棒が転校するところだ。

 見比べてみてほしい。


『負けるな。決して負けるな。

 いつか強大な敵が現れるかもしれない。

 勝てないと思う相手が現れるかもしれない。

 それでも、負けるな。

 お前を倒すのはこの俺だ。

 他の誰でもないこの俺だ。

 それまで、決して負けるなよ、相棒』


 ……文末の繰り返しの濫用である。

 気持ち悪いと思っただろうか。

 思ったかもしれない。

 それでは、次の例を見てほしい。


『負けることは許さない。決して負けないことだ。

 いつか強大な敵が現れることもあるだろう。

 勝てないと思う相手が現れるかもな。

 それでも、負けはダメだ。

 お前を倒すのはこの俺。

 他の誰でもないこの俺だから。

 それまで、決して負けるな、相棒よ』


 文末の繰り返しを無くしてみた。

 なんだか読みづらくなりませんか?

 いっそう内容が入らなくなりませんか?

 そう感じたとしてもおかしくはありません。

 なぜって、意図的に改悪しているのですから。



 そもそもの話、文末の繰り返しが悪と言うのはどこからやってきたのでしょうか。

 思うにそれは義務教育。

 小学校の作文だと思うのです。

 みなさんは、どうでしょうか。

 「です」と「でした」を、交互に使いましょう。

 そう言われたことはありませんでしたか?


『今日のご飯はカレーでした。おいしかったです。テレビはニュース番組でした。僕はクイズ番組が見たかったです』


 こんな風に。

 何が悪いか分からないですか?

 大丈夫です。合ってます。

 あなたが養ったその感覚を、大事にしてください。


 確認のため、全て「です」や「でした」に改変したパターンも見ておきましょうか。


『今日のご飯はカレーでした。おいしくいただきました。テレビはニュース番組でした。僕が見たかったのはクイズ番組でした』

『今日のご飯はカレーです。おいしいです。テレビはニュース番組です。僕はクイズ番組が見たいです』


 途端に「それで?」という印象が強くなる。

 何故でしょう? 考察してみましょう。


・今日のご飯はカレーでした。→論拠

・おいしかったです。→感想


・テレビはニュース番組でした。→論拠

・僕はクイズ番組が見たかったです。→感想


 おわかりいただけたでしょうか。

 2文の組で、主張に正統性を出しているのです。

 ポイントは……もうお分かりですね。

 「です」と「でした」の切り替えです。

 これによって文章に前後関係が生まれています。


『今日のご飯はカレーでした。おいしくいただきました。テレビはニュース番組でした。僕が見たかったのはクイズ番組でした』


 こうされると、全てが前置きに見えてきます。

 言いたいことは何なんだと聞きたくなります。

 期待感を高めるために有用な手段ではありますが、続く言葉があって初めて威力を発揮する事でしょう。

 例えるならば、序詞です。

 全ての小学生に使いこなせる代物ではありません。


『今日のご飯はカレーです。おいしいです。テレビはニュース番組です。僕はクイズ番組が見たいです』


 こうされると、根拠の無い主張に見えてきます。

 文章同士のつながりも希薄に感じます。


 ちなみにこの2文を「ます」で統一したのはわざとです。肯定しても、否定しても、この2文は正しくなるんですよね。まあ、それはさておき。



 要するに、文末の表現は意図の写像だ。

 私はそう主張したいわけです。



 主張したところで、最初の例に戻ってみましょう。


・負けるな。決して負けるな。

・負けることは許さない。決して負けないことだ。


 どちらも主張としては同じです。

 ただ、意図があって文末表現を繰り返しています。

 後半パートをご覧ください。

 文末が不統一ですね。

 結果、この2文、どこか協調性が無く、バラバラな方向を向いてしまっていませんか?


 他の文章も同じです。


・いつか強大な敵が現れることもあるだろう。

 勝てないと思う相手が現れるかもな。


 同じことを言っているのですから、文末は揃えた方が同じ方向を向いてくれます。同じ方向を向いてくれると一体感が生まれます。一体感が生まれるとメロディが生まれます。

 一体感を失えば、途端それは不快音になるだろう。


 しかし待って欲しい。

 先ほどは交互に出した方がいいと言った。

 一体どちらが正しいんだ。


 迷った時、これだという指標が欲しくなる。

 それは当たり前の事です。


 あくまで一例としてですが、私の場合を示します。


・文章が短いか、長いか


 考えてみれば当然だと思うのですが、短い文章から得られる情報量より、長い文章から得られる情報量の方が多いです。当然、短文を重ねていると物足りなさが生まれます。


『負けるな。いつか強大な敵が現れるかもしれない。

 それでも、負けるな。お前を倒すのはこの俺だ。

 それまで決して負けるなよ、相棒』


 ね? 味気ないでしょう?

 そんなとき、どうするか。

 文末を繰り返すんですよ。


『負けるな。決して負けるな。

 いつか強大な敵が現れるかもしれない。

 勝てないと思う相手が現れるかもしれない。

 それでも、負けるな。

 お前を倒すのはこの俺だ。

 他の誰でもないこの俺だ。

 それまで、決して負けるなよ、相棒』


 うん。

 程よく刺激が効いた文章になった気がする。


 だとするならば、文章が弱いときは文末を繰り返さないといけないのだろうか。いいやそんなことは無い。例えば、二つの文を組み合わせて、大味にするという手段も存在する。


『負けるな、決して。

 いつかお前の前に、強大な敵が現れるかもしれないし、勝てないと思う相手が現れるかもしれない。

 それでも、負けるな。

 お前を倒すのは、他の誰でもないこの俺だ。

 俺がお前を倒すまで、決して負けるなよ。相棒』


 算数で言えば分配法則だ。

 このように解決する方法もあるだろう。


 では、どちらの解法がより適切なのか。

 いや、日本語というのは言語学者の数だけ存在するのだから、どれが最適なんて無いはずだ。


 私が言いたいのは、文末の繰り返しは必ずしも悪ではないという事です。ただし、それが『文章の流れを考えた上で、小気味よいリズムを作る為という明確な意思を持っているならば』という前提が付きますが。


 逆に、この認識の無いまま「文末の繰り返しは避けなければ」という強迫観念に縛られているなら、それはあなたの自由な発想の妨げになっているかもしれません。実際の所、どうなのかは分かりませんが。



 ――文末表現の繰り返しは悪だ。

 いっしょくたにまとめてしまう。

 それは少し、もったいない事の気がします。


 ――作者はどんな意図があってこうしたのだろう。

 そう考えてみるのもまた一興。私は思うのです。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 読みやすい。 [気になる点] 例に出しているのは他の方が指摘しておられる通り技法としての反復表現であり、教育現場で言う文末表現の重なりとは別である。色々と思い違いがあるようだ。 もう少し整…
[良い点] 論理的に書かれており読みやすい。 [一言] 指摘というか補足というか。 作者様がなにをおっしゃりたかったかはよくわかるのですが。 このエッセイで例として挙げられているのはいわゆる「対句」と…
[良い点] 私もこれは思っていました。少数派になりそうなので、代弁いただいたみたいでありがたいです。 おっしゃる通り、文末は前後関係を生みますが、気にし過ぎてる方はその部分が意識できてなくて、特に過…
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