6 ラブソングが始まる その2
ひかりは顔を真っ赤にして、激しく動揺していた。拳を握りしめ、人目を気にせず立ち上がる。
「ど、ど、どこの馬の骨だぁー! ウチのあずを掻っ攫ってったバカヤロウは!」
「え? え? ひかり……?」
「今からその男のところ行ってギッタギタにしてやる!」
「お、落ち着いて。その人……命の恩人だから」
「恩人? そう言えって脅されてるの?」
あずみはブルブルと頭を横に振り、強めに否定していく。その誤解だけは、どうしても正史に申し訳がないと思ったのだ。絶対に解かなければならない。
「携帯壊れちゃっただけじゃなくて、この間の徹夜の疲れで熱を出しちゃって、……おまけに家の鍵もなくしちゃって。それで、その人が助けてくれたんだよ」
「はっはっは、なに言ってるのあず。さすがに人はそこまで一度にやらかさないよ……ってマジなの!?」
こくこく頷くあずみは真剣だ。嘘だと思いたいが、真剣だ。
「それは……なんというか不幸というか、全力でだらしないね」
「だよね……ダメな人だって思われちゃったよね」
「いいとこなしだからね……って、その人って大学の人?」
「違うよ。高校生」
「年下っ!?」
ひかりの目がキラキラと輝く。女子特有の、『あるかないかわからないところから掘り起こしていく恋愛センサー』が起動したのだ。名前が長すぎるので、以後『恋愛センサー』と呼ぶ。
「年下の紳士くんに介抱されて、なにもなかったの? 襲われなかったの?」
「うん。全然、むしろ目隠しするとか言ってたくらいで」
「紳士だよ! 優良物件だよ! 愛欲にまみれた大学では絶対にゲットできないラストフロンティアだよ!」
ひかりの近くを歩いていた学生の何人かがビクッと反応するが、彼女がそれに気がつくはずもない。
「で、その子、格好よかった? 可愛かった?」
「かっこよ……かわい…………」
「あっ、ごめん。人は見かけじゃないよね。中身こそだよね」
正史は思わぬ場所でディスられた。
「くたびれてるって感じだったかも」
「くびれてる? 腰が?」
「くたびれてる!」
ひかりは顎に手を当てて、「ふうん」と呟き、吟味する。くたびれている男……土日に看病してくれて、おそらく最悪の見た目であったあずみに優しくした。
「うん。その子、たぶんめっちゃいい子だね」
「私もそう思う」
「うん。なるほど、それであずは、お礼をしたいと思ってるわけだ」
「え、なんでわかったの?」
「手に持ってるやつ」
指さした先、あずみは胸にカタログギフトを抱いている。世間知らずな彼女なりに、考えていたのだろう。
「目星はついてるの?」
「ハムの詰め合わせとかかな……男の子だし」
「お歳暮か!」
「え、じゃ、じゃあ、インスタント味噌汁十種セット」
「お歳暮か!」
「ええっと……じゃあ、この、カル〇ス四種の味詰め合わせは?」
「なんで自信満々なの!? お歳暮だよそのカタログギフトそのものが!」
聞いておいてよかったと思う。二日間看病したお礼にお歳暮を渡されるなんて、なんというか、その男の子が不憫で仕方がない。
「えっとね、あず、こういう時はね……」
あずみの耳に口をよせて、そっと耳打ちする。
※
階段を登る一段一段が、変に緊張する。
正史は首を振り、自分に言い聞かせた。この間のあれは、ものすごい偶然で、天文学的確率で、夢のようなものだったのだ。そう、熱に浮かされた時に見るような、脈絡のない。
だから、今日からの日常はもう、あずみとは関係がない。わかっている。そんなことはわかっている。
なのに、心のどこかで期待している自分がいた。
恋に落ちたとかではない。断じて。看病しただけで恋に落ちるなら、世界中のナースさんは大混乱だ。正史にとって恋愛とは、相手を理想化してそれに酔うものであり、あずみのように「ザ・現実」といったような女性が相手では考えられないし。
なにより、自分のような頭の硬い人間は、もっときっちりした相手でないと合わないと思うのだ。
カツン、カツン、と一人分の足音を鳴らして、三階にたどり着く。
そこで正史は、ぽかんと口を開けた。
部屋の前に、白衣が突っ立っていたのだ。こんなアパートの廊下で。そんなふざけた格好をしている人間など、一人しかいない。
「雪村さん……?」
「あ、寺岡くんだ」
パッと笑顔を咲かせるあずみ。
その時、
とくんと、どこかが脈打った気がした。
あずみがトコトコ近づいてくる。それだけで、正史の中を巡る血液は温度を増す。
「あのねあのね、お礼なんだけど。ええっと……お礼は、私です!」
自信満々、笑顔百倍。迷うことなく、あずみは友人の助言をそのまま口にした。
しばしの静寂、正史はしっかりとその言葉の意味を考えた上で、首を傾げた。
「は?」
たぶん、あの音は幻聴だったのだろう。
まだなにも、始まっていない……はずだ。
始まってます。