4 寝るまではここにいて
着替えを終えたあずみを、どうにかキッチンの机に座らせる。ベッドに寝かせたまま食事もできればよかったのだが、男の一人暮らしにある程度の設備では無理がある。多少はつらくても、我慢してもらうしかない。
なにもいらないなら、水分だけ補給して、薬を飲ませればよかった。
だが、ダルそうに動くあずみのお腹が、くぅっと可愛く鳴いたのだ。本人も「あちゃー。朝からまともなもの食べてないから」なんて言うものだから、スープだけでも飲ませようと思い至った。
具を噛むのも疲れるだろうと、小さく刻み、煮込んでトロトロになったタマネギとかき玉だけにする。適当に冷ましてからお椀に少しよそう。
「足りなかったら言ってください。まだ残ってますから」
正史に渡されたお椀を、ぽーっとした顔で見つめるあずみ。テーブルにのせたまま手を添えて、
「あったかい……」
小さく呟くと、安心したようにため息をついた。
「いただきます」
手を合わせて、一口すする。喉がごくりと鳴って、すとんと落ちていくスープ。正史はなんとなく心配で、あずみの様子を見ていた。
しばらくの沈黙を挟んで、二口目、三口目……そしてすぐに、空になったお椀。
「おいしい……おかわりって言いたいけど、…………今は無理なのが残念」
「気に入ってもらえたなら、作ったかいがありますよ」
実に残念そうに空の器を見つめるあずみに、正史はある言葉をいいかけて、どうにか飲み込んだ。
軽率に言うようなことではないし、冷静に考えれば普通ではない。あずみだって熱で浮かされているのだし、同調して自分まで正常な判断ができなくなっている気がした。
「じゃあ、薬飲んで寝てください」
「無限に甘やかされてるよね、今」
「病気の時くらい甘やかされていいんじゃないですか?」
「病気だからかなぁ……なんとなく、君が相手だと甘やかされてもいいんじゃないかって、思っちゃうような」
「似たようなことはよく言われます」
頼りになるとか、お前になら任せられるとか。そういう系統の言葉は、あずみの言うそれとなんら変わりがないのだ。
人をダメにする天才だと、よく言われる。
「布団、使っちゃって大丈夫?」
「来客用のものを下に敷くから、問題ないです」
布団を敷けるような場所は、ベッドの横くらいにしか存在しない。つまり、どう足掻いたところであずみの近くで眠ることは避けられないわけだ。
なんというかそれは、どうしても気になってしまう事柄ではあるのだが、同じ布団で寝るわけではない。法的にも倫理的にも、ギリギリセーフのはずだと言い聞かせる。
薬を飲んだことを確認して、熱も測ってもらう。
三十九度。
「ううん……かなり高いですね」
病院に連れて行くべきなのだろうけど、明日は日曜日。どこも開いていないだろう。救急車を呼ぶのも考えたが、食事もできているから、大事にするのも違うなと思ってしまう。
鍵が見つかるか、体調が回復するまでは自分がどうにかするしかないのだろう。正史は覚悟を決めて、受け取った体温計をしまう。
「寝て、薬飲んで、寝て、もしそれでダメだったら病院に行きましょう」
「……うん」
肩を貸してベッドに横たえ、その横に自分の布団も敷く。明るさが眠りの妨げになってはいけないと、時間は早いが正史も眠ることにした。どうせ、早く起きればそのぶんやることはやれる。
暗くなった部屋というのは、どうにも奇妙な感じだった。お互いの呼吸の音がやけにはっきりと聞こえて、うるさくないのにはっきりと存在を感じる。
ドキドキしないと言えばきっと、嘘になる。だが、それはほとんどが困惑からくるものだ。ついでに、あずみの顔立ちが正史の好みと一致しているからという、ただの偶然の結果でしかない。そんなもの、真面目に取り合ってやる価値のないことだ。
目をつむって羊をかぞえ、意識を底へ落とそうとする。
だが、どれだけ経っても睡魔はやってきてくれない。本当に起きていたい授業中には大群をなしてくるくせに、眠りにつきたい時に限って、やつらは綺麗に姿を隠してしまうのだ。
「ねえ、もう寝た?」
「修学旅行のノリですか、それ」
「みたいだなぁって。……へへ」
かざごそ音を立てて、あずみはほんの少しだけ体を正史のほうへと向ける。暗さに慣れた目で、なんとなく二人は視線を交わし合った。
「ありがとうね。君がいなかったら死んでたかも」
「そうですね。可能性は否定できないです」
「やっぱり一人暮らしは大変だ……朝起きるのも自分でやらなきゃだし、料理なんてできないし、やりたいことがあったら遅くまで起きててお母さんは注意してくれないし……すごく、寂しいし」
風邪で弱り切っているからなのだろう。その声は、なにかに縋っているようでもあって、そう。正史の中で、思い当たることがあった。
捨て猫だ。
あずみを見ていると、雨に打たれた段ボールの中の子猫を見ている気分がする。助けてあげなければ、取り返しがつかなくなるのではないかという恐怖心と庇護欲が、一緒になって出てくる。
「もうすぐ寝るから……寝るまでは、近くにいてくれる?」
「いいですよ」
捨て猫に助けを求められて、無視できる正史ではない。これまでの人生で見つけた時は、責任を持って里親を見つけるまで面倒を見た。
「って、……寝てる」
まだ返事しかしていない。お話とはなんだったのか……。眠れたんならよかったけど。スッキリしないというのはある。
「まあ、寝た後も近くにはいるんだけどさ」
深い意識の底に沈んでいったあずみの、安心した表情を見ていたらどうでもよくなってきた。
そして、さっき飲み込んだ言葉を一人小さく、こぼすのだ。
「別に、元気になってからご飯食べに来てもいいんですけどね」
※
まさか実際にそうなるとは知らず、月曜日に回復したあずみを見送ったところで正史は一仕事終えたと安堵した。
どうにか学校には時間通り行けそうだ。
疲れたという思いと、奇妙な残念さを胸に隠して、正史は日常に戻っていく。
その、はずだった。