27 言っちゃった
学校が始まって、いよいよ準備も大詰めになってくる。二つ教室を使ったお化け屋敷だけあって、その量は途方もない。ギリギリまで学校で粘って、残りは家でやる。という生活がここ一週間続いていた。
「正史くん、疲れてる?」
「……そうですね、でも、なんとかなりそうです」
目の下にはくまができているが、身体はどうにか動いている。注意力が散漫になっている感じもしないし、強いて言えば多少の浮遊感があるだけだ。このくらいなら、どうにかなるだろう。
「文化祭、行ってもいい?」
「ぜひ来てください。案内しますよ」
忙しいが、それでも台所に立つのは正史のほうだ。あずみがやると言ったのだが、包丁の握り方を見た瞬間に「ストーップ! ダメ! あずみさん料理ダメ絶対!!」とストップが入る事態になったからだ。
料理自体は簡単なものになっているが、怪我されるよりはマシだった。
油を敷いたフライパンに溶き卵を二個分落とし、少し固くなったところでひっくり返す。
「ほっ――」
「おー!」
後ろで観戦していたあずみが手を叩く。正史も満足げに頷いた。綺麗な形のオムレツを作れるのは素直に嬉しい。
「っていうかこれ、本当に手抜きレシピなの? 楽できてる?」
「卵料理は基本的にだいぶ楽ですよ。火の通りが早いので」
「明日は前日準備なんだよね……大変そうだし、出前にしようよ」
「明日は、そうですね。そうしましょうか」
忙しいのも残すところ明日の前日準備だけ。その一日がとにかく大変なのだ。さすがに正史も、夕飯を作る体力は残らないだろう。
食べ終わると食器の片付けをして、あずみは早々に自分の部屋に戻っていった。
疲れているだろうから、気を遣ってくれたのだろう。
ここまで下準備はしてきたが、結局、七割以上は明日一日にかかっている。足りないものはリストアップ済みで、どこに誰を配置するかも決めている。小道具や衣装に関しても、器用な生徒が何人か持ち帰って、こうしている間にもやってくれているはずだ。
正史が今からやることは、シフトの最終チェックだ。事前調査をして仮作成をして、これが最終版。全員が参加しつつ、部活で模擬店を出すところは被らないように。
葉月も協力してくれて、他のクラスよりもスムーズに進めている気がする。
「寝るか……」
朝一で学校に行っておきたいから、作業を手早く終えて切り上げる。風呂に入って布団にくるまって、目蓋を落とした。
…………。
……………………。
「嘘だろ」
真夜中に目を覚まして、真っ暗な天井を眺めながらぼそり。
喉が痛い。頭が痛い。身体が重い。
理由はわからないが、これだけははっきりとわかる。
「風邪引いた」
しまったとは思うが、まあ、実際のところ正史一人が抜けたところで破綻するような状態でもない。焦りは少なかった。
枕元からスマホを取って、葉月にメッセージを入れておく。通知をオフにしているはずだから、夜中に送ることに抵抗はなかった。続けて颯太にも送っておく。通知で音が鳴るタイプだが、別にいいかと送りつけた。
全身の表面が熱いのに、身体の奥の方が冷えている。
「熱もあるときたか」
強いて不安があるとすれば、風邪が治らないうちに文化祭が終わることくらいか……。
「今年、祭りに恵まれないな……」
独り言を呟いて、ため息。喉が渇いたのでどうにか起き上がって、水道水を一杯。ついでにトイレに行ってからベッドに戻った。
眠りの誘いはしばらくこなかったが、なにをする気力もなくぼーっとしていた。東の空が明るみ始めたくらいで、意識はぷつりと切れた。
一人暮らしと体調不良は相性が悪い。自分でどうにかしなくてはならないのに、その自分がまったく頼りにならないからだ。病院に行きたいが、その体力はどこにもなかった。
午前中はだらだらベッドの上で過ごしたが、さすがに退屈で、午後には椅子に座ってテレビを眺め始めた。面白い番組はなく、時間を潰すことすら苦痛に感じた。
面白くても、今の状態では笑う気力もない。
鬱屈とした時間を過ごし、日は暮れていく。葉月と定期的に連絡を取り合っていたが、準備は滞りなく終わったらしい。全員を下校時刻に解散させることに成功したのは、うちのクラスだけだともあった。
明日、いけるだろうか。
文化祭は校内発表と一般公開の二日間で、明日は校内。最後のリハーサルみたいなもんで、本番は土曜日にある一般公開だ。最悪、そこまでに回復すればいい。
さすがに全部休みは、ちょっとへこむ。
「まあ、死ぬわけじゃないし……腹減った」
そういえば今日、まともな食事をしていない。ゼリー飲料を常備したのをちびちびすすってはいたが、味気なく、腹にもたまらない。
そんなことを考えていたところで、チャイムが鳴った。
相手が誰かはわかっている。まあ、今日は体調が悪いし、うつしても悪いので帰ってもらおう。そう考えて立ち上がって、ドアを開けた。
「え――正史くん!? 風邪、引いたの?」
マスクをしているし、パジャマのままなので丸わかりだ。
「ははっ、ちょっとやらかしちゃって。でも軽いので、ちょっと休めば――」
「動かないで!」
「はい?」
「確保!」
がっしりと肩を掴んで、正史の動きを止めようとするあずみ。
「え……なにしてるんですか?」
「病人は布団に戻る! はい、歩ける?」
「歩けますけど……」
背中を押される形で、布団にねじ込まれた。あっという間のできごとで、抵抗する隙もない。
「ちょっと待ってて!」
スタスタと部屋から出て行くと、すぐにあずみは戻ってきた。手には濡れたタオル。ベッド脇に近づいてくると、そっと正史の額に載せた。
「あと……できることは、」
「あの、あずみさん。大丈夫なんで、あんまり気にしないでください」
「ダメ」
「えぇ……」
これは譲らないときのダメだ。
「スポーツドリンクは買ってきて、果物、バナナとか食べやすい? とにかく、正史くんは寝たままだからね」
「……はい。了解です」
「よろしい。じゃあ、ちょっと行ってくるから」
テキパキした動きで家を出て、買い出しに向かうあずみ。
正史はほとんど呆然としてその様子を眺めていた。
「……変なの」
あずみがいたのは一瞬なのに、部屋の中はずっと静かに感じた。一日中ダラダラして、疲れなどないはずなのに、不思議と眠気も襲ってきた。
安心、していたのだ。
抗うことなく眠りに落ちて、次に目を覚ましたとき、台所のほうから明かりが差していた。
時計を確認すると、夜の十時。
「うわっ、もうこんな時間……」
眠っていた時間は四時間ほどだろうか。ベッドから起き上がろうともぞもぞしていると、立ち上がったあずみが近づいてくる。
「トイレ?」
「いや、普通に起きようと思って」
「ダメ。座るのはいいけど、立っちゃダメ」
「なんて壮絶な縛り」
「はい、水分とって」
渡されたコップには、スポーツドリンクがなみなみ注がれていた。表面張力が発動していて、危なっかしい。慌ててコップに口をつけ、ゆっくり流し込む。
「お腹は空いてる?」
「はい。……でも、」
「皆まで言わなくていいよ。大丈夫、私にも料理はできる」
「それが不安なんですが」
「これを見てもまだ、そう言えるかな?」
渡されたのはカップ春雨スープ。
「……すごく安心するのと同時に、なんか、はい、すいませんでした」
手料理を一瞬でも思い浮かべた自分が愚かだったと反省。そういえば、基本的にあずみにとっての調理方法は「お湯を入れる」のみなのだ。
正史の謝罪に気がつかなかったのか、あずみはそのまま手渡してくる。
「ありがとうございます」
ぺこりと受け取って、一口すする。温かい麺が身体の中に入っていく。春雨だけあって、優しい。スープも塩分が少なくて、いい感じだ。
ただ一つ気になることがあるとすれば、
「……あの」
「なーに?」
「いえ、俺の顔見てて、面白いのかなぁって」
「面白いよ」
「えぇ……」
それはどんなメカニズムなんだろうか――
春雨をすする。
「好きな人の顔見てるのは、楽しいよ」
「ふーん。そういうもんですか」
春雨をすする。
春雨をすする。
「!?!?!?!?!?!?」
思いっきりむせた。
「え!? はい!? え!? 今、なんて言いましたか!?」
「あ、言っちゃった」
言っちゃった言っちゃった、と顔を赤くして微笑むあずみ。
どうしよう。その仕草が、正史には今までで一番可愛らしく見えてしまった。
「ええっと……今の、なし! のほうがいいよね!? うん、そうしようそうしよう」
ぽかんとして固まった正史に、しまったと思ったのだろう。パタパタ手足を動かして、あずみは否定しようとする。首を横に振って、ちょっと泣きそうになっていた。
その姿を見て、やっと我に返った正史は口を開く。
「あの、……なしにしないでいいですよ。っていうか、なしにしてほしくないっていうか」
ガシガシと頭を掻く。まだだるさは残っているが、間違った選択をするほどボケてはいない。ただ、あまりにも恥ずかしくて、顔の半分を手で覆う。
「俺も好き、だから……いいんです」
「そ、そうなの!?」
「そうですよ。……そうに決まってるじゃないですか」
「……ええっ! どうしよう、え、どうしよう、嬉しいよ。嬉しいけど、どうしたらいいの?」
慌てふためくあずみに、緊張の糸がふっと切れてしまった。軽く笑って、正史は首を傾げる。
「俺も知りたいです。どうすればいいんですかね、これ」
普通ならスマートな言葉掛けがあったりするのだろうが、病人だし、正史だし。なにひとつとしてキザなことは思いつきそうもなかった。
「っていうか、なんで今日なんですか」
「正史くんが弱ってたから?」
「なんですかその寝込みを襲え的な発想は」
「じゃなくて、……なんかね、会った日のことを思い出しちゃって。そういえば、あの日も正史くんは廊下の真ん中で倒れてたなぁって」
「ちょっと待ってください。半端じゃない脚色がなされている気がします」
「廊下の右側だっけ?」
「歩く人に配慮してズレたとか、そういう違いじゃないですからね」
まさか忘れてはいないだろうが……忘れて、ないよな? 内心ちょっと不安である。
「あとは、思ったより元気そうだったから、安心しちゃって」
ほんのりと涙をにじませた表情に、心が溶けていく。この人がいいと、この時間がいいと、そう願える相手なのだと正史は確信した。
「明後日、文化祭回りましょう。一緒に」
「うん。楽しみにしてる」
「じゃあ、俺、寝るので」
「そうだね。じゃあ、おやすみ」
寝れるわけがない。ただ、一緒にいたらいろいろとおかしくなってしまいそうだった。