21 それでも花火は上がるから
夕刻。
祭り会場へと移動する電車の中で、正史はぐったりと手すりに寄りかかっていた。さっきからずっと遠くを見つめて、なにかと戦っている。隣のあずみは満足げに、食べたラーメンについて語っていた。
ぜんぶを食べるようなことには、ならなかった。だが、少なくとも人生で一番食べた。食べまくった。有名なところから、列の少ないところ、変わり種まで、全部で八杯ほど。
フェスという形式で、一杯ずつが少なかったことがせめてもの救いだったが、それでも後悔せずにはいられない。
あずみに無理をさせられたわけではないのだ。ただ、彼女と同じくらいは食べられるだろうと、変な意地を張ったのがよくなかった。五杯で止めておくべきだった。
ちらりと、隣で熱弁を振るう女性に目をやる。すらりとしたボディラインに、溌剌とした印象を感じさせる半袖のTシャツ、ホットパンツ。夏らしい薄手の生地を、女性らしい膨らみが押し上げていた。それが目に入って、正史は目を逸らす。
食べたぶんがどこにいっているのか、考えた自分を心で殴る。
「雪村さん……そういえば、服、買ったんですね」
「目の付け所がシャープだね」
「いえ、白衣だけの頃から知ってるので」
「ディープだ」
「そこらへんはわからないですけど」
変化はそれだけではない。髪の毛は後ろでお団子にしているし、薄くだが、本当に薄くだが、化粧もしている。
正史が次の言葉を待っていると、あずみはどこか恥ずかしげに頬をかく。
「変わらなきゃって、思ったから……ちょっとは、ね」
「……、そ、そうですか」
気の利いた一言は出てこなくて、ただ、電車の外を流れる風景に目をやった。車両は橋を渡り、川を越える。花火大会の会場になっている川だ。既にたくさんの人がいて、出店も並んでいた。
「すごい人だね。ワクワクしてきた。テラくんも?」
無邪気に窓に顔を押し当てるあずみに、正史は柔らかく笑む。
「そうですね。ワクワクしてます」
「晴れてよかったね。今日は絶好の花火日和だよ」
「ほんとに……」
晴れてよかったと思う。来ることはないと思っていたこの場所に、二人で来られてよかったと、正史は思う。胸がとくんと鳴った、その音は聞かなかったことにする。
「いきたいお店ある?」
「そうですね、ちょっと食べ物系はパスしようかな」
「じゃあ射的とか、どう?」
「雪村さんって、そういうの好きなんですか?」
「わかんない!」
にこっと返されて、正史は思わず「はぁ?」と気の抜けた感じになってしまう。
「わかんないから、今日、すっごく楽しみなんだよ」
「……っ」
熱くなった顔を隠すように、正史は手で汗を拭うフリをした。
「どうしたの?」
「ちょっとは自覚してください……」
「なにを?」
ずいっと顔を寄せるあずみ。
「そういうとこ、そういうとこですよ?」
言う気はないし、だからといって自分で気がつく様子もないし、正史は一人で羞恥心に襲われて動けなくなる。どうにかそれらを振り払っているうちに、最寄りの駅に到着した。
改札を抜ける人だかりは、さっきまでのフェスを遥にしのぐ勢いだった。整理してくれる係員がいるからどうにか秩序が保たれているが、彼らがいなかったらと思うとぞっとする。
どうにかかき分けて、端の方で合流する。
「テラくん、大丈夫?」
「なんとか、雪村さんは?」
「平気だけど、……すごいね」
「ちょっと迂回しましょっか。近いルートだと、混みすぎてるので」
こういうことも想定して、周辺の地図は把握している。
「さすがテラくん。頼りになる」
「まあ、誘ったのは俺なんで。これくらいは」
照れ隠しにそっぽを向いて、歩き始める。後ろをぴったりとついてくるその距離感がむず痒い。会話が途切れたら耐えられなくなって、口を開く。それにあずみが笑って返して、次へ次へと、話題を繋げていく。
たどたどしく、いっぱいいっぱいになりながら、それでもその時間は、充実していた。
河川敷を使った祭り会場に到着すると、揃って目を丸くする。
「うおおお!」
「うおおお!」
目の前に広がった光景はとにかくごちゃごちゃしていて、音と人と光と熱と、やけに甘ったるい匂いでごった返していた。ゆっくりと宵闇に沈んでいく中を、浴衣姿や家族連れの人々が歩いている。
「祭りだ」
「祭りだね。日本の祭りだよ」
なにはともあれまずは屋台だと、ずらりと並んだ出店のアーチを歩く。
「かき氷! チョコバナナ! リンゴ飴! 綿あめ! 今川焼き!」
「射的もありますね。スーパーボール掬いとか、懐かしいですね」
「どこから行く!?」
「そうですね。じゃあ、最初は……っと」
ポケットのスマホが震えて、正史は言葉に詰まる。画面には「三輪颯太」の文字。なんてタイミングで掛けてくるんだ。
「出てあげたら?」
「あ、すいません」
画面をスワイプして、耳に当てる。
『後ろ、後ろ』
短く言われた言葉に反応して振り返ると、雑踏の向こう側に見慣れた顔が二つ。どうやら葉月と颯太は、二人でやってきたらしい。颯太から受話器を取り上げて、
『美人じゃない。よかったわね、寺岡くん』
「氷室……合流するか?」
『生憎だけど、馬に蹴られたくないからお断りするわ』
「あのな、」
といんでもない誤解をしていそうなので、訂正を入れようとする正史。だが、その前に電話は切られてしまう。
「友達?」
「みたいななにかです……なんだあれ」
離れたところではあるが、葉月が颯太の耳を引っ張っているのが見えた。大いに人目を引いている。誰がどう見てもバカップルだ。
「まあ、あっちはいいか。じゃあ、まずは――」
視線を戻した。あずみの手には、リンゴ飴が二つ握られていた。
「……ええと?」
「お一つどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
まだお腹いっぱいだけど、……とは口に出さず、受け取ったのを舐める。うまい……けど、なんだろう。この歳になって食べるものではない気も……。
いや。
「うん。見た目良し、味よしだね」
幸せそうに堪能している女子大生を見ていたら、どうでもよくなってきて、素直に楽しむことにした。
「いいもんですね。こういうのも」
ぷらぷら歩きながら、まったりと時間を潰す。ゆっくりと近づいてくる打ち上げの時間を楽しむように。
「ね、ね、ラムネの瓶にビー玉落とすとさ、絶対ブシャーってなるよね?」
そう言ったあずみの手には二本のラムネ瓶が握られていて。
「射的の一等賞は落とせないけど、お菓子の山は崩せるんだよ!」
二丁の銃の片方を手渡され、
「金魚はね……飼えないからごめんね」
二人並んで後ろから金魚掬いを観察して。
気がついたら夢中になって、時間はあっという間に過ぎてしまった。午後七時。ざわついていた熱がほんのりと冷めてくる頃合いに、アナウンスが流れ、花火の準備が始まっていく。
人の流れは屋台から、暗闇へ。より鮮明に夜空の大輪を拝もうと移ろっていく。
その時間帯になると、邪魔にならないようにと屋台の光は小さくなる。どうせ売り上げも期待できないから、ということと、屋台の人も花火を見たいから、という理由で。
正史は人混みが好きな方ではないが、どうせなら正面から見たい。ということで、競争率の高い場所を選んだ。持ってきたビニールシートを広げて、辛うじて手に入れたスペースを確保する。
「……ん、ちょっとお手洗い行きたいかも。場所わかる?」
「ええっと、さっきの屋台のほうです」
「そっか。じゃあ、場所見といてくれる?」
「わかりました。気をつけて」
「んー」
人の間を縫って見えなくなる背中。まだ打ち上げには少し時間があるし、大丈夫だろうと正史は一息つく。
なんというか、現実感がない。今日という一日が、ふわふわしていて、夢のような。目が覚めて、ベッドの上でしたみたいなオチになってしまいそうな。そんな予感がしてしかたがなかったのだ。
だけど、夢じゃない。
現実なのだと、息を吸えばわかる。肌を撫でる温度が、耳に届く人の声が、この場所を意識させる。
この感じを、なんと言えばいいのだろう。どうやって形にすればいいのだろう。名前のない、けれど大事な感情が心の真ん中にあって、それは日に日に大きくなって。
だけど、今じゃないのだと思う。
変わることを、望んでいない。これでいい。ここがいいと信じているから。
幸福に満たされたまま、ぼんやりと待っていると。
最初の花火が、空に打ち上げられた。
正史の隣に、あずみはいない。
三発目が打ち上がったところで、おかしい、と頭で警鐘が鳴った。帰ってこない。戻ってこないのだ。いつまで経っても、あずみが帰ってこない。
そうこうしている間に、また一発、三発同時、夜空に特大の色彩が咲き誇る。遅れて、心臓を打つ爆音。観客の嬉しそうな叫び声。余韻の火花が燃え尽きて、またすぐに、次。
トイレが混んでいるのか、迷ったか。それとも、――なにかトラブルに巻き込まれているのか。
そう思うといてもたってもいられなくなって、けれどどうにか深呼吸。落ち着いて、正史はスマホから電話を掛けた。この爆音の中で会話はできないが、繋がれば、取りあえずは安心できる。
だが、バイブの音は、すぐ横。あずみが置いていったバッグの中からした。
「――――っ!」
「正史!」
声がして、すぐに主は駆けつける。颯太と葉月だ。二人とも状況を悟っているらしく、慌てた顔をしている。
「ここは俺たちがいるから、お前、探してこい!」
「わかったありがとな!」
姿勢を低くして人の塊を抜けて、あずみの姿を求める。だが、暗い上に数が多い。それらしい服装なんていくらでもいて、その中から一人を見つけるのは困難だ。
トイレのあるほうを目指した。彼女が辿ったであろう道を通れば、どこかですれ違うはずだと思って進んだ。たどり着いた場所には、案の定長蛇の列があった。その中に、あずみの姿はない。仮設トイレの中にいるのかもしれないと、しばらく待ったが出ては来なかった。
屋台のところを探した。当然のように、どこにも姿は見えなかった。
一度シートのところに戻った。颯太は来ていないと首を振った。
探して、探して、探し続けて。
そしてやっと、人混みから少し離れたところにあずみの姿を見つけた。
「雪村さ――」
泣いていた。
ぼんやりと空を見上げて、あずみは大きな瞳から涙をこぼしていた。
あれだけ苦しそうにしていた、大雨の日。熱を出して、初めて出会った日にも泣かなかったあずみが、ぽろぽろと。自分が泣いていることにも気がつかないように、ただ、空を見上げて。
ドンッ、と一際大きな音が鼓膜に響いた。
最後の花火が咲いて、散ったのだと知った。
「あ、……テラくん」
「……やっと見つけましたよ」
「ごめんね。どこか、わからなくなっちゃって」
「まあ、この人ですからね」
まだ熱に浮かされた人の群れが、今だけは憎たらしくて、正史が浮かべる笑みは曖昧になる。
「ごめんね。私、いつもこんなので……」
しおれた彼女が見ていられなくて、名前を絞り出す。
「雪村さん……」
「せっかく楽しみにしてたのに! なのにっ!」
「雪村さん!」
気がついたら、叫んでいた。熱が移ったのかもしれない。とにかく、叫ばずにはいられなかった。湧き上がる激情を抑えるすべなど、正史は知らなかった。
顔が熱い。体が熱い。心が、沸騰して止められない。
「俺、今日、すっごい楽しかったです。来てよかったって思います。誘って、オッケーしてくれて、嬉しかったんです。雪村さんっていっつも楽しそうだから、なんか、俺まで楽しくなれて……、だから、そんな顔しないでください」
「でも、花火が……」
悲しい顔を見るのが耐えられなくて、どうしようもなくて、後悔の言葉を遮りたくて。
暗い記憶でこの夏が終わらないように、少年は未来に手を伸ばした。
「来年!」
「え……?」
「来年、また、一緒に来ましょう。そしたら、今度は気をつけて、絶対、絶対にはぐれないようにするから! 俺がもっとしっかりするから」
「来年、も? ……いいの?」
不安と期待が混ざった、あずみの視線。
「誘いますよ。受験とかあるけど、その日だけは空けますから」
息を吸った。冷たい空気が肺に入って、少しだけ正史のことを冷静にする。
「だから、大丈夫なんです」
あずみは何度も何度もまばたきをして、ごしごしと手で涙を拭う。
それから、まだ震えた声で、
「じゃあ、……来年は浴衣着てみたいな」
笑った顔が、どんな花火よりも綺麗に見えたから。
正史は俯いてしまって、
あずみが向ける笑みの、その奥に芽生えた感情に気がつけない。
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