10,5 外堀を埋める
講義室の手前で合流した二人は、手を挙げて挨拶を交わす。
「おっはー、あず」
「おはー、ひかりん」
「ん? 今日はひかりんの日ってことは、さてはさては機嫌がいいな?」
体をくねくねさせながら、ひかりは体をすり寄せる。ネコみたいな仕草をさして気にするでもなく、あずみはこくこくと頷く。
「テラくんに恩返しができそうだからかな」
「テラくん……あ、あの高校生くん?」
思い当たり、ひかりは目を丸くする。
「へー。まさか、あずのこと貰ってくれるとは……やるな、現役高校生」
「それは却下だったけど」
「あー、常識人だったかー」
ひかりは額に手を当てて、天井を見上げる。思いっきりあずみをディスっているのだが、当人は気づいている様子もない。きょとんと首を傾げているだけだ。
「で、なにをあげることにしたの? 指輪?」
「指輪?」
「あれ、伝わらなかった?」
「指輪って、プロポーズの時に渡すものだよね?」
意味が伝わった上で意図が通じなかったらしい。
「それにひかり、指輪はあげるものじゃなくて、もらうものだよ」
「乙女な願望!」
ひかりは胸がきゅんきゅんするのを抑えられなかった。そういうことに興味がなさそうだったあずみが、まさか胸にそんな乙女を秘めていたとは。
「へえ、へえええ。あずにも結婚願望とかあるんだ、へえー」
「ある。あるよ、それくらい」
「ど、どんな人がいいの? 背は? 年は? 性格は? 個人的には真面目なヘタレ紳士の年下とかおすすめだけど!?」
正史はいもしないところで、面識もない人に猛プッシュされた。
「うーん」
あずみは顎に指を当て、しばし考える。
「だらしない人がいいかなぁ。ちゃんとしてると申し訳ないし……気を抜けないよね」
「あちゃー」
これはダメだ、とひかりはうなだれる。この子は恋愛幼稚園生だと。まるで現実を理解できていない。
大学生以上の恋愛は戦争だ。就活と同じだ。少しでもいい物件を、将来性と安心感という指標を持って選び抜くものだ。ぽわぽわした理想ではなく、目の前に転がった原石を磨くことが大切なのだ。
(これは、あれだ……私が外堀を埋めるしかないな! そうだな! うん、仕方がない!)
ひかりは世界一下世話な決意をした。
「それで、なにを送るの?」
「なにを送るかを一緒に考えるんだよ、ひかりん」
「なるほどね! わかった!」
一般人には難解な構文でも、ひかりには理解できる。だてに親友を名乗ってはいない。
「じゃあ、こんなのはどうかな……!」
これが、パーティーをしようとあずみが言い出した原因である。ひいては、朝と夜を一緒に過ごすという生活リズムに繋がるまでが、西条ひかりという女の手の平の上であることを。
この時はまだ、誰も知らない。
※
西条ひかりは、いつも雪村あずみのことを心配している。
出会ったその日、声を掛けたのは、白衣を着たあずみが一人ぽつんと廊下で突っ立っていたからだった。どうしてそんな状態になっていたのかはわからない。二年生になって、大学のことをある程度知っていた段階だから、迷子ではなかったのだろう。
ただ、突っ立っていた。
だから彼女は目立ち、周りの人は声を掛けずに通り過ぎていく。不思議そうにあずみを見る視線は、しかしすぐに談笑へと戻っていく。
心配だ、と思った。
声を掛けてみればなんてことはなく、変人ではあったが素直で明るい、いい子だった。だから、元気が売りのひかりと馬が合って、一緒にいることが増えた。サークル仲間といるよりも、純粋な気持ちでいることができた。
だけど、自分ではないのだろうなと思う。
きっとあの日、あずみが立ち尽くした理由を見つけて――仮に見つけたとしても、埋められるのは自分ではないのだろうと。
あずみは自分のことに無頓着だ。この言い方はもしかすると、正しい表現ではないのかもしれない。何もかもがどうでもいいというわけではないのだろう。楽しいことは好きだし、ひかりとは一緒にいたいと言う。それは本心なのだろう。
だらしがないと言えばだらしがないが、毎日のように着ている白衣は何着も着回しているし、同じデザインのブラウスとスカートも、常に清潔にしている。部屋だって、壊滅的に汚いわけではない。
だが、自分を大事にする方法を知らないのだ。
ひかりはもどかしい。自分ではなにもできないことが。してやれないことが。
なにより、こんなに雪村あずみという人間を好きなのに、そこまで踏み込む勇気のでないことが。
だから、西条ひかりは願いをたくす。まだ見たことのない少年に。どうか親友の隣にいてくれと。強く、強く願い――
その真剣な願いと同じくらい強烈なノリを原動力に、
内心では大興奮しながら、せっせと外堀を埋める。
次回 夏休み編スタート