救国の魔女の不安と安心
一夜明けても私の頭の中は混乱したままだ。二度寝、三度寝をしてからのんびり支度をして家を出て、できる限り遠回りをして兵士の詰め所に向かっている。昨日アレスが帰った後、書類仕事を再開するも進まなくて、今日も仕事を進めるために詰め所に行かなくてはならないことが辛い。
アレスが詰め所にやってくるかどうかはわからないけれど、会う可能性が少しでもあると思うと行きにくい。いったいどんな顔をしてアレスに会えばいいのだろう。
もう3年の付き合いになるけれど、アレスの考えていることがこんなにもわからないのはこれが初めてだ。私を臭い伯爵から救うために自分を婚約者として隠れ蓑に、と申し出てくれたのだと思うけれど、尋ねてもはぐらかされてしまったような気がする。
アレスが「よく知りもしねえ男にお前を奪われるのは嫌だ」と言った時の見たこともないような真剣な表情が忘れられない。それを思い出すだけで何かが変わってしまいそうで、胸がざわざわとして逃げ出したくなってしまうのだ。
「あら、救国の魔女様じゃない?」
そんなことを考えながら歩いていると、通りで立ち話をしている女性がひそひそと話す声が耳に入ってきて私は顔をうつむける。遠回りをしている内に人通りの多い場所に来てしまっていたようだった。
誰かが私を「救国の魔女です!」と発表したわけでもないのに、どこから噂が回ったのかこうして注目されることが増えてしまった。時には直接話しかけて来る人もいて、人見知りの私はどう反応したものか困ってしまう。
私はうつむいたまま歩調を速める。アレスには顔を合わせにくいけれど、あまり外にいるのも得策ではなさそうだ。
極力顔を上げないようにしながら歩いていると、ふと気になる臭いが漂ってくる。身体が拒否を示すようなこの臭いは──
顔を上げると、すぐ近くにあの臭い伯爵が仁王立ちをして待ち構えていた。周りをよく見て歩いていれば回避できたかもしれないけれど、もう目が合ってしまったので逃げられない。
ことごとく裏目に出る行動に気落ちしていると、臭い伯爵が口を開いた。
「ライラ、昨日のあれは本当なのかね?」
昨日のあれ、とはアレスとのことだろう。どう答えるべきか逡巡する。
正直に答えればあれは嘘だ。だけどそうしたら臭い伯爵はまた私に婚約を迫るのだろう。アレスは自分を隠れ蓑にと言ってくれたけれど、本当に甘えていいものなのか……。
そんな迷いを鼻からやってくる強烈な臭いが遮断する。鼻で息をしないように気をつけながら私は答えた。
「本当です」
(ごめん、アレス!!!)
この臭いには耐えられなかった。アレスに迷惑をかけることになるかもしれないくても、私はこの臭い伯爵との関係を絶ちたい。
「そう、か……」
臭い伯爵は顔色を失って呆然としている。
「せっかくいち早く救国の魔女に目をつけたと思ったのに……相手はいないという情報は間違っていたのか……。顔も悪くないしいい相手を見つけたのにな……」
ぶつぶつと独り言を言っている臭い伯爵がちょっとかわいそうになる。でもこの拒絶反応には耐えられなかった。
「でも婚約中ならまだチャンスが……」
「すみませんが急ぎますので! さようなら!」
私は話をぶった切って走り出す。後ろから臭い伯爵が何か言っていたような気がするが構っていられない。私は新鮮な空気を吸いながら兵士の詰め所まで一目散にかけていった。
「はあ、はぁ……」
走り続けて詰め所に駆け込んで、扉の前で少しだけ息を整えてから部屋に入る。椅子に座っていた人影がゆっくりと振り返って──
「ライラ、遅いじゃねえか。昨日ほとんど書類進めずに帰ったろ?」
いつもと変わった様子の見られないアレスが私に笑顔を向けた。
「しかもざっと見た感じ間違いだらけだったぞ? 計算だけじゃなくて文字まで間違えて……ライラ?」
扉の前で呆然と立ち尽くす私の元へアレスが歩いてくる。その表情には僅かに焦りが見えた。
「お前大丈夫か? まさか朝からあの臭い伯爵に追い回されたか?」
心配そうに尋ねられて私は首を振って否定する。会いはしたけれど追い回されてはいない。それもすべてアレスのおかげだ。
「じゃあどうした?」
私の前までやってきたアレスは私の両肩に手を置いて心配そうに覗き込んでくる。そんなアレスを見ているとわけもなく泣きそうになってしまう。
「安心した……のかも」
何か答えなければとひねり出したのはそれだ。アレスとの関係が変わってしまうんじゃないかと不安で、知らない人が私のことを知っているのも怖くて、臭い伯爵に迫られるのも嫌だった。
そんな恐怖が重なっていたことをアレスの顔を見て初めて自覚した。それらはアレスの顔を見ていると溶かされていく感じがする。
「安心?」
「なんでだろうね?」
「お前なあ……」
質問に質問で返すとアレスは困ったような顔をしながらも表情を緩めた。私もようやく落ち着いて息をすることができる。
「ねえアレス。温かいお茶が飲みたいな」
「はいはい。わかったよ」
アレスは深く追求せずに私の頭をポンッと撫でるとお湯を沸かしに行く。いろいろ悩んでいたことが軽くなった気がして、私は「よーし! 今日も頑張るぞ!」と腕を回しながら机に向かった。