救国の魔女と仮婚約
「くっせーな、あいつ」
私はアレスのいつもと変わらない口調に意識を戻された。アレスはさっきまで私の肩を抱いていたはずなのに、いつの間にか離れて窓を開け放っているところだ。
「鼻がひん曲がるかと思ったぜ。なあ?」
そう同意を求められても困る。だって私は今あの伯爵の臭さについて話している場合ではない。
「アレス。えっと、さっきのは……」
聞きたいことは山程あるはずなのに何から手を付けていいかわからない。立ち尽くしていると、アレスが顎でソファを指して「まあ座れ」と目で言った。
「俺が辺境伯だって話だろ? 別に隠してたつもりじゃなかったんだけどな」
私がソファに腰を落ち着けるとアレスはすぐに口火を切る。どちらかというと結婚の話の方が気になっていたのだけれど、辺境伯についても気になっているのは事実だったので聞くことにした。
「俺はウォルカっていう王都から北西に5日程行ったところの領地の統治を任されているんだ」
「それは戦争の功績で与えられた領地ではなくて?」
「違う。ウォルカはアーノルド家が長らく統治する領地だ」
「知らなかった……言ってくれたらよかったのに」
アレスとは3年の付き合いになるのに、そんな大事なことを教えてくれていなかったなんてショックだ。心情が顔に出たのだろう、アレスが苦笑する。
「変に気を遣われるのも嫌だったからな」
さっきは「隠してたつもりはなかった」って言ったのに、やっぱり意識して隠していたんだ。ついむくれてしまうけれど、もしアレスが辺境伯だと知っていたらこんなに気さくな仲にはなれなかっただろうとも思う。私は孤児で、貴族の方に気軽な口調で話すなんて恐れ多いからだ。
今更丁寧な口調で喋るのも変な感じなので、私は今まで通りの口調で尋ねる。
「じゃあさっき当主って言ってたのは本当?」
「ああ」
「でもアレスは3年も戦争に参加していたでしょう? 当主であるアレスがそんなに長い間領地を空けて大丈夫なの?」
戦争に参加したのは元々が兵士の人間以外だとほとんどは平民か、貴族の嫡男以外のはずだ。アレスは貴族の当主なのにここにいる理由がわからなかった。
「ああ、えーっとな。本当は俺の代わりに弟が徴兵されるはずだったんだが、あいつには戦の才能がない。死にに行くようなものだと思って俺が代わりに」
「そんな滅茶苦茶な……」
常識はずれだということは明らかだ。だけどアレスならそれもあり得るかも知れない、と納得する自分もいた。
「あと1月くらい後に故郷に帰るつもりではいるんだ。その前には伝えようと思ってたんだけどな」
アレスは申し訳なさそうに言い訳のようなことを口にしたけれど、私のモヤモヤはなくなっている。貴族であってもアレスはアレスで、培ってきた絆は変わらないからだ。
「それでライラ。俺と一緒にウォルカに来ないか?」
「酒でも飲むか?」みたいなノリでアレスは私を領地に誘ってくれたけれど、気軽に頷いていいものではないことは私にもわかった。尋ねにくいことだけれど、一つ息を吐いて勇気を出して聞いてみる。
「領地に行くって……さっきの結婚の話は私をあの臭……伯爵様から助けてくれるための嘘でしょう?」
だいぶ冷静さを取り戻した私が考えて出した結論だ。アレスは面倒見が良くてお人好しなので、私を助けるために咄嗟に嘘をついたとしか思えなかった。
自信を持って出した答えだったのに、アレスは困ったような笑顔を浮かべて肩を竦める。
「まあそういうことになる、か。ライラは俺と婚約するのは嫌か?」
私達が住んでいるキュリア王国は一度結婚したら二度と離れることはできないという決まりがある。そのため結婚前には婚約をするのが決まりで、婚約後1年が経過した後に正式に結婚できるようになる。婚約を破棄することはできるので、その間に見定めよ、ということなのだろう。
キュリア王国には自由恋愛が認められている。政略結婚も存在するが、当人達が拒否すればその意思が優先されることが多い。だから辺境伯であるアレスも結婚相手を自由に選ぶ権利はあるのだけど──
「どうして突然そうなるの?」
疑問が口をついて出た。当たり前の疑問だと思う。
私とアレスは戦争中、同じ小隊で戦ってきた仲間で苦楽を共にした絆がある。だけどそれと恋愛とは別の話だ。
私達は今まで一度もそういったやり取りはない。それなのにここにきて突然、私をかばうためについた嘘のような結婚を現実にしようとするアレスの意図がいまいちわからなかった。
「ライラはあの臭い伯爵と結婚したいのか?」
「そんなわけないじゃない!」
即答する。あんな臭い男と一緒に暮らして健康が保てる自信はない。
「だよなあ。俺でも嫌だわ」
私はひどく混乱しているのに、アレスはいつもと変わらない様子で飄々としている。その温度差がだんだんと腹立たしく思えてきて、私は身を乗り出して言う。
「アレスが助けてくれたことは感謝してる。だけど私とアレスはそういう仲じゃないでしょ? なのに──」
「俺と一緒になるのは嫌か?」
アレスの表情がきゅっと引き締まって真面目な顔で聞かれる。思わずドキリとして固まってしまう。
「ライラが魔術師として認められたこと、俺は嬉しく思ってる。だけどそれによってよく知りもしねえ男にお前を奪われるのは嫌だ」
変に熱のこもった瞳でそんなことを言われたら勘違いしそうになる。
──アレスが私を好きだと。
「なあライラ。あんな男より俺のがいいだろ? 違うか?」
頭が感じたことのない熱を持って思考を停止していく。臭い伯爵とアレスを比べるまでもない。だからと言って、アレスのことを今までそんな風に見たことがなくて……
「……まあいい。俺が王都を離れるまであと1ヶ月あるからな」
王都を離れるという言葉に胸がチクリと痛む。いろいろな情報が入ってきて混乱しているけれど、アレスが領地に戻らなければならないことだけは確実だ。アレスと離れ離れになるだなんて考えてもみなかった。
「とりあえずそれまで俺を隠れ蓑にしておけ。俺がいる間は今まで通りライラを守ってやるから」
「婚約するって嘘つくの?」
「嘘じゃねえよ。実際に婚約しちまえばいいだろ?」
「でもそれは……!」
「嫌だったら婚約なんて破棄すりゃいいだろ。婚約破棄なんてよくあることだ」
「そう、かもしれないけど……」
「それじゃあ何だ? ライラはあの男と婚約したいのか?」
「……ううん」
「じゃあいいだろ。俺も他に婚約の予定はねえから」
「だけど……っ!」
アレスと本当に結婚するわけじゃないのに嘘をつくのはアレスに迷惑がかかる。アレスとは仲間だけれど、そこまでしてもらうのは申し訳ない。
そう思って断ろうとすると、なぜだかアレスが悲しそうな顔をするので言葉に詰まってしまった。
「俺がそうしたいんだ。いいな? もう決めたからな」
「…………」
アレスの静かな言葉から揺るがない意思を感じた。アレスは人がいいが意外と頑固なところがある。一度決めたらなかなか覆そうとしないと私もわかっていた。
私だって臭い伯爵のしつこさに困っているのも事実だ。ここ最近私の前に現れ続けていて、私が住んでいる魔術師協会の寮の前で待たれていた時の恐怖を思い出すと身体が震えてしまいそうになる。
アレスは意思の強い瞳で私を見つめ続けていた。アレスがどうしてそこまで言ってくれるのか、私にはわからない。
私のことが好きなのかもしれない、なんて変な勘違いをしそうになるけれど、今まで3年間一度もそんな素振りは見せたことがなかった。お人好しなので、私のことを放っておけないのだと思うけれど──。
考えすぎて頭の中がパンクしそうだ。だけどアレスは答えを今欲していて、私を逃してはくれなさそうだ。どこか悲しげな顔を見ていたら、結局私は頷いていた。
「アレスが、いいなら」
私はアレスに甘えることにしてしまう。実際あの臭い伯爵とはもう近づきたくもないのだ。たとえ一時しのぎにしか過ぎなくとも、離れられるなら。そしてそれをアレスも望むなら。
「じゃあ決まりだな」
話が決まったのに、アレスはどこか難しい顔をしたままで立ち上がった。
「茶、ご馳走様。俺はもう帰る」
「え……」
困惑する私を置いてアレスは手早く帰り支度を済ませてしまう。
「ライラも今日はなるべく早く帰れ。じゃあな」
そうしてさっさと部屋を出ていってしまったアレスを、私はただ見送ることしかできなかった。