救国の魔女は自覚する
走って、走って、逃げて。人混みに紛れてようやく私は走るのをやめた。だけど家には帰りたくなくてあてもなく歩く。
ここ最近何人かの男性に求婚されてきたけれど、その中でも動揺しているという自覚があった。友人だと思っていたディアンからの突然の告白。どう気持ちの整理をつけたらいいかもわからずに呆然とする。
戦争中だと言うのにバカな話で笑い合っていたディアン。いつから私を想ってくれていたのだろう? 私は気がつかずに友として接し続けてきた。
ディアンに想いを告げられても私はアレスと婚約していて、数日後にはウォルカへと旅立つ。だからこそこのままにしておくわけにはいかない。私は今でも大切な友人だと思っているのだから。
そんなことを考えながら歩いていると次第に人の目が気になりはじめた。私を救国の魔女だと知る者からの視線には慣れてきたつもりだったけれど、今ばかりは煩わしい。
(帰ろう……)
まだ頭の中はごちゃごちゃで、一人になったら落ち込んでしまいそうだ。それでも視線には耐えられそうにもなくて、私は足を自宅へと向けて歩き始めた。
(アレスに会いたいな)
ディアンに告白されたことを言うのは気まずいので隠しておくつもりだけれど、ただ会いたいと思う。アレスに会って、笑ってもらえたら気が楽になると思うのに──
「ライラ!」
アレスの声の幻聴が聞こえるなんて重症だ。そんなことを思って前を向くと人混みの中に目立つ赤髪を見つける。まさか……と思うと、すぐにその顔が現れた。
「ライラ!」
幻ではなくて本当にアレスだ。アレスは私の元までかけてきて優しく肩を掴む。
「大丈夫か? 家に行ったけどいなかったから心配したぞ」
「あ……」
そうだった。忘れていたけれど、今日はアレスと夕食を食べる約束をしていたんだ。そんな大切な約束を忘れるほど動揺していたことに驚く。それと同時に肩から伝わる優しい熱に目の前が滲んでしまう。
「……ライラ?」
アレスの気遣うような声が聞こえるけれどもう顔は見られない。外だというのに安心した途端気が緩んでしまうなんて子供みたいだ。俯く私の手をアレスが取る。
「とりあえず俺の家の方が近いから行くぞ」
前を見ることができない私の手を取ってアレスが誘導してくれた。今は何も聞かずにいてくれる温かさが優しくてさらなる涙が溢れてきてしまう。私はアレスに誘われるまま歩いた。
コトリ、と目の前のテーブルにカップが置かれる。カップの中からは温かな湯気がのぼっていた。
「……ありがと」
アレスの家についてソファに座って気持ちを落ち着けている間に、アレスが温かい飲み物を淹れてくれたようだ。
アレスが私の隣に座ってぎしっと身体が傾く。アレスの顔を見たら安心して思わず泣いてしまったけれど、理由は言いにくい。
何も言えずに黙ってしまっていると、アレスが先に口を開いた。
「そういえばディアンが王都に戻ってきたぞ」
「えっ……?」
アレスからディアンの名前が出ると思わなくて驚くと、アレスが困ったように笑う。
「朝、挨拶に来たからな。……その様子だとライラも会ったか」
「う、ん……」
どうしてだろう。アレスは何でもお見通しのように見える。嘘をつくのも躊躇われるので肯定すると、優しい手が私の頭を撫でた。温かい熱にホッとする。
「ライラとディアンは仲が良かったからな。俺は恨まれてるかもしれないが」
「?」
「ああいや、なんでもない。ライラは自分が納得できる道を探すといい。俺との婚約は元々そういう約束だからな」
「え……?」
回りくどい言い方に理解が追いつかない。だけどアレスが言った最後の言葉に胸がざわつくのを感じる。
「それって……」
「ライラが選んだ先に俺が必要ないのなら、婚約は破棄してもいいってことだ」
「っ……!!」
アレスの言葉に身体が凍りつく。せっかく婚約できたばかりだというのに、もう婚約破棄の話だなんて。
「アレスは……それで、いいの?」
気がつけばそんなことを尋ねていた。アレスは変わらず優しい瞳のまま答える。
「ライラが幸せになれるなら」
「……っ」
温かくなったはずの身体は一瞬で冷え切った。苦しくて身の内が引き裂かれそうだ。
「なんで……」
言葉と共に収まっていたはずの涙がポロリと溢れ出る。アレスの顔はもう滲んで見えなかった。
「帰る!」
私はそう言うとアレスの部屋から駆け出す。
「ライラ!?」
後ろからアレスの呼び止める声が聞こえたけれど構わず走る。もしアレスが追いかけてきたら魔術を使ってでも逃げ切ろうと思っていた。
(なんで……)
今日は散々な日だ。一日に二度も逃げることになるなんて。それもまさかアレスからも逃げたくなるなんて思ってもみなかった。
結局アレスは追いかけてこないまま、私は寮の自室に駆け込んだ。ドアを勢いよく閉めるとその場にずるずると座り込む。
アレスが「婚約破棄」という言葉を口にしたことを思い出すと苦しくてたまらない。アレスにとって私はそのくらいの存在なんだろうか。
「わかってたはずなのに……」
婚約したのは私を助けるためだ。だからいずれ婚約は解消するとわかっていたはずなのに、いざ突きつけられると愚かにもそのことを忘れていたことを思い知る。
ディアンに告白されて動揺していた気持ちが、アレスに会って落ち着いたと思ったのに今はそれ以上に辛くてたまらない。
私はそっと自分の頭に触れる。アレスに頭を撫でられると落ち着く。手を繋いだりキスされそうになったこともあって、その度に心が動かされてきた。
「……あれ?」
今日ディアンにキスされそうになった時は反射的に拒否した。だけどアレスに同じことをされそうになった時は受け入れたいと思った。身を引かれて残念にすら感じたのだ。
「もしかして……」
今更だ。私の頬に新しい涙が流れる。
気がつくのが遅すぎた。私はもうずっと前からアレスのことが──
「こんなに好きに、なってたんだ……」