第一幕 ハナマル探偵事務所
僕は今、人生最大の怪奇に立ち会っている。
ずずっと、それは僕の前でカップに口をつける。
口角が微妙につり上がった。コーヒーがお好きらしい。
クーラーの稼動音が響き、この怪奇のコーヒーをすする音だけがこの部屋を満たす。
そしてそれは、空っぽになったカップを僕に突きつけ、言った。
「おかわり。早くしてね、お湯が冷めちゃう」
柴犬、マルがコーヒーのお代わりをねだった。
僕がこんなコーヒーを飲む、言葉を話す変態犬と出会ったのは叔父が経営する小さな探偵事務所だった。
高校二年生の夏休み、僕は田舎も田舎、新潟の小さな街で叔父に世話になっている。
ぼっちな上に引きこもりがちな僕を見かねた両親が決めたことだった。
都会に友達がいないなら自然と友達になれとのことらしい。
大きなお世話だと感じつつも、僕はわりと自分から進んでここにきた。というのも、僕は叔父さんが大好きだからだ。
名門の大学を卒業したあとはサラリーマンをしていた叔父であるが、これがあるとき急に脱サラして探偵事務所を開いた。聞くには長年の夢を追ったとのこと。
叔父さんはいつもそうだった。あることを真面目にやっているのかと思うと、急に違うことをし始める。ただ純粋に、子供のように生きている人だった。
そんな叔父さんを僕は好きだった。堅苦しい考え方ばかりする家族の中で唯一、この世の自由を謳歌しているように見えた。
とまぁそんな訳でやって来た探偵事務所なのだが、来た最初はやはりびっくりした。
というのもこの事務所は街にある商店街から少し外れた雁木の連なる道にあるのだが、建物すべてがものすごく古かった。
玄関を開けてまず見えるのは目の前に広がる長い廊下だった。廊下と言っても玄関からそのまま伸びているからそのすべてが土間と同じで、まるで土を踏み固めただけのようなものだ。
玄関の右には壁があり、コートラックや傘立てがあった。そして左には高い敷居と居間。そう、居間であろう部屋がすぐそこにあったのだ。
高い天井から垂れる棒の先には昔話でしか見られないと思っていた金属製の魚が泳ぎ、その下は火を炊くためにあるのだろう囲炉裏があった。
もちろん囲炉裏の中に灰は見えないが冬に使うのだろうかなんて考えたりもした。
それは町家づくりと呼ばれる、この町の古い家がもつ形だった。
縦に長く、横に細い。
居間の向こうには壁で仕切られた奥の部屋が微妙に見えた。
僕が足を踏み入れると、カカカッ、となにか硬いものが床を叩く音がした。
音の主はすぐに姿を現した。
それはいかにも賢そうな顔をした柴犬だった。真っ黒な瞳は大きく潤み、その下には黒い鼻がちょこんと、口元は若干笑っているようにも見えた。
体の色は柴犬の典型とも言える薄茶色だった。揺れる胴の先、くるんと巻かれた尻尾はきちんとお尻の上に乗せられている。
それはかけてきたかと思うとまた奥に戻ってしまった。そしてしばらくして、今度は叔父さんが奥から出てきた。
叔父さんは昔から熊を思わせる人だった。ずんぐりとした体躯に、小さな頭。動きものっそりとしていて、急な動きをすればそれはネイチャードキュメンタリーに出てくるグリズリーによく似ていた。
奥から出てきて日の斜めった光を浴びたときに顔がよく見えた。
黒い髪の毛は伸ばしたらしく、束ねて後ろに結んでいた。肌は浅黒い。鼻は低く、眼鏡を乗せていた。
眼鏡はかけている主のせいでとても小さく見えた。顎の先には流行りにでも乗っかってみたのか、妙にギザギザしたシルエットの顎髭を生やしている。
総じて、自由な人に見えた。
「お邪魔してます…?」
その顔がくしゃりと笑みに変わる。とても人の良さそうな、そんな笑い方だ。
「いらっしゃい。東京から来るの、疲れたろ?」
「いえいえ、まだまだ若いんで」
「そりゃあいいや、羨ましいね。さっ、じゃあ上がって上がって」
「はい、この夏はよろしくお願いします」
僕は頭を下げた。
「あいどうも。ようこそ、ハナマル探偵事務所へ」叔父さんは両手を腰に当てて自慢げに言った。
居間に荷物を上げたが、汗ばんだ体は奥に呼ばれた。
奥は表の雰囲気とは打って違って現代風のものだった。ガラス天板のテーブルを部屋の中心にして、座り地 の良さそうなソファが囲む。そこから距離を置いて、背の高い本棚が両脇の壁にそって置かれていた。もちろん中身もいっぱいだ。部屋の一番奥には明かり取りのための窓があり、高い位置に置かれていた。窓の下には簡単なワーキングデスクがある。その上には薄型の一体式パソコンが乗っかっていた。
何よりありがたかったのはエアコンだ。どうっと響くエアコンはちょっと肌寒いくらいの冷風を部屋に送り込んでいる。さっきまでべっとりと張り付いていた熱気が溶けていく。心底嬉しい。
部屋の隅には小型の冷蔵庫が置かれており、そこから叔父さんは瓶入りのラムネを二本取り出した。
「こういうのももう珍しいよなぁ、見かけることなんか夏祭りの終わりに町内会で配られるときくらいだろ。どこにも売ってないのにどっからあんなに持って来るんだろうな」
そしてそのどこにも売ってないはずのレアなラムネをぷしゅりと開けた。今度は開ける道具と一緒にラムネを僕に渡してくる。
ひんやりとしたガラスの感触を楽しみながら、感覚が鈍くなるでラムネを開ける。勢いよくビー玉が落ちた。
「で、まぁこの夏は居候なんだろ?」
ラムネ休憩の沈黙を叔父さんが破った。
「はい」
ビー玉が瓶の中で転がる。昔はどうやってこれを取り出そうかと考えたものだ。
「じゃあタダメシ食わせるわけにゃいかねえしな、バイトでもすっか」
「はい?」僕は思わずソファから乗り出す、ということもなく歪めた顔で返事した。疲れているのだ。
「この事務所は今人手不足でね、仕事こそ少ないかもしれないこともないだろうけどまぁ今んとこは少ないけどちょっと手伝って欲しいんだよ。三食風呂に寝床つき、どうよ」
「定時は?」
僕はふざけて聞いた。
「ない。残業バリバリ、人権ガン無視。法律だって気にゃしない」
叔父さんが意地の悪そうな、それでいて楽しそうな笑みを浮かべて言った。とんだブラック企業だ。
「乗った!」
二人して大笑いした。
「お前ってなんかアレルギーあったっけ」
叔父さんが唐突に聞いてきた。それは探偵事務所の奥の方、住居となっている部分を案内してくれていた時だ。
「一応、ハウスダストアレルギーですけど…まぁ他は別に」
「犬は好き?」
「普通ですね」僕はさっき見た犬を思い出した。そういえばあれ以来見かけていない。
「じゃあお前はここで寝泊まりすることになる。」
叔父さんが自分の後ろにある、開けっ放しの引き戸を親指で差す。僕が二階から降りてくる時だった。
そこは家の裏口に近い小部屋だった。
「昔は仕入れた物を置くための物置だったらしいんだがな?今は空っぽよ。この事務所で売ってるのはピカリと光る灰色の脳細胞だけだからさ」
叔父さんがこめかみに指を当てて仕草する。
「あとで布団を持ってくるよ。っていってもタオルケットとでっかい座布団しかないけど、それで寝られる?」
「十分すぎるくらいです」
「よろしい。最近ベッドでしか寝られない若者もいるにはいるらしいからな」
まったくけしからんと言ってから叔父さんはトイレに行くと歩き出す。部屋の前に着いた僕はそれを呼び止めた。
「あの、」僕はどうしてもあの犬が気になった。
「うん?」
「あの、犬って…」
「あー!そうだった」熊似の叔父さんがかけてくる。
そして、部屋に向かって、「マル!」と、呼んだ。
カカカっと、床を叩く音が聞こえ、出てきたのはさっきの犬だった。そいつは僕にやってきて鼻を押し付けてくる
「マル?」僕は叔父さんを見て聞き返した。
「そ、マル。我が事務所の看板犬。それにレディだから紅一点。この部屋、地面に近いのか、そういう作りなのかとにかく涼しくてね。夏はここにいるのが好きらしい。人懐っこいし、変なことさえしなきゃいい子だからね。仲良くね。」
そういって半ば足早に叔父さんは行ってしまった。
マルは相変わらず僕に鼻を押しつけている。
「えっと、よろしくね?」
僕はその頭に手を乗せてみた。犬は飼ったことがないから扱い方がわからない。とりあえず撫でればいいのか。
僕はとりあえず、乗せた手で撫でてみた。するとマルはその場に座り込んだ。
僕は軽くしゃがみ、もっと撫でてみる。硬い頭蓋骨の上に薄い脂肪か筋肉かわからないものがあり、さらにその上に柔らかい毛の生えた皮が乗っかっている。マルの頭のはそんな感じだった。形容しがたい。
しばらく撫でていると、マルが頭を上げた。
真っ黒い目で僕を見つめる。僕は撫でるのをやめ、そのにらめっこに参加した。
しばらくにらめっこをすると、マルが口を開いた。暑いのだろうか。犬は舌を突き出して体温調節するというが。
だがマルは違ったらしい。優雅に、しかして短く、こう言ったのだ。
「下手くそ」
僕は固まった。
「犬を撫でる時はね、もうちょっと優しくしなきゃ」
下手くそと言われたことに固まっていた僕に叔父さんが買い物に出てくると言ってから時計の針が一周回った。
僕は先程、犬に命令されるままに台所でコーヒーを淹れ、それを犬に出したところだ。
「え…喋れるの?」
僕は恐る恐る聞いて見ることにした。
「うん。まぁね。」さも当然と言った風に余裕顔(犬に余裕顔なんて)された。
「叔父さんは…?喋れるの知ってるの?」
「そんな質問責めにされるために話しかけたんじゃないんだけどなぁ」
皮肉だった。マルはまた、コーヒーをひとすすりした。
「輝は知らない。あなたが初めて。そう、あなたは特別な存在なの。」
「へ、へえ」釈然としないが特別と言われて気持ちよくないことはない。
「くっ、はははは!なーんてね。あなたは普通の学生さん。犬畜生に褒められてどうすんのよ!あははは!」
えー。自虐なのか馬鹿にされたのかどっちでも傷ついた。
「あんた冷涼の間に泊まるんでしょ?だからまぁしばらくはルームメイトだから。よろしくね。」
「うん…」
その時、ガラリと玄関から音がした。
「うおーい!ちょっと荷物運ぶの手伝ってくんねえか?」叔父だった。
「今いきまーす!」と返事して僕は立ち上がった。コーヒーを飲む犬はそのままに、玄関に向かうとそこには大きな買い物袋を二つぶら下げた叔父が居た。
「こっちな。卵の入ってる方。台所に運ぶまででいいから。」
そういって差し出された袋を片方持つ。得意ではない力仕事に難儀しながら台所に行くとマルは消えて居た。コーヒーカップは未だ湯気を立てている。
「おっ、コーヒー淹れてくれたの?よく場所がわかったね。サンキュー」
ぬうっと出てきた叔父さんはそういってカップを口に運ぶ。それはマルが…
「あっ」
「ん?」ずずずっと鳴っている時点で既に手遅れだった。
「えーっとこれどこに置けば」
「あー、じゃあそこでいいよ。あとは自分でやる。」
知らない方が幸せなこともある。それが森羅万象の謎を解き明かす探偵であったとしても。うん。
続く...?