【小話】夜会 - ロナルド -
結婚生活は戸惑いがほとんどだった。
政略結婚、しかも契約書付きの結婚は冷たい義務的なものだと思っていた。
「お帰りなさい」
本宅に帰れば、そう迎えてくれるのはグレースだ。
夕食が一緒に取れる時間であれば一緒に食べ、仕事で遅くなれば部屋で寛ぎながら待っている。それは普通の夫婦のようだった。
もちろん、この時間が仮初であることはわかっている。契約でグレースが妊娠するまでは本宅で生活をする。当たり前と言えば当たり前だ。一緒にいなければ、妊娠するはずもないのだから。そこにあるのは義務的なものであり、夜の生活だけだと思っていた。
それがどうだ。彼女は契約などなかったかのように普通に妻の顔をしている。夫婦であると自然に思えてくる。
グレースが作り出す空間はとても暖かく、心地が良かった。
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必要最小限とはいえ、夜会は少なくとも月に二回は出席だ。特に結婚してからは、招待されることも多く、選別していてもそれなりの数になる。今夜も外せない商談相手の開く夜会だ。貴族とはいえ、さほど位は高くないが、今後のことを考えると出席しておくのが無難な相手だった。馬車の中で主催者の男爵を思い出していた。
グレースは向かいの席から不思議そうに俺を見つめていた。
「何だ?」
「いえ。何故そんな風な顔をしているのかなと思って」
「生まれつきだ」
「そうじゃなくて……」
すいっと指が伸びてくる。俺の眉間にそっと指が触れた。
「……気を付ける」
「笑っていればいいのに」
そう言われて、作り笑いを浮かべた。グレースがまじまじと見つめ、それからため息交じりに左右に首を振る。
「笑わなくていいわ。仏頂面の方がまし。不出来すぎて気持ちが悪い」
「酷い言いようだ」
肩をすくめ笑みを消す。グレースがくすくすと笑った。
「あら、着いたみたい。エスコートしてくださる?」
気取ったように手を差し出してきた。俺はため息をついた。その手を取り、そっと唇を寄せた。
「もちろんだ、奥方」
「うふふ、よかったわ」
そんな気軽な会話をしながら、馬車を降り、会場へと向かう。グレースの腰に軽く手を添え、彼女の歩幅に合わせてゆっくりと歩く。グレースは少し寄り掛かるようにして歩いていた。
どこか楽しそうなグレースを見ていると、こんな面倒な夜会でもたまには出席するのもいいとさえ思えてくるのだから不思議だ。
グレースの他愛ない話を聞きながら、歩いていると会いたくない女が目に入った。思わず顔を顰める。相手もこちらに気が付いたのか、とろりとした気持ちの悪い笑みを浮かべて近づいてきた。思わず舌打ちをしてしまった。俺の態度にグレースも女に気が付いたのか、顔をそちらに向けた。
「どなた?」
小さな声で俺に聞いてきた。あの女を知らないようだ。きちんとした身分もないのだから仕方がないかもしれない。
「ルイスの……異母妹だ」
そう返すと、グレースは目を見張り、途端に面白そうな顔になる。彼女のその顔を見て思わず、苦笑が漏れた。
「気分がいいもんじゃない。ブリジットにも執拗に絡んでいたんだ。ここを離れよう」
そう、あの女はルイスを貶めると同時にブリジットも貶めていた。本人がどう思ってその行動をとったかはわからない。その行動は心の醜さが顔に現れているようで、今ではこの女を目に入れるのも不快だと思うほどだ。
「嫌よ。ここはきっちりお相手するところよ」
「は?」
想像外の反応に足が止まってしまった。さりげなく離れようとしていたのに、これでは無理だ。あと少しであの女と話すことになる。
「ふふ。まあ、見ていて?」
可愛らしく首を傾げた。耳飾りが揺れて、光が反射した。同時に彼女の目が捕食者のような光を湛えた気がした。ぞくりと背筋に何かが走った。
「こんばんは。今日はお願いに来ましたわ」
女は名乗りもしないで、声を掛けてきた。グレースは不思議そうな笑みを浮かべた。いかにも今気が付いたというような、その自然すぎる態度に内心驚いていた。
「どちら様かしら?お知り合いではなかったと思いますわ」
「ええ、そうでしょうね。わたしはロナルド様の知り合いですわ。ルイスの妹、と言えばわかるかしら?」
挑発しているのだろうか。ルイスの妹、と変な間を持たせる。グレースはにっこりとほほ笑んだ。
「まあまあ、そうでしたの。全く似ていらっしゃらないので気が付きませんでしたわ。ルイス様はとてもお美しくいらっしゃるから。てっきりその妹様なら同じように儚い美しい方かと……」
なかなかストレートだ。言外に美しくないと言っている。女は作り笑いを消した。
笑っていいのか、引き攣っていいのかわからない。この場にいるのが居たたまれなくなってきた。だがグレースは俺を傍観者にするつもりはなかったようだ。彼女はすりっと俺に擦り寄ると、下から覗き込んでくる。そして含み笑いを漏らした。
「残念だったわね。ロナルドはお姉さまやルイス様のような儚い感じの美人が好きですものね」
「そうでもない。君が一番綺麗だ」
グレースの腰に回していた手に力を入れてさらに引き寄せると、その頬にキスを贈る。このくらいはしておかないとダメだろう、多分。
グレースはこんなところで、とちょっと困った顔をしたがすぐに女へ視線を向けた。
「それで、何のお話だったかしら?」
「……ルイスではなくわたしを愛人にしてもらいたくて」
グレースは首を傾げた。女は突然、自信をもって話し始める。
「ルイスは男ですわ。わたしならいくらでもロナルド様の子を産めます」
何だろう、この得体のしれない生物。この女を抱くなんて何の拷問だ。
全く意味が分からない。言葉が通じるとも思えない。
グレースを見下ろした。彼女が傷ついていないか、確認したかった。やはりこの女を接触させるべきではなかったのだ。
だが、見なければよかったと恐ろしさに後悔した。浮かべた笑みは柔らかくとても美しいが、瞳が全く持って笑っていなかった。彼女は敵としてこの女を捕捉したのだ。
「貴女を愛人にするくらいなら、もっと若くて美しい女性を選びますわ」
くすくすと馬鹿にしたような笑い。彼女は俺から少しだけ離れると、女を物色するように上から下まで眺めた。
「まったく利害がないのでしたら、男性はより美しくより若い女性を好むものでしょう?」
「何ですって……!」
怒りのためか、女は体を震わせた。グレースは冷めた目で女を見つめる。
「違いますの?あなた、わたしよりも年が上ではなくて?結婚はしていらっしゃるのかしら?していないのなら、やはり魅力がないということなのでしょうね」
立て続けに問われ、女は真っ赤になった。どれもこれも当たっていたのだ。ルイスの異母妹は見た目もぱっとしないのもあるが、周りが避ける理由はそれではない。
この女はブリジットが生きていた時も人目をはばかることなく、かなりの攻撃をしていた。その様子を知っている適齢期の貴族男性が彼女を選ぶはずもない。キャンベル侯爵家とクラーク侯爵家を敵に回すようなものだからだ。その上、この女の家、ルイスの実家はすでに当主が挿げ替えられていた。この女には貴族令嬢としての立場もないも同然だった。今夜だってどうして出席できたのか不思議なくらいだ。後のない女は、グレースがルイスを愛人として認めたことを知って直談判しに来たのだろう。
グレースははらりと持っていた扇を開き、口元を隠した。そして、本当に小さな声で女にしか聞こえない声で囁く。
「それとも、夜のお務めの技術がすごいのかしら?一発で天国にでもいかせてしてしまうほどに?ロナルドは初々しい方が好きみたいなので、わたしで十分間に合っていますわ。今後はそのようなお誘いはご遠慮くださいませ」
しっかり聞こえているぞ、グレース。しかも……表現は直接的でないが、少し下品だ。
グレースの言葉にくらくらしながら、二人を見ていた。彼女はにっこりとほほ笑み、俺の腕を取る。
「では、失礼するわ」
軽やかに挨拶をすると、ゆったりとした動作で主催者を探して歩きだした。
「グレース」
「今回はわたしの完全勝利ね!」
小躍りしそうなほどの喜びように、ため息を漏らした。グレースとの夜会は頼もしい限りだとつくづく思った。
そして、この時感じた通り、グレースと参加する夜会はそこそこ楽しめる場所に変わっていった。
今後もグレースの反撃は続くのでした。ロナルドはグレースの強さに目が覚めていく……。