【小話】思い出の彼女 - ロナルド -
ゆっくりと落ちてくるのは小さな体だった。
あの高さから落ちたのなら、ほんの一瞬のはず。だけど、不思議なことにとてもゆっくりで、彼女のワンピースの裾を飾っている刺繍の模様さえも見えるほどだった。
「ブリジット?」
走り出したのは、反射的だった。彼女の落ちるだろう場所に走り込み手を伸ばして慌てて受け止める。だが、受け止めてもその勢いは止まらず、まだ少年である自分の体では二人を支えるのはとても難しかった。
「ブリジット!」
悲鳴を上げたのは二階のベランダに一緒にいた母親だ。ほんの少し、目を離した隙に3歳になる彼女はよく遊んでくれるお兄さんを見つけ、手すりから身を乗り出したのだった。そして、小さな体は落ちてしまった。
幸いなことに受け止められてはいたが、勢いは殺せず、ブリジットも一緒になって強かに体を打った。泣き声が聞こえる。
ああ、そんなに泣かないで。
ずっと守ってあげるから。
痛む体を起こし、隣で泣いている少女に手を伸ばした。
******
「そろそろ起きて!時間だよ」
シーツが剥がされる。眠い目を少し持ち上げ、ルイスごと抱き寄せた。暖かい。このままもうひと眠りと思い、彼を抱き込んだまま目を閉じる。
「今日は仕事の後、夜会だよね。着替えの準備はいつも通りにしてあるから」
「……眠い」
呟いた言葉に、ルイスのため息が漏れた。
「グダグダ言っていても、もう起きる時間」
「……最近冷たい気がする」
そう零せば、ルイスが鼻で笑った。彼は腕の中から抜け出るとベッドから降りる。
「ちゃきちゃきしなよ。次期侯爵様?」
「ああ、それ。やっぱり辞退することにする」
先日、父に侯爵位を譲る条件に結婚が提示された。あの時はあまりよく考えずに頷いたが、よく考えてみれば結婚自体無理だ。枕に顔を埋め、眠い頭のまま呟くように言う。
「は?」
「だって、無理だ。グレースと結婚なんて」
「グレース?」
どうやらルイスはグレースを知らないらしい。仕方がなく目を開けた。目の前にはぽかんとして口を開けているルイスがいた。もう付き合いとしては、在学中からだから……10年か。それでもこんなぽかんとした顔をあまり見たことがない。大抵は、面白がっている顔か、呆れたような顔か。
「ブリジットの妹だ。葬儀の時にいたんだが……覚えていないか」
「覚えていない。どういうこと?」
ルイスは俺をじっと見下ろした。
「どうにもこうにも。俺が侯爵を継ぐにはクラーク家との繋がりが必要だ。だから、グレースと結婚するように言われている」
「嫌いなの?」
「嫌いとかそういう問題じゃない。グレースは俺の8つも下だ。しかも生まれた時から知っている。可愛い……妹のようなものだ」
それに、彼女にはイアンがいる。3年前のブリジットの葬儀の時に会った二人を思い出した。政略とはいえ、婚約者同士、あれほど仲が良かったのだ。別れさせるのは可哀想だ。しかも、姉の婚約者だった俺の妻になど彼女はなりたくないだろう。
彼女が生まれた時を知っている。俺はもう8歳だった。母親について生まれたばかりの彼女を見た時に、ブリジットとは似ていないなと思った。
ブリジットは儚げなクラーク侯爵夫人によく似ていた。髪は流れるようにうねり、華奢な体とおっとりとした面差しをした線の細い女の子だ。それに対してグレースは赤子なのに、周りを明るくするほどの元気にあふれていた。顔立ちは同じなのに、持っている色が違っていた。
「えええ??じゃあ誰が侯爵家を継ぐの?」
「イアンだ。父上の弟の子だ。従弟になる。グレースともずっと婚約関係にあるから、彼が継げば問題ない」
「ロナルドは?」
「俺は……どうするかな」
自分が先のことを考えていなかったことに、初めて気が付いた。ルイスがため息を漏らす。
「ロナルド、ちゃんと後継者として努力しているじゃないか。ずっと侯爵家の跡取りとしてやってきたんだ。僕は納得できない」
ルイスの言葉ももっともだったが、俺にして見たらブリジットが死んでからの3年は罪滅ぼしのようなものだ。
どれだけ周りから逃げていたのか。どれだけ彼女が埋めてくれていたのか。
婚約者がいなくなるとブリジットと同じ世代の女どもが集ってきた。誰もかれも、ブリジットを悼みながら、擦り寄ってくる。
お気の毒ですわ、わたしが慰めてあげたい。
ブリジットと親しかったのですわ。どうか一緒に彼女を偲びましょう。
言葉のさわりはこちらの悲しみに寄り添うような思いやりがあるが、その心は違う。間違って誘いに乗ってしまえば、あっという間に結婚に持ち込まれる。
夜会に一人で出るようになると、すぐに理解した。ブリジットがどれだけ頑張っていたかを。俺が逃げたことで負担も増えただろうに、艶やかに笑って流していた。
ブリジットはルイスのことに関しては、何も言っていなかった。別れるようにも苦言も、本当に何も。もしかしたら、こういう女どもの壁として使っていたかもしれない。
そこまで思い至って、思わず首を捻った。
「どうしたの?」
「ああ……いや、今起きる」
ルイスは突然黙り込んだ俺に聞いて来たが、何でもないように装った。ベッドから降り、着替えながら今思った小さな違和感をもう一度考える。
「まさか、な」
ブリジットはとても華奢で何かがあれば、すぐにでも壊れそうな女性だ。悪意だって侯爵令嬢としてさらりと躱していたが、かなり傷ついているはずだ。
昔から泣き虫で。少し垂れ目でいつも涙が溢れそうになっていた。涙を隠すために瞳を伏せて、唇を噛み締めていた。ふるふると震える体は何かを耐えるようで……。
ロナルドの髪の色の方が綺麗です!悔しいから、毟ってやりますわ!
この虫、生意気です!捕まえられませんの。
ロナルドのお嫁さんはわたしです。あんな何もかも足りないような女にロナルドを触られたくありませんわ!む、胸は仕方がありません。わたし、まだ8歳です……。
あれ?
どうして彼女の姿と共に思い出すセリフがこんなものばかりなのか。なんかもっと辛そうな言葉はなかったか。
「ロナルド、気分悪いの?」
完全に動きを止めた俺にルイスが心配そうに声を掛けてきた。その声に大丈夫だとぎこちなく答え、大きく息を吐く。
そんなことはない、彼女は儚く弱い女性だ。意地の悪い貴族たちの悪意ある言葉に耐えらえるわけがない。精一杯、侯爵令嬢として頑張っているに過ぎない。きっと、陰に隠れて泣いているはずだ。あのセリフはきっとグレースだ。記憶のどこかでブリジットとグレースが混同しているのだ。
そうだ、それで間違いない……多分。
こうしてロナルドは脳内補完をしていく……。