『真実の愛』が壊れるまで2 - ルイス -
久しぶりの自宅は何故かとてもくすんで見えた。
別に戻りたかったわけじゃない。のらりくらり曖昧のままベルマン男爵家に1年程いたが、後継者問題があるため、バーリー侯爵が後継者に戻るにしても放棄するにしても、一度は家に戻るようにと言ってきたのだ。
ベルマン男爵も黙って頷いたわけではなかったが、書類だけのやり取りでは済ますことができなかった。母を殺したと噂されている子爵の愛人の子供が子爵家を継ぐことになるから、少しでも和解したように見せたいのだと、ベルマン男爵は肩をすくめていた。
「ようやく帰ってきたわね、この出来損ない」
愛人、いや後妻がそんな嫌味を言ってきた。僕は首を傾げた。
「別にそれをバーリー侯爵様にそのまま言えばよかったのに」
「何ですって……!」
「僕はこんな家、いらないから。だって、今にも破産しそうでしょう?」
父であるヒューム子爵の顔色が悪くなった。その変化を面白そうに見ながら、続ける。この家の経済状況はベルマン家の情報とバーリー侯爵の愚痴ですでに知っていた。折角母が立て直したのに、使うことしか能のないこの男はすっかりダメにしていた。軌道に乗せるまではとても大変なのに、ダメにするのは本当に早い。
「たった2年でここまで財政を悪化させるなんて、ある意味、才能です。驚きました」
くすくすと馬鹿にしたように笑って見せた。ぱんという音と共に痛みが後からやってくる。怒りを抑えられなかった後妻が平手をしてきたのだ。都合が悪いことを言われると怒る人間が多いとイクセルが言っていたな、とどうでもいいことを思い出す。
後妻が手を出してきたので、後妻にも憂さ晴らしの的になってもらうことにする。首を少し傾げ、後妻に笑みを向けた。じっと目を見たまま、切り出す。
「そうそう、お母さまは貴女が殺したんですね?噂を聞いて驚きました」
後妻がぶるぶると大きく体を震わせた。その震えが動揺なのか、怒りなのか、よくわからなかった。
そんな母親を庇う様に、僕の代わりに嫡男になった異母弟が間に入る。
「いい加減なことを言うな!母上はそんなことしない」
「そうなの?別に僕はどちらでもいいんだ。でも貴族社会ではそうなっているという話なだけ。庶民でも知っているくらい、有名な噂だよ」
「お前こそ、身持ちを崩したそうじゃないの。平民の、しかも最下層の複数の人間と関係を持っているともっぱら評判よ」
ああ、あの噂はこの後妻が広めたのか。自分の噂を消すために。
すでに僕はこの噂をイクセルから聞いていた。最下層の複数の人間というのは、仲良くしてくれているベルマン家に雇われている彼らのことだ。別にそういう関係じゃないが、貴族が行かないような場所に頻繁に出入りしている僕はそう見えるのだろう。
「それで?僕の悪い噂が広がると、自分の首を絞めるよ?」
この女はわかっていない。噂の怖さを。僕はイクセルと色々情報を収集をしていて、よく理解していた。人は不幸の味が大好きだと。面白い噂程、よく広がるし、より面白く変化する。そして、接点のない人間は噂から勝手にその人物を作り上げる。
「何を強がりを」
「強がりじゃないよ。僕の身持ちが悪くなったのは、子爵家の財産を狙った性悪な愛人に母を殺され、家を追い出されてしまったから仕方ない話だってなっているでしょう?ほら、噂は貴女に戻っていっている」
僕はちらりと弟と妹を見た。
「気を付けないと二人に縁談が来なくなるよ」
父に似て大した容姿でもないしね。
そう呟くと、さらにもう一発頬を叩かれた。
「よせ!」
ようやくヒューム子爵が間に入ってきた。これ以上叩いては、頬がはれ上がってさらに噂が増長すると思い至ったのだろう。二発も叩かれているから、もう遅い。僕が外に出なくなっても、この手の話は使用人たちや出入りの業者からすぐに広がっていく。
「どちらにしろ、僕にはこの家はいらない。好きにしたらいい」
そういうと、バーリー侯爵から預かっていた書類を取り出した。ヒューム子爵家の後継者放棄の書類だ。
「僕のサイン、してあるから」
僕はやることを終えて、ベルマン男爵家に帰ろうとした。ところが、帰れなかった。
ヒューム子爵が僕の腕を乱暴に掴むと、引きずられる。抵抗はするものの、強い力で引きずられるまま歩いた。残念なことに僕の体格では、この男から逃げることはできない。
連れていかれた3階の部屋に突き飛ばされるようにして入れられた。よろめいて膝をついた僕に、ヒューム子爵は忌々しそうに告げた。
「お前にはこれ以上醜聞を作れないよう、学園に入ってもらう。寮に入るまでここで大人しくしていろ」
一人閉じ込められた部屋にはトイレもバスルームもあるから、特に不自由はなかった。調度品はそれなりの物を使っていた。食事もきちんと3食、運ばれてくる。
僕としてはすぐにでも出て行きたかったが、扉には鍵がかけられていた。頑張れば窓を割っても出て行けただろうが、運動能力に自信のない僕には3階から出て行くだけの度胸はなかった。
やることもなく、窓際に椅子を置き、ぼんやりと座って外を見ている毎日だった。
ここにはベルマン男爵家の人たちがいない。母を支えてくれていた優しい人たちもいない。
「……イクセル、会いたいな」
やることのない部屋で、思い出すのはイクセルだ。
僕は彼が好きだった。彼は僕が好きだと言っても流すばかりで、いつもとっかえひっかえ色々な女性と付き合っていた。それを嫌だと思いながらも、彼にとっては僕はただの従弟であることもわかっていた。
彼は僕が拾ってくれた飼い主に懐く犬のように依存しているだけだと思っているだろう。その通りなのだから、否定できないのだけど。
それでも、安心をくれる彼の側にいられるなら恋人でも、従弟でも、なんでもよかった。
なのに、どうしてこう思う通りにはいかない。
要らない子供なら放り出したらいいのだ。下手に外聞を気にするからこういうことになる。きちんと手順を踏んで、僕をベルマン家に預けた後、愛人を後妻にすれば問題はなかった。一時は後ろ指を指されるかもしれないが、今のように消えない醜聞が蔓延することもなかっただろう。
自分の父親だとは思えないほどの頭の悪さだ。
こうして、ベルマン男爵家に帰れずにそのまま学園に放り込まれた。
だから知らなかったんだ。イクセルが結婚したことを。
僕は帰る場所を完全に失った。
******
学園はつまらなかった。勉強は少しすればすぐに理解できたが、さほど面白いものではない。
ここに入れられたことは、外で問題を起こさないようにとのヒューム子爵の意向だ。本当に浅はかだと思う。平民の間での醜聞を作るよりも、貴族との間に醜聞を作る方がはるかに不味いと気が付いていないところが、面白い。
少しヒューム子爵家を困らせてやろうと下町で知った男を誘う方法を色々試してみた。幸いこの顔は母に似て極上なほど美しく、顔だけならきっと女にも見える。まだ免疫がないのか、ちょっと誘えば面白いほど引っ掛かってきた。もちろん、そこに性行為が含まれている。だから、初めての相手は色々な人に声を掛けながら、好きになれそうな相手を慎重に選んだ。
性行為の経験がない僕は最初の相手に色々な相手と関係を持っている上級生を選んだ。彼はこの学園で男の恋人を持っていたが、同時には付き合わないことで有名だった。ちょうど恋人がいず、一人だったのもよかった。
「ふうん。俺は別にいいけど。本当にいいのか?」
「うん。男同士の場合、初めては特に上手な人の方がいいって」
「あまり長く付き合えないよ?今年で卒業だからね。そろそろ身を綺麗にしようと思っている」
伯爵家の次男である彼の婚約者は子爵家の跡取り娘だ。
ちゃんと知っている。僕だって彼は好きだけどいつまでも一緒にいたい好きではない。
軽く頷くと、彼はとても丁寧に愛してくれた。色々な人に聞いた話で、かなりの痛みを覚悟していたが、彼は本当に上手だった。痛みは初めだけで、その後はただひたすら気持ちがよかった。
僕は他人と一つになる気持ちよさを知った。何かが満たされる、そんな感覚もあった。彼を選んでよかったと、本気で思った。
「ねえ、ルイス」
「なあに?」
「折角こんなにも綺麗で頭がいいんだ。君はちゃんと自分の幸せを考えた方がいいよ」
付き合って3か月、最後の日にはそう言って、優しくキスしてくれた。
何故か、寂しさに涙が溢れた。
***
入学して半年、先輩の後はあまり先を考えずに色々な相手と関係を持ちながら、自分の評価を落としていった。成績は維持したから退学にはならないし、もともとこの学園は思春期の男子を慰めるためにある箱庭だ。恋人をたくさん作っているからといって退学になりはしない。
あとどの程度、評判を落とせば実家に影響があるかなと考えながら、一緒にいて寂しさがまぎれる人を選んでいった。時には三角関係になって修羅場になったり、付きまとわれて面倒になったこともあるがそれもまた、暇つぶしにはよかった。
そのような修羅場のような出来事がある噂はこの箱庭で消えることなく貴族社会に広がっていく。囁かれている悪意ある噂は聞いていて面白かった。僕の噂が悪ければ悪いほど、実家への影響が大きくなるし、異母弟や異母妹の縁談はどんどんなくなっていくはずだ。
自分でも性格が悪いと思うが、それくらい報いを受けてもいいと思っていた。元々、身持ちが云々という噂は彼らの母親が広めた噂だ。その噂がなければ、これほどまで広がりはしなかったはずだ。ここは貴族令息たちの箱庭だし、ある程度の醜聞は許されている場所。それが外の世界にまで飛びだすということは、僕の評判が相当悪いからに他ならない。
後妻も僕の評判を落とすことに頑張っているのだ。着飾った醜悪な女が必死になっているところが目に浮かんだ。これはこれで、なかなか面白い。
「俺と付き合わないか」
そんな中、声を掛けてきたのがロナルドだ。ロナルドはこの国では1、2の権勢を誇る侯爵家の嫡男だ。驚きのあまりにすぐに声が出なかった。ロナルドは可笑しそうに笑う。
「お前、寂しいだけだろう?卒業までは一緒にいてやるから、あまりひかっき回すな」
どれくらい僕のことを知っていると言うのだ。あまりのことに怒りが湧いた。だが、すぐに思いなおす。しばらくは平穏な方がいいとは思っていたのだ。年中、拗れているから少し疲れていた。
彼と付き合えばとりあえずは三角関係にはならない。そして、侯爵家令息の彼と付き合うことによるメリットは十分にあった。もちろん、僕の評判がさらに下降する方向だ。
打算だけで始まった関係だった。
実家をさらに貶めること、この学園で少しだけ平穏に暮らすこと。
なのに、どうしてこんなに居心地よくなってしまったのか。僕は初めてのことに、戸惑っていた。
ロナルドは優しい男だった。頭もいいし容姿も優れているが、それよりも何よりも、包み込んでくれる優しさが僕を安心させた。彼といると、何も考えずにただただ笑っていられた。同い年なのに、イクセルの側にいた時と同じ安心感があった。
「ごめん、ちょっとこの日は実家に帰る」
ある日の昼休み、いつもと同じように二人でお昼を食べ、食後のお茶を飲んでいる時だった。次の休みに街に出かけようと誘うと、初めて断られた。断られるとは思っていなかったのでかなり驚いた。
「え?」
「婚約者の誕生日なんだ」
そう嬉しそうに笑うロナルドを見て、胸が痛んだ。
「そう。じゃあ、僕との約束は次の休みでいいよ」
「ああ、すまない」
ロナルドは僕の気持ちなど気が付かずに、予鈴を聞くと教室に戻っていった。僕は心がひどく痛んでどうしようにもなかった。どういうわけか、イクセルと彼が重なって見えた。
僕はまた、一人になるのかもしれない。
***
どうしてこんな行動をとったのかは、自分でも理解できない。
僕は休日にロナルドの後をこっそり付けた。こんなことをしたら、ダメだと思っていた。彼に気が付かれてもダメだし、二人が並んでいるところを見たら自分が何を思うかも不安だった。
でも、どうしてもロナルドの婚約者が見たかった。自分の気持ちもわからないまま、一定の距離を保ったままロナルドの後ろを歩く。ロナルドは僕に気が付くことなく、目的地に向けてどんどん歩く。
彼は貴族街の途中で待ち合わせをしていた。彼が声を掛けたのはとても美しい少女だった。聞いた話だと、ロナルドの5つ年下だという。
確かに少し幼いところがあるが、とても凛としていた。彼女を遠くから見つめていると、どうしてか母の顔を思い出した。似ているところなど、雰囲気ぐらいなのになぜだろうか。
よくわからず混乱したまま、二人の後を追うこともなくその日は寮に戻った。
寮に戻ると、自分のベッドに潜り込んだ。体を丸くしてじっとしていた。
どうしたんだろうか。彼女の顔がいつまでも頭から離れなかった。ロナルドと二人でいるところを見ると、とても苦しくて、胸がじぐじぐと痛んだ。ロナルドが自分のものにならないせいなのか、彼女自身に思う処があるのか、よくわからなかった。
度々、ロナルドは彼女に会いに出かけて行った。初めはそれを黙って見送っていたがそのうち我慢が出来なくなってきた。そして、とうとう彼に言ってしまった。
「僕にロナルドの婚約者を紹介してよ」
彼は僕の言葉を聞くと、途端に不機嫌そうに眉を寄せた。そんな顔をするのは付き合って初めてだった。あまりの不機嫌さに、続けようとしていた言葉を飲んだ。
「必要ない。これからも彼女に会わせるつもりはない」
「え?」
「彼女だって男の恋人など、紹介されても困るだろう」
その通りだった。僕は学園にいる間の仮初の恋人だ。どうして忘れていたのだろう。あまりにも居心地がよすぎて、彼の側にいるのが当たり前になっていたようだ。この関係はずっと続いていくと思っていた。
有限である時間を思い出したことも目が覚めるような思いだったが、それ以上に彼女に会えないということに衝撃を受けた。
ああ、そうか。
初めてこのジグジグした気持ちがすとんと形を持った。僕は彼女に母を重ねてしまったのだ。
父との5歳の年の差、18歳には結婚して、心を痛めたまま、過労で亡くなった母。
あの凛とした前を向く立ち姿に、僕は彼女に僕を産む前のまだ若い母を重ねた。ロナルドと彼女の関係はそのまま僕の両親にも当てはまった。
どうしても会いたかった。
彼女と会っても意味のないことだともわかっているけど、どうしても話してみたかった。
でも、それは僕だけの気持ちで。
ロナルドには僕を彼女に紹介するという選択肢はないのだろうと理解した。