『真実の愛』が壊れるまで1 - ルイス -
満足そうな笑みを浮かべ彼らの中心にいる男を見て、ああ、この男はやっぱり父親なんかじゃなかったと、そう思った。
僕のお母さまは、とても綺麗な人だった。沢山の求婚者がいる中、どこにでもいるぱっとしない父親を選んだのが不思議なくらいだ。きっと政略的何かがあったのだとは思う。ただ、誰に聞いても答えてもらえないので、よくは知らない。
僕はとてもお母さまに似ていた。父親と同じだと思えるのは目の色だけだ。どこに行っても可愛いとちやほやされていたし、上位貴族ではなかったけどヒューム子爵家は数ある子爵家の中ではかなり豊かだった。
ただし、この豊かさはヒューム子爵家が元から持っていたものではない。母の実家である男爵家が用意した持参金で何とか立て直したのだ。子爵夫人として母は采配を振るい、ヒューム子爵家の安定した収入を確立していた。母は男爵家出身ではあったが、実家で培った商才があった。見た目はとても儚いが、周囲の人を味方につけるのが上手だった。
それに胡坐をかいたのが、父であるヒューム子爵だ。仕事はほとんど母に丸投げ、父は結婚当初から社交だけを熱心に行っていた。それが不要だと言い切るつもりがないが、その社交の場で早々に愛人を作っていた。ヒューム子爵家の羽振りの良さに目を付けた男爵家の三女だった。二人は母の作り出した利益を簡単に消費していった。母は子爵夫人として最低限必要な物をそろえていただけなのに、愛人はもっと質の良いものを買うというのは当たり前に行われていた。
子爵家は利益が上がっても浪費の方が激しく、さらに仕事をするといった悪循環に陥っていった。常に仕事は忙しかった。休みなく働く母はとても顔色が悪かったが、それでも精力的に母は働いた。忙しい母を支える使用人たちは心配して少しは休むようにと言ってくれていたが、母は休むことはなかった。そんな母が、とうとう過労で倒れた。
父は母を労わることなく、それを契機にと、愛人とその子供達を本宅に連れ込んだ。僕は13歳だった。母はそれを見て、ため息をついていた。
「ごめんなさいね、ルイス。嫌な思いをさせるわ」
僕は知らなかったが、愛人には2人も子供がいた。上の子供は、僕と変わらぬ年だ。僕が生まれたのは母が嫁いでから5年経っていたから、さほど不思議はない。逆に年上でなかったことが驚きだ。母は当然、愛人のこともその子供のことも知っていた。寂しそうに笑う母は本当に儚くなってしまいそうだった。
「このヒューム子爵家はお前が継ぐのです。あの子供達は気にすることはありません」
そう母は語ったが、母はそのまま回復することなく眠る様に亡くなった。ヒューム子爵家に嫁いでから18年の忙しさは母の体を内側から壊していたのだ。沢山の友人や使用人、領民に涙で見送られながら、母の葬儀は行われた。
墓の前で最後まで一人立ち尽くしていたが、ふと顔を上げる。
こちらに父が歩いてきた。僕の前に立ち止まる。父は一人ではなかった。父の側には愛人がいて、その子供たちまでいた。一人で来たのなら、まだこの男が父だと思う努力はしたと思う。
「お前の母は亡くなったが、家族はいるんだ」
父はそういって愛人の肩を抱く。愛人も悲しみを滲ませながらもどこか嬉しそうに寄り添っている。その様子が信じられなかった。本妻の葬儀なのに、愛人がもう妻気取りだ。
悔しさに、ぐっと手を握りしめた。母が命を縮めたその原因はこいつらの散財にこそあったのに。葬儀の日すら、母を蔑ろにする。それがどうしても、どうしても許せなかった。
***
本当は母が命がけで支えたヒューム子爵家を守るつもりでいた。だが、守ってどうするんだという気持ちもあり、身も心も行き場を失った。母を支えていた使用人たちもほとんど去っていった。残っているのは父親とその愛人に親身になる人間だけになった。そんな敵だらけの家にいたくなくて、街をふらふらしていた。
そんな時、一人の男に出会った。
男はイクセルと言った。見るからに、貴族的な顔立ちをしていた。多分、爵位を継承できない庶子か跡取りではない立場なのだろう。彼は18歳で、13歳の僕にはとても大人で、頼もしく見えていた。
イクセルは世間知らずな僕に色々なことを教えてくれた。街では賑やかなところに行けばガラの悪い人間もいたが、イクセルと一緒にいるととても友好的だった。彼らもきちんと向き合えば、とても優しいことに気が付いた。子爵家にいる時よりも自由で、とても心地よかった。
「そろそろ家に帰れよ」
イクセルの家に転がり込んでいた僕は時折そう言われた。唇を尖らせ、嫌だと言うと困ったように笑う。そして大きな手でぐしゃぐしゃと髪を掻き交ぜた。
何度かそんなことを繰り返していたが、出会って半年を過ぎた頃、再び帰るように言われた。
「イクセルと一緒にいたい」
「お前、このままでいいわけないだろう?子爵家の坊ちゃん」
「イクセルの恋人になりたい」
そう、イクセルには街に沢山の恋人がいた。恋人というよりは時間が合えば肌を重ねる程度のものではあったようだが、僕にはそれが許せなかった。僕だけのものでいて欲しかった。
「何言っているんだ、子供が」
「子供じゃないよ。もう14歳だ」
「十分子供だ。ついこないだまで13歳だったじゃないか」
「いやだ」
「子爵家に帰るんだ。婚約者を探して幸せになれ」
羽振りのいい子爵家の嫡男であれば、よほどの高望みをしなければ希望通りの相手とは結婚できるだろう。だけど、僕は女性には全く興味がなかった。というよりも、愛人のねっとりとした様子を見ていて、嫌悪の対象になっていた。
きっと母のような美しい女性ならば結婚してもいいだろうが……。
そんな女性はどこにもいないと諦めていた。貴族女性はあの愛人のように自分の生活のために擦り寄るような人間しかいないと、どこかで思っていた。
「女と結婚するつもりなんてない」
「現実を見ないところがまだ子供だな。まあ、もうちょっとだけいてもいいさ」
イクセルは最後には諦めたのか、そう言った。
もちろん僕だってこんな生活がいつまでも続くとは思っていなかった。ただ、逃げられるのならこのまま逃げていたかった。いつものように人々の営みをイクセルの部屋から眺めていると、ノックの音と共に誰かがやってきた。
「ルイス」
僕は名前を呼ばれて顔を上げる。そちらを見ると、知らない男がいた。だが、その顔を見て愕然とした。
「誰……」
そこにいたのは母によく似た面差しのある男性だった。仕立ての良い服を着て貴族だとすぐにわかる。
「お前の叔父だ。姉上が亡くなったのにすぐに迎えに来なくてすまなかった」
「僕は帰らないよ」
ヒューム子爵家に戻されると思いふっと顔を逸らす。彼は可笑しそうに笑った。
「ヒューム子爵家ではない。ベルマン男爵家の方に帰るんだ。イクセルも一緒にな」
「イクセルも?」
イクセルも、と言われて首を傾げた。叔父は屈託なく笑った。
「イクセルは私達の兄の息子だ。お前の従兄になる。お前を街で見かけて声を掛けたらしい」
ああ、そういうことなんだ。イクセルは僕を知っていて声を掛けたんだ。ちょっと運命的な出会いを感じていたから、少しがっかりした。
それでも、ベルマン男爵家での生活はとても楽しかった。母の実家は使用人たちもとても暖かく居心地がよかった。ベルマン男爵は母の兄で、イクセルの父であった。男爵家はイクセルの兄であるマルクが継ぐことになるのだが、今は国外に仕事で出かけていて、まだ会えていない。迎えに来た叔父のケヴィン・ベルマンも国外を拠点にしていて、帰ってきたばかりだった。
イクセルが街に住んでいたのは、庶民の流行や噂などの貴族以外の情報を集めるためだったようだ。人当たりのいい彼はどこにでも友人がいたし、素行の悪そうな人たちでさえ気楽な交友があった。そんな彼が叔父によく似た僕を見かけたと街での情報を掴むのは当然だった。
ケヴィンは母とよく似ていたため、僕と並ぶと本当に親子のように見えた。しみじみと僕の顔を見ると、いつも大きな手で頭を撫でる。
「ルイスさえよければ私の養子になるか?」
独身の彼がそんなことさえ言いだすほど、よく似ていた。僕としてはこのままベルマン家の子になりたかった。彼が養子の話を言うたびに、養子にして欲しいな、と応えていた。
街の最下位層の人たちにもイクセルの従弟だと紹介された。彼らはすんなりと僕を受け入れた。ケヴィンによく似ているのもあったが、ベルマン家は彼らとつながりが深かったから、ベルマン家の者だと知ると今まで以上に友好的になった。
理由は簡単だ。ベルマン家は最下位層の人たちをきちんとした雇用として多く雇っていた。仕事を分割し、賃金自体は少ないかもしれないが、多くの人を雇うようにしていたのだ。貴族の人たちから見るとならず者に見える彼らであったが、底意地の悪い貴族よりもよっぽど親切だし、優しかった。
「ベルマン家は何をしている家なの?」
そのつながりの深さに感心しながら、初めてベルマン家の役割に興味を持った。イクセルから、すぐに答えが返ってきた。ヒューム子爵とは本家筋が異なるため、事業の主体をよく知らなかった。
「石鹸だ。石鹸を作っている」
「石鹸?」
「そうだ。ベルマン家の本家筋は石鹸類が担当だ。石鹸と一口で言っても色々あるぞ。洗濯用や掃除用、人間に使うものと、用途も様々だ。その中で洗濯用石鹸がうちの分担だ」
洗濯用の石鹸を作るのはさほど大変ではないらしい。すでに確立されている技術だからだ。ただ、時間がかかるし、手間もかかる。今では一度凝固した石鹸を粉にして洗濯に使用しやすいようにしているようだ。そのためにも人手が欲しいそうだ。
「すごいね」
ヒューム子爵家の家業を思い、つい呟いてしまった。母が体を壊してまで作り上げた事業はどうなっただろうか。初めて気になった。母が生きている間は母の後を継ごうと、一生懸命に勉強していたが、ここ1年、全く何もしていない。母の顔を思い出し、後ろめたさを感じた。
「ヒューム子爵家は少し経営不振気味だな」
「どういうこと?」
「叔母上が亡くなって、上手く経営する人がいなくなったんだ。恐らく数年のうちには傾くだろう」
ついでに気になっていた母がヒューム子爵家に嫁入りした理由を聞いた。やっぱり資金提供のためだけだった。ベルマン男爵家の本家筋ににあたるバーリー侯爵家が直接縁談を取り持ったため、断ることもできなかったそうだ。そのかわり、母の生んだ子供、つまり僕が子爵家の跡取りになることが確約されていた。これにはバーリー侯爵家とヒューム子爵家も合意しているらしい。
「でも、ヒューム子爵家って何も言ってこない」
「それもそうだな。ちょっと調べるか」
毎日が穏やかで幸せだったから、すっかり忘れていた。僕はヒューム子爵家などどうでもいいが、政略結婚した母が勝ち取った権利を捨てることは躊躇われた。
調べてもらうと、僕はすでに跡取りではなくなっていた。
この1年、自宅に帰っていないのだから、こうなるのは当たり前だった。父親は出て行った僕を気にすることなく、勝手に愛人を後妻に迎え、僕と同じ年の息子を後継にしていた。ただ、母が結婚した時の契約の関係上、それはヒューム子爵が勝手に言っているだけであって、バーリー侯爵はその主張を認めていなかった。バーリー侯爵が認めていないということは王家の許可も下りないということだ。
当然、このことは貴族社会では噂になっていた。恐ろしいことに真実ではないことが真実のように語られていた。母の死因が勝手に愛人によって殺されたことになっていたのだ。流石の僕もそれは違うと思ってしまった。母は彼らの散財の穴を埋めるために無理な働き方をして体を壊し亡くなったけれど、流石に殺されたわけではない。母には子爵家を出るという選択肢もあったはずだから。
「憶測が憶測を呼んでいるんだろうな。しかもお前は家にも帰らず、街を半年もうろついていたし、そのあとはベルマン男爵家に保護されている。当然だろう?」
イクセルがちょっと面白そうに笑った。そんなこともありながらも、僕はこのままベルマン家で平穏に暮らしていけると思っていた。跡取りだって僕ではなく、愛人の生んだ子供がいるのだから、少し噂があったって問題がないと思っていた。
でも、この後、知ったんだ。
僕の望みなんて、何一つ、叶わないのだと。