09-1.
昨日のことを、テッラはあまり詳しく覚えていない。確かに感じられるのは、頬に走る鋭い傷と、カエルムをおぶってきたせいか、じんじんと残る両足の鈍い痛みだけである。
カエルムを背負い、何とかして家のドアを開けると、母親であるモンターナが酷く青ざめた顔で出迎えた。
「どうしたのよ……!?」――その心配の言葉は、どこかテッラの方ではなく、カエルムに向けられているようで。彼女は残り少ない体力で、ぽつり、ぽつりと断片的に説明する。
そんな微かな記憶と乾ききった舌では伝わるはずもなく、モンターナはテッラの言葉を話半分に聞き流す。そして、彼女に自分の部屋へ戻り、休んでいろと伝えた。
それは身も心も疲れ果てたテッラにとって、あまりにも非情なことだった。テッラは振り返り、壁から少しだけ顔を出し、母を見つめる。しかし、母の瞳はテッラではなく、重症のカエルムに向けられていた。
彼女はなぜだかその光景を見ていられず、重たい脚を引きずるようにして足早に自室へ戻った。思い切りドアを閉め、着の身着のままでベッドへなだれ込む。
白く洗いたての枕に、テッラの涙が静かに滲んだ。
じんじんと残る筋肉痛は、テッラの気だるさを倍増させる。一晩眠ったとはいえ、あの光景も胸の痛みも消え去るはずはない。
――お母さん。
居間で朝食を摂ろうにも、こんなに躊躇するなんて。テッラは震える足をおさえて、居間へ顔を出す。
「……おはよ」
声がほんの少し裏返ってしまった。不自然ではないだろうか――彼女の鼓動はまた速まる。
「テッラ?」
そこにいたのは、彼女の母親ではなく、上半身を包帯で巻かれたカエルムだった。彼はテッラに気付き、体を起こす。当然のように、病み上がりの体が耐えられるはずもなく、カエルムは走る痛みに顔を歪めた。テッラはすぐさま駆け寄る。
「駄目だよカエルム、動いたりしたら」
不思議なくらい自然と、彼女の口から彼の名が零れ落ちる。テッラは思わず口を押えた。何故か胸の底から湧き上がる、こそばゆい思い。
「そうだね、ごめん」
そう言って微笑むカエルムは、どこか彼女の胸の内を見透かしているようだ。テッラは少しばかり紅潮した頬を彼に見られたくなくて、そっぽを向く。
そういえば――テッラは横目でちらりとカエルムを覗き見る。彼は四六時中身に着けているはずの外套を、今日は着ておらず、風変わりな髪と瞳が露わになっている。ここは自宅であり、村人にも勝手に入ってくるほど無粋な人間はいないから安心だが。
テッラが一人考えを巡らせていると、カエルムはごめん、とまた謝った。
「君の顔に、傷を作ってしまった」
彼女は思い出したように自らの頬に触れる。血は止まっていたが、思ったより傷は深いようであった。けれども彼女にとってこんな怪我、大したものではない。丘へ登りたての頃は手足をすりむくことは日常茶飯事だし、崖から足を滑らせたこともある。その時の崖は低いものだったが、足を骨折してしまい、暫くの間母親から丘に行くのを禁止させられたほどだ。
彼女はこんなの大したことない、と彼に伝えようとする。しかし、テッラは口をつぐんだ――否、彼の鬼気迫る表情に、つぐまずを得なかった。
「俺が……俺が守らなきゃならないのに。それが俺の『存在意義』なのに。これじゃあ、これじゃあ彼女に顔向けが出来ない……ッ!」
カエルムは、見る者すら怯えさせるような表情で、拳に力を入れる。その手には赤い血が滲んでいた。
テッラはしばし何も言えずにいたが、はっと我に返り、彼の両手を労わるように自分の手を重ねる。
「私、大丈夫だから、生きてるから! こんなの全然、平気だよ……」
初めて触れた彼の手は、恐ろしいまでに冷えていて。テッラはカエルムの手をぎゅっと握る。
「そ、それより、さ。助けてくれてありがとう。カエルムがいなかったら、私、どうなってたか」
テッラは必死にカエルムに訴える。そうでもしないと――目の前の男が、どこかにいってしまいそうだったから。
カエルムはテッラの言葉を聞いても、未だ俯いたままだった。だが、その拳の力は少しだけ和らいだように見えた。テッラは彼の様子を見計らってから、そっと手を離し、その場を立つ。
「血が出てるから、薬草と包帯、持ってくる。カエルムは何か欲しいもの、ある?」
カエルムは俯いたままだったが、テッラは分かったように頷いて、奥の倉庫へ向かった。