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第八話 であい

 朝礼。フロアいっぱいに広がるデスクの主が集まりきった後それは始まった。

 企業理念や今月の交通事故防止標語、そして接客五大用語と呼ばれる挨拶の唱和を終えた後、私と営業の新人らしき女性が前に立たされた。まずは私から挨拶することとなった。「大阪から参りました、白綱仁と申します。未熟者でまだまだ勉強中の身ですので、皆様にはご迷惑をおかけすることがあるかもしれませんが、早く一人前になれるよう頑張りますので、宜しくお願い致します」

「このとおりやたら真面目で妙に馬鹿正直な奴なので、皆さん仲良くしてください。宜しくお願いします」

 私の挨拶は無難極まりないものでさながら路傍の石だった。そんな蹴り飛ばされて溝に落されるような私の言葉は、課長のフォローによって新たな職場の人間たちの表層的笑顔を誘った。

 私は何事も無かったように会釈を一つしてさっさと後ろに控えると、逃げるように社会戦士たちの群れに混ざった。

 続いて営業側の挨拶が始まる。紺色の落ち着いたジャケットを羽織り、すらっとしたグレーのパンツを身に付けた美しい女。その整った出で立ちは皆の視線を一気に掻っ攫った。

 漆黒の髪を長めのポニーテールにまとめ、どこか丸みのある横顔のラインが可愛らしくも美しい。ジャケットから覗く胸は極めて理想的なサイズで、男共の淀んだ視線を集めていた。ほんのり三白眼気味の大きな瞳が猫を連想させ、ピンクの唇は柔らかそうに瑞々しく輝いている。

「初めまして、白重幽菜と申します――」

 よく通る高い声で彼女は話始めた。明るい声色ながらも、落ち着いた言葉選びと静かなトーンで語る彼女の印象は実にアダルトで、所謂『できる女』という印象を受けた。完全に私は食われたと思った。

 彼女はその華奢な身体からは想像できないようなどしりとした存在感を放ちながら自己紹介を続ける。話している内容自体はさほど凄くは無いのだが、何分この謎のオーラが辺りを支配しており、今やこの事務所の中はまるで彼女の世界となってしまっているようだった。

「――神戸のこともたくさん教えていただけたらと存じます。どうぞ宜しくお願い致します」

 頭を下げる仕草まで決まっている。気品と、王者の如く輝く雰囲気に溢れたその姿は、ぱっと見だけなら弱点が見つからない。極めてどうでもよい感想だが、彼女は一人で何でもこなすタイプと観た。一体どこまで能力がある人間なのかは知らないが、勝手にしてくれと私は心で呟きながら目線を他所へずらした。


 ◆ ◆ ◆ ◆


 結局昼間の業務は挨拶周りを兼ねた兵庫県の観光もどきで終わった。それから一通り事務所内の人間と話をしたが、自分達の島の人間はもちろんのこと、営業側の人間も予想していたより癖のある人物は居なさそうだった。皆穏やかで笑顔があり、アットホームな気配を私は肌で感じていた。

 そして時間はざらっと流れて夜。例によって例の如く、私と白重幽菜の歓迎会が開かれた。

 私と彼女は居酒屋の大きな座敷部屋のど真ん中に隣通しで座らされ、さながら新婚夫婦を祝われるような状態で乾杯の音頭が始まった。

 課長が相変わらずの軽快な口調で話しつつ、時折冗談を交えて会場をそこそこにわかせて賑やかな宴のスタートを予感させる。

「――それでは、新しく来られた二人の今後の健闘を祝い、乾杯の挨拶とさせていただきます――」


 乾杯!


 その一言であちこちからグラスが軽く触れる音が鳴り響く。私も近くの人間にグラスを当てつつ、最後に隣の白重幽菜のグラスにかちん、と当てた。

 白重幽菜は妖艶な笑みを浮かべて小さく「宜しく」と呟いた。その完成された――もしくは計算しつくされた仕草に――私は柄にも無くどぎまぎしながら、彼女の甘い香水の香りが芳しい。気のせいか、やたらと五感が敏感になっている気がする。興奮しているのか。馬鹿馬鹿しい。

 そして謎の拍手が辺りを包み込んで乾杯の儀式が終了した後、ようやく私は解放された気がした。刺身やサラダなど手近な料理に手を伸ばしつつ、周囲から浴びせられる在り来たりな質問を受け流していく。私は見ず知らずの人間とご飯を食べるのが苦手だ。本心で話せず、どうしても上辺だけの会話になってしまう。そうした環境を続けていった結果、『相手を気分良く話させて満足させ、自分のことはあまり喋らない』という謎の技術を手に入れてしまった。自分のことを好きでも無い相手に話したくないという屈折した感情がもたらしたテクニック。無意識にその力を行使しながら、一人無感動で歪な存在がど真ん中に居座る歓迎会の時計の針は静かながらも着実に時間を進めて行った。

 一通りの質問攻めをクリアすると、いつの間にか周囲はいくつかの仲良しグループで固まっていた。よく見かける光景だ。

 私は近くのグループの話をラジオ風味に耳を傾けつつ、そして定期的に聞いてもいない話しに頷きながらそのグループに入っているふりをした。酒が欲しくなったので、若い茶髪の店員に声をかけて銘柄の分からない見るからに安そうな日本酒を燗で頼んだ。程なくして酒は到着し、手酌で猪口に酒を注いでそれを飲んだ。案の定まずい。悪酔いしそうだった。

 しかし別にそれでも良いかと思った。酔えば良い。色々な意味で、酔ってしまえば良い。しかし元々酒に弱い体質ではないせいかそれほど酔いは感じられず、一合をほとんど飲み切った頃にようやくほんのり身体が温かくなる程度だった。 

 我ながら自分の強烈な臆病っぷりに嫌気が差した私は、静かに、自分独りしか分からないようなため息を鼻で吐いた。

「何してるんですか?」

 小鳥のさえずりのような声が頭上から聞こえた。はっとして声の方を向くと、白重幽菜が私の隣に座るところだった。

 観れば分かるだろう――という言葉を酒と一緒に飲み込んで私は苦笑いを浮かべながら「特に何も。白重さんは?」と返した。白重幽菜はほんの少し疲労を感じさせる笑顔を浮かべる。

「さっきたくさん飲まされて疲れたので、帰ってきました。白綱さんの隣は何だか落ち着きそうだから」

 私の隣は落ち着くというのならばそれはそうかもしれない。この場において、私の存在価値は使用済みのマスコットのようなものだ。草臥れたマスコットの隣は概して時が止まっており、哀愁が付き纏うもの。その隣はさながら日が暮れる草原のように何も無い。自分の事を見つめ直す時間を取るには最適だろう。皮肉な事を言う女だ。

「ところで、白綱さんはバンドをされているんですね。何だか意外です」

 私はぬるくなった酒を猪口で煽りながら、横目で彼女を一瞬見やった。

 営業の誰かに趣味は何だと質問されたとき、私は読書、散歩、ベースと答えた。ベースに喰らい付いた女の営業が詳しく聞いてきてその時に『バンドをやっている』と答えてしまったのだ。こちらとしては言うつもりは無かった。不覚だ。

 きっと白重幽菜はその瞬間を耳ざとく聞いていたのだろう。確かそのとき彼女とは結構距離があり、辺りも騒がしかったはずだがよく聞き覚えていたものだ。

 私は猪口を料理が散らかったテーブルに置くと「そうです。ベースを弾いています」と答えた。そして「白重さんは何か趣味は?」と尋ねた。彼女はどこか嬉しそうに微笑みながら答える。

「私は小学校から高校までピアノを習っていたんです。今でもピアノは弾いていますよ。まぁグランドピアノは置けないからキーボードなんですけどね。楽器を弾くのは楽しいですよね」

「そうですね。楽器は嘘吐かないですから。こちらのアプローチに対して良くも悪くも素直な反応を見せてくれる。そこがとても面白いですね」

「まぁ、よく分かってるんですね。楽器に対してそこまで真摯に話す方と久しぶり会いました。白綱さん、宜しければ今度一緒に音を合わせませんか?」

「え?」

 それは予想外な言葉で、そして願っても無い言葉だった。一瞬、私の心の中は嬉しさと驚きと猜疑心がごちゃ混ぜになってしまい返す言葉を失った。

「嫌、ですか?」

 白重幽菜は困った貌をした。これがまた曲者で、その姿は儚く風に揺れる白百合の潔癖さと美しさが見え隠れしており、正にジェンダー的女性像を思わせるものだった。そして思わず両手で慎重に抱きしめなければならないと思わせるような、彼女に対して私の中の思考スペースを過剰に占拠させられてしまうその姿は、ある意味男を惑わす悪女のような仕草でもあった。つまり何が言いたいかと言うと『それはずるい』ということだ。

「いや、嫌じゃないです。構いませんよ、ぜひやりましょう」

 私は張りぼてのような笑みを浮かべながら彼女に答えた。あんな貌をされれば答えざるを得ないではないか、と心の内では半ばやけくそ気味に思いながら。

 彼女は黄色いコスモスのように上品かつ明るく笑うと、ポニーテールを揺らしてこちらに少し身を寄せてきた。牝の子馬が遊びたそうにこちらに走り寄ってくるように私は感じた。いやそんなことより胸だ。胸がまずい。おいこら近いぞ。色々と危ない……!

 思わずそちらに目が行きそうになるのを堪え、私は極力彼女の額を見るようにした。なぜなら瞳も危ういのだ。彼女の眼には魔力がある。見つめていたらきっと目が離せなくなる。

「嬉しいです!あまり趣味が合う人がいなかったから、働き始めてからずっと独りで弾いていたんです。あ、ちなみに何をやります?ざっくりですけどジャズなんかできますか?」

 突然の彼女の提案にも私は平常心を心がける。彼女から香る、シャンプーやリンスとは違うどこか生々しくも優しい香りに理性を抵抗させて私は心を落ち着かせた。そう、ジャズはできる。一時ジャズに傾倒したことがあったので、なんちゃってジャズだがスタンダードぐらいは押さえている。私は素直に「なんちゃってジャズならできます」と答えた。

「全然大丈夫ですよ。私もそんなに上手く無いし。とにかく他人と音を合わせたいなと思って。譜面コピーして持って行きますから大丈夫だと思います」

「ああ、そうですね……」

 しどろもどろに彼女の話についていく。彼女はかなりエキサイトしているようで、勝手にぶつぶつ呟きながら話を進めていく。私は彼女の本心が見えない。この急展開に私はくらくらした。一度心を落ち着かせる為、事の成り行きを確認しよう。

 初めて会った男に開けっ広げに己の趣味を話し、一緒にセッションしようという。だが異性に対し普通ここまで行動的になるだろうか?しかも女性だ。そんな漫画や小説や映画のような展開、あるだろうか?それとも私の人生経験が浅いだけでそういう女性は確かに存在しており、今回たまたま私の目の前に現れただけだというのだろうか。

 しかし待て。異性に対しそういう『好意的』な態度を示すには理由が必要なはずだ。それは大体二つに分けられるだろう。一つは私のことが余程彼女の好みにぴったりだったという場合。二つ目は何かしらの裏があり、計算の上そういう行動を取る必要があった場合。それらを踏まえて再度考えてみる。

 ――ふむ。

 決して自虐ではないが、私はそれほどかっこ良くも無いし、取り立てて優れた点も無い。その辺にいる、いわゆる草食系男子という不名誉な称号にぴったりな人間だ。にも拘らず彼女は話しかけてくる。すなわちそこから導き出される答えとは『私が彼女の好みだという可能性は限りなく零に近い』ということだ。しかし別に腹立だしくは無い。哀しいかなそういう環境で育ってきたのでもしかしたら感覚が麻痺しているのかもしれない。

 ならば答えは一つだ。これは大変危険な事態ということ。彼女は何らかの裏を持ち、計算高く蟷螂のようにその手に鎌をもたげて音も無くこちらに忍び寄ってきている可能性がある。もちろん私の事が単純に好きなのかもしれないが、危険な可能性がある以上、そちらに意識を持っていかざるを得ない。私は心に纏わせている有刺鉄線に青白い電流を流し、彼女に対する警戒をさらに強めた。

 訝る私の様子に、彼女は「なぁに?」とでも言いたげに小首をかしげ、その猫のような蠱惑的な瞳で私に笑いかける。白い肌に浮かび上がる薄紅色の頬と唇が男の中に潜む本能を眼球からじくりと刺激し、計らずも脳が熱を帯び始める。

 正に魔性の笑み――彼女は夜のお店で女王として君臨できる素質がありそうだな、とふと思った。


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