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第七話 黙問

 日常は徒然に過ぎていく。

 何が起きるでもなく、自ら起こすでもなく、時の流れに淀みは無く、菩薩の穏やかな貌の様に淡々と無意識に過ぎていく。

 ふと気づけば明日から神戸の事務所に行かなければならなかった。時の流れはあっという間だ、と私は改めて気づかされた。

 今の部署の人たちからは送別会をささやかながら開いてもらい、私の旅立ちを祝ってくれた。私は嬉しかったと思う。心の大部分ではきっとそう感じていた。だが、肝心の根っこの部分では果たしてどうだろう。 

 先日の楓の祝賀会の時もそうだ。あの時、本当は楽しかった。今振り返ればあんな馬鹿な事をしでかせるのも今の内だ。年を重ねて皺が増えて髪が減った頃には、あんなことはできない。可能ではあるだろうが、きっとできない。

 そんな中、自分は一体何をしているのだろうと思った。今が楽しければ良いや、という考えは悪魔の囁きだ。私はそうならないために、自分の存在は何なのかを再び自問し始めていた。

 会社に必要な人材になる。夢追い人になる。色々と道はあるだろうが、今の自分は社会人と言う皮を被った放浪者だ。社会という枠に翻弄され、行き場が見つからない迷子。もしかしたら自分は真実の馬鹿なのかもしれない。

 そう。『馬鹿になれる』という芸は実は非常に高度なものだ。自らを馬鹿に貶める事ができる知恵者は真実馬鹿ではない。本物の馬鹿者とは、その人にとっての真理に気づけず、見抜けないものを言う。今の私はどちらなのか。私は無言で日本酒が入った盃を口に添えた。

 明日からは新天地。私は期待を一切持たず、平常心であることに努めようとしている。挨拶の言葉も簡素ながら的を射たものを考えてある。無難に。当たり障り無く。波風を立てないように――。

 個性に拘っているくせにそんな風に考えてしまう私は馬鹿者だ。それに気づいているにも拘らず身体を動かすことができない私は臆病者でもある。馬鹿で臆病。不治の病に冒されているような気がして軽く眩暈がした。酒のせいでは無いだろう。そんな自分の様子に私は自嘲的な苦い笑みを浮かべた。

 日曜日の夜は色々な気持ちが胸にわだかまり、鬱蒼とした何かが血液と一緒に全身に染み渡る。社会人独特の感覚だ。月曜日が嫌だ、と人は言う。私もそれには同感だった。

 二十二時四五分。私はいつもより少し早くベッドに入り、瞼を閉じたのだった。


  ◆  ◆  ◆


 兵庫県神戸駅を降りて五分、私は新たな事務所である大きなビルの玄関に到着し、中には入らず空を仰いだ。

 第一印象は『でかい』『オシャレ』『なんとなく偉そう』という身もふたも無いものだった。大きなガラス張りのテナントビル――十五階ぐらいはあるだろうか――が、どかんとそびえ立ち、近くには阪神高速という名の高速道路が真っ直ぐ伸びている。事前情報によると神戸は車が無いと現場まで向かうのに不便なので私用の車を用意していると言われてある。これからは毎日あの高速道路に乗ってあちこち周ることになるのだろう。

 高速道路の向こう、すなわち海側の方には大きなショッピングモールらしきものがごてごてと建っていた。いわゆるランドマーク的な建物なのだろうことがその様相から伺えた。神戸の土地勘は皆無に等しいので、あれが何という建物なのかさっぱり分からないが、傍から見てもやたら派手だ。きっと休日はこの辺りが家族連れや恋人連れで賑わうことになるのだろう。私には関係が無いことだが。

 ひとしきり辺りを見回した私は、軽く深呼吸して自動ドアの玄関を潜った。さぁ、出撃だ。

 だだっ広いにも拘らず綺麗に清掃された玄関フロアを突っ切り、エレベーターに乗り込む。十階のボタンを押して程なくすると、ピンポンと言いながらエレベーターは静止して「さぁ行け若造」と言わんばかりに大きな扉を開いた。

 エレベーターを出て左手が大きな窓で行き止まり。反対側の右手側に顔を向けると早速事務所の入り口が見えた。すりガラスをこしらえたアルミの開き戸の横には、カードキーを認証するところがあり、その上に『株式会社トーワ神戸営業所・トーワエンジニアリング株式会社神戸駐在所』と銘打たれた看板があった。私が所属している会社のトーワエンジニアリングとは、この株式会社トーワの子会社のようなもので、別会社だ。一応トーワグループという関連会社の一つということで、本店であるトーワの名を借りているが、実際のところトーワの商品を施工する施工会社――すなわち下請け会社なのだ。故にこの神戸営業所というところは、本来本店の営業が腰を据えている場所で、私たちトーワエンジのものはそこを「ちょっとすみません」と言う風に間借りさせてもらっている立場にある。しかも営業と我々、大雑把にいえば元請と下請が同じフロアで仕事をすることになるので余計肩身が狭い。現場をルート営業で取ってくるだけの営業マンと私達現場側との間には立場や知識の差で様々な溝やぶつかり合いがあるのだ。表に出る程の確執は無いだろうが、完全に本店と分かれていた大阪の事務所よりもやりづらいと感じることはあるだろう。まぁ私は特に気にしないが。

 時刻は七時四十五分。外から見て事務所内はまだ暗いが、ドアは開いているようだった。

 私は音も無く開くドアを開けると、ついに中へと足を踏み入れる。正面にはパーテションが施されてあり、腰ぐらいまでの高さの台が隣接して設置されている。その上には『御用の方は押してください』と明朝体で印刷されラミネート加工が施されたプリントが貼られてあるベルが置いてあった。御用はあるが身内なので私はそれを無視してパーテションの奥へと向かう。

 パーテションの壁を抜けると一面デスクが整列されてある仕事場に出た。整理整頓が行き届いている机、小学生が資料を散らかしたような机など各人の仕事ぶりや性格が如実に現れていた。その中で一番奥の方の島に、男性が一人だけノートパソコンに向かって朝から精を出している様子が見えた。位置的には向かい合わせの方向を向いていて顔が判別できる。

 短いが薄くは無い白髪混じりの髪の毛、やたらオシャレな茶色のフレームのメガネをかけ、穏やかな表情はきっと性格から生まれ滲み出たものだろう。私はあの顔に見覚えがあった。課長だ。

 課長は私との距離があることとパソコンに集中しているためかこちらに気づいていない様子。私は近くまで歩いて行き「おはようございます。課長」と声をかけた。

「――ん――おう、白綱か。おはよう」

 淡々としているが、言葉の裏には優しさが見え隠れする声色で課長は返事をした。

「ここまで迷わなかったか?」

「はい」

「それはよかった。今日からよろしく頼む。皆お前の事を楽しみにしているぞ。朝礼の挨拶の時には、そうだな、お前、なんか面白いことを言え」

「そういうキャラじゃないので、無理です」

「ははッ、無理って言うな無理って。まぁあまり気張らずに、ゆっくり馴染んでいったら良いと思う。分からんことがあれば相談してくれたら良いから」

「はい。ありがとうざいます」

 課長とここまでフランクに話せることには理由がある。課長は時折会議で大阪まで来ることがあり、その度新人である私を可愛がってくれていた。仕事終わりの飲みにも何度か同席させてもらっていたので、互いがどういう人間なのかある程度知っている仲なのだ。課長の存在が神戸行きに頷いた理由の一つでもある。

「ちなみにお前の席はあそこね」

 課長は島の一番下手側隅にあるLANケーブルとコンセントタップが無造作に転がっているだけの机を指差した。なるほど何も無い。自分色に染めろということなのだろうか。

 私はとりあえず自分のデスクの椅子に座ると、特に理由は無いが引き出しを開けたり閉めたりした。当然中身は空っぽ。それにしてもこの机を見ると思わず引き出しを開けたくなる衝動と言うのは、科学的に解明されていないのだろうか、とわけの分からない事を私は考えた。

「あ、そういえば」

 課長が呟く。

「営業さんの方も新しい人が来るらしいぞ。お前と同い年か下ぐらいかな?女の人だそうだ。お前、告白しろ」

「いやです」私は即答した。そして首を傾げながら続ける。

「しかし変なタイミングで向こうも人を入れてくるんですね。何かあったのかな」

「もともとここに居た木原という営業さんが家の事情で突然退職してな。その穴埋めだと思う」

 穴埋め。何となく不吉な言葉だ。穴になる立場も穴を埋める立場になるのも喜ばしいことじゃない。不吉な風と臭いはどの事務所に行っても同じ様に存在しているのだと私は認識させられた。

 そう、それはまるで死の影のようだ。人間はいつどこでどういう理由で死亡するか分からない。その可能性は自分の影のように見え辛いところに潜んでおり、どこで不意打ちをされるか分からない。考えてみれば残念な話だ。死期が分かれば、もう少し具体的に人生計画が立てられるのに。しかし『明日死ぬ』という事実が分かってしまう恐怖はきっと想像を絶するものなのだろう。だが、果たして自分はどうだろうか。

 例えば『今から五分後に確実に死にます』と死の宣告を告げられた場合、私はどう衝撃を受け、どう悩み、どう行動するだろう。

 それらを考えるに当たって、ある記憶が蘇ってくる。

 幼い頃――四、五歳の頃だったか。母の居ない私は保育園からの帰り道、いつも父の手を引かれながら家路を歩いていた。

 ある日、私は何か楽しいこと――いや、嬉しいことがあり、父の手を離れてはしゃぎながら帰っていた。空は茜色に輝き、その温もり全てを公平に生けとし生けるものに分け与え、同時に包み込んでいた。夏と秋の境界。黄昏時の静かな気配。その穏やかに終わろうとしていた一日の終盤に、私は強烈な物理的衝撃と共に宙を舞っていた。

 何が起きたか分からない間に、そのまま傍らの川に不時着し、同時に沈没した。大の大人でもなんとか爪先立ちで顔だけ出せるような深さの川は、幼児にはあまりにも深すぎた。しかしまぁ激突の衝撃で気を失っていた私にとっては関係の無い話ではあるが。

 あの時、私は不思議な夢を見ていた。車に激突されて目の前が真っ白になり、次の瞬間貧血をおこしたように上から段々と白が黒に塗りつぶされ目の前が真っ暗になった。全身の感覚を失ったような謎の浮遊感。無重力の宇宙空間に放り出されたような状態になった私は感覚こそ無いが意識は明確に在った。深海で海月のようにふわふわと漂う意識だけの私は漠然とこれが『死ぬ』ことなのだと思った。

 どこへ行くでもなく、ただただ暗い空間を流されるだけ。当然だが恐怖はあった。自分は今どこに居るのか、今何時なのか、父はどこなのか、色々なことが脳裏に浮かんでは――果たして脳があったのか定かでは無いが――消えて、消えると同時に自分自身の意識も一つ、また一つと闇に喰われていくような感じがした。意識は周囲の闇に溶けるというより、強大な絶対の漆黒に吸収されていると感じた。

 痛みは無く、快楽も無い。次第にその状況に順応した私の意識は、淡々とした機械作業のように正確に一定量ずつ消化させられていくのだった。しかし私の意識に抵抗する気は無かった。不思議なことに、それが当然と言う風な気がしていたのだ。本能がそういう風にインプットされていたのかもしれない。そうなることが必然。1+1=2という無二の真理の如く、自分はそうあるべきなのだと私の意識は『無意識』にその状態を認めていた。

 そこでは時間の概念が全く分からなかったからどれぐらいの時を過ごしたのかは分からない。しかしある時、いつものように意識の一部が何か鋭利な刃物で正確にカットされ、それが切り離されて少しずつ小さくなっていく退屈な作業の中、これまた突然だが私は自分の『手足』を感じた。直後にふくらはぎを感じ、ふとももを感じ、二の腕を感じ、胸板を感じ、首を感じ、額を感じ、あっという間に全身を感じた。最後に己の心臓の鼓動を感じ、瞼の苛立ちを感じた瞬間、私は誰に言われるでもなく目を覚ました。

 思えば不思議な体験だった。交通事故に遇い、吹っ飛ばされた勢いのまま川に転落して溺れる。幸い肉体に後遺症になるような傷は無かったようだが意識不明の状態がしばらく続いたそうな。強烈な死への誘いからよく生還できたものだと自分の生命力には驚かされる。そうまでして生きたかったのかだろうか。心は分からないが、肉体がそういう風に願ったのかもしれない。

 この事件は父の計らいで公にはされず内々で揉み消された。不気味なことにぶつかってきた車の運転手、すなわち犯人は発見できぬまま、事件はお蔵入りにさせられた。本来なら絶対に認められない事だが、父望みでそうしたらしい。今思えば奇妙を通り越して異常な対応だと思うが、理由は語ってはくれないし、自分自身そこまで知ろうとも思わなかったから構わなかった。この頃からすでに現在の性格の片鱗が出ていたと思うと、少し心苦しい話ではある。

 結局、不吉だということでその場所から引っ越して別の地域の保育園に編入した。そうして今に至るのがこの私である。

 以上を踏まえ死について再考してみたのだが、正直なところ別段特に驚きそうな気がしそうになかった。臨死体験――だと思うが――を経験した以上、その時の経験より上も下も無いだろうというのが私の答えだ。再びあの緩やかな存在消滅作業が始まるのならそういうものなのだと思うし、そうでは無いならその時だ。考えても分からない事を悩んでいても仕方が無い。詰まるところ死期が分かったところで人生に変化など起きない。とりあえずやってみたいことをできるだけやろうとするだけだ。人によっては犯罪に手を染める人間も居るかもしれないが、冷静に考えてみて犯罪に手を染めてそこから手に入るあまりにも惨めでくだらない見返りの事を考えれば、大局的に見れば犯罪行為など徒労に終わるだけだと分かる。もしかすると『これから死ぬと分かっているからこそできる!』と豪語する人間が現れそうだが、それは本当に憐れだと思う。

 大切なのは魂の充足だ。特殊な性癖や異常性格の人間を除き、犯罪とは概して後悔の種となるものばかりだ。これから死ぬ人間がそんなことをしたらきっと楽に死ねないだろう。故に私は穏やかに死ぬ事を選ぶと思う。普通に過ごして、目玉焼きでも食べながら、馴染みのある人に話しかけながら、最後にさようなら、ありがとうとでも言えたら最高だ。それ以上の死に様など、この世には無い。

 そんなことを考えていたら、時刻は八時五十五分。いつの間にか人も増えてきている。見慣れない私をちょくちょく見てくるものもいれば、忙しそうにパソコンを開いてごそごそと仕事の準備を始めるものも居る。私はそんな光景を伏せ目がちに眺めながらカバンの荷物を取り出して、時間つぶしに机の整理を始めたのだった。

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