第五話 楽器は語る
私達はスタジオへ入ると、受付を済ませて予約していた地下一階のBスタジオへ向かった。Bスタジオはドラムセット、ギター・ベースアンプ、キーボード、大型姿見がある八畳ほどの部屋で、巴とのセッションは毎回この部屋で行っていた。埃臭さがかすかに残る、この秘密基地のような空間が私は大好きだった。
当たり前だが、スタジオでの練習は家の中で一人で行うものとは雰囲気が全然違う。機材が良いという点もあるが、なによりなんだか身が引き締まる思いがするのだ。うまく言葉に言い表せないが、この何かのためにセットアップされた特殊な空間というものに、厚いシンパシーのようなものをいつも私は感じていた。故にいつもより集中でき、夢中になれるので巴との練習が無い休日は一人でスタジオに入ることもあった。メトロノームさえあれば幅広いリズムトレーニングができる。また、普段はボーカルを巴に委ねているが、歌いながら楽器を演奏することに憧れがあるのでベースボーカルの練習も出来る。自宅のマンションでボーカルの練習なんてできないが、スタジオはそれを叶えてくれる正におあつらえ向きの場所だった。
「前にも言ったけど楓は私たちと同い年でね。音楽をやっている歴が長いんだよ。えーと、ドラム叩いて十年だっけ?」
巴は愛用のテレキャスターでコードを鳴らしながら言った。硬くしまった和音が八畳ほどの防音部屋の中に響く。
「それぐらいだよ。中学生の頃からやっているから、それぐらいだね。それより白綱さんも同い年だったんだね。もっと年上の人かと思ってたよー」
あははと無邪気に笑いながら楓は料理人が炒め物をするようにハイハットを細かく叩く。チチチチチチチ。右足でバスドラを踏みながらもそのリズムは狂わない。
私は楓の言葉にほんのちょっぴり傷ついたが表情には出さず「よく年上に観られる。悪かったな老け顔で」とふてくされた。そして目を閉じたまま、4弦5フレットと3弦7フレットのハーモニクスポイント弾いてチューニングを確かめる。フレットレス独特の柔らかでどこか掴みどころの無いハーモニーが部屋を包み込んだ。
「ああ、ごめんなさい。そんなつもりじゃないから……」
「良いのよ楓。仁はその程度でぷっつんするようなキレる若者じゃないから。財布と懐は無駄に寛いのよ」
巴は備え付けの大型姿見でなにやらポーズを決めながら、咄嗟に弁明した楓を台無しにした。褒めているのか貶しているのか、巴の発言はいつも不可思議だ。よくもまぁあれで仕事が勤まるものだと私は感心した。
「で、今日は何をやるんだ?」
私は錆が見え始めたパイプ椅子に腰掛けると巴に尋ねた。姿見で色々な決めポーズを考えている巴の姿は滑稽ではあるが、元々美人でスタイルがいいのでそれなりに様になっているのが癪に障った。
巴は鏡に写った自分の姿を見ながら「じゃあEのブルースで」と言い、早速カウントを取り始めた。
「ワン、ツー、サン、シ……」
なぜスリー、フォーではないのか私は気になったが、演奏がスタートすればそんなことはどうでもよくなった。タッタタッタタッタタッタとオーソドックスなシャッフルのリズムが展開され、私もそれに合わせて少し跳ねるように弦を弾いていく。ブルースは展開が決まっているのでセッションがしやすく、初対面同士の演奏に良く用いられる。
私のベース・プレイはとかく全体の調和を大事にしており、圧倒的な手数と複雑なベースラインで場を盛り上げようとはあまり思わない。まだ下手くそだから極端な早弾きが出来ないという理由もあるが、そもそもベースという楽器の本質的な役割は曲をエンディングまで無事に運ぶことだ。私が憧れるベースプレーヤーもそういう風に弾くことが多いので、自然とアンサンブルに徹したシンプルなフレーズを弾くようになった。しかしソロを求められればもちろんその場の雰囲気で遊び、複雑にシンコペーションしたりやたらと休符を取ったりして周りの反応を楽しんだりしている。ジャズに傾倒していたことがあったせいか、他パートの反応を気にすることも多かった。だがやはり他パートが主導で弾いている時はメンバーの様子を見ながらただただ後ろで退屈にならない程度の緊張感を保ちつつ曲の土台作りに勤しむだけである。
「っんふっ!」
楓は四小節目最後のフィルインを入れる際に声を上げるのが癖のようだった。妙に艶やかに聞こえるその声色はしばしば私をどぎまぎさせた。だが当の楓はそんな私の複雑な心理状況など知ってか知らずか、ただただドラムを叩くことに夢中になっている。頬を上気させて軽やかにスティックを太鼓の上で躍らせる姿はまるで遊びに夢中になる少年のように見えた。
彼女のドラム・プレイは本人が説明したとおりスチュアート・コープランドのプレイとよく似ており、とてもアクロバティックで自由で、そして楽しそうだった。そしてメンバーの『次はこう弾きたい』という気持ちを悟るのが得意なようで、周りが小さく弾くときは小さく、逆もまた然りと、意外にも繊細で器用な面も持ち合わせていた。時折疾ってリズムが崩れるがそれは愛嬌のようなものか。怒涛の三十二分音符を叩いたかと思うと、四ビートの軽快に歩くようなリズムを叩いてみたり。彼女の幅広いリズムに合わせて巴と私は笑いながら指を走らせた。
巴はというと、複雑ではないがパリッとしたメリハリのあるフレーズを弾いた。さらに彼女はチョーキングが癖なのでウィンウィンとしょっちゅう音が唸る。それから妙に間隔のある、まるで餅を伸ばすようなビブラートをかけて、それを文字通り断ち切るようにカッティングで展開を変えることもよくやる。また、細かく震えるビブラートをかけながら連続して弾いてなにやら不安定なコード使いをしたり、幽霊が出てきそうな不気味な不協和音を鳴らしたりすることも多い。正に本人の人格を顕すかのように、捉え所の無いプレイだ。
そして巴は歌うときはギターを基本的に弾かず、弾いたとしても合間に一音、もしくはコードを鳴らすだけなのも特徴だ。本人曰く『弾いてたら歌えないじゃん』とのこと。弾きながら歌えるように努力するという考えは一切無いらしい。私はそれはそれで竹を割ったようなすっきりとした考え方で良いと思っている。下手に歌おうとしたりして演奏がおろそかになったり、『両方こなしているから大変』という風な態度をとられたりするよりかは百倍マシだからだ。
ちなみに、彼女が影響を受けた人間はかの有名なBB・KING、それからスティーヴィー・レイ・ヴォーンだという。彼女もまた、良い趣味をしていると私は常々思っていた。
彼女や楓のように我が道を行くタイプの中で安定したベースラインを弾き続ける事が私は好きだった。三人が一つになっているような協調性を感じられて心地よいのである。また、破天荒なプレイをする彼女らの中でシンプルに弾くベースというのは大変目立ち、そして安定感も強調される。正に私にぴったりの役柄だった。このバンドはきっと面白いものになる、いつの間にかそんな予感が私の中で芽生え始めていた。
◆ ◆ ◆
ひとしきり演奏した後、私はふと壁にかけてある白いアナログ時計を見た。古ぼけた時計の針は十八時五十分を指しているところ。私は無言でベースのボリュームを切ってシールドを抜いた。スタジオでは五分前までに部屋を出ることが鉄則。後のお客さんの邪魔をしてはならない。
遅刻をする巴でもその辺りのルールは弁えているようで、私に釣られて時計を見ると「時間無いから片付けよう」と率先して片付けを始めていた。
私たちは慣れた手つきでてきぱきと機材をしまうと、部屋出て階段を上がり一階の受付へ向かう。ちなみに一階はカフェも兼ねており、巴が遅刻してスタジオに来るまでのんびりと茶を嗜むこともあった。
料金を支払い、からんからんと玄関のベルを烈しく鳴らしながら私たちは慌しくネコを出た。外はすでにかなり暗く、街のネオンが妖しく輝き始めていた。
「どうする?ご飯でも食べに行く?」
言い出したのはもちろん自称バンドリーダーの巴。特に予定も無い私は無言で頷く。楓も相変わらずの可愛らしい笑顔で「うん」と返事をした。私達の返事に満足したのか、巴はからっとした笑顔を浮かべた。
「さて諸君。あたしは考えた。せっかくだから楓が我がバンドに正式に入団することを祝し、さらに友人の契りを交わすべく酒を酌み交わしたいとあたしは存ずる。いかがであろう、仁殿」
巴の色々と間違っている言葉遣いやいつの間にか楓がバンドに正式に加入していることには極力触れず、私は端的に答える。
「いいんじゃないのか。一飛さんが良いんなら」
楓はというとにこにこしながら「大丈夫です」と答えた。そして「それから」と私を見つめながら付け加える。
「白綱さん、私のことは呼び捨てで良いです。さん付けされるのは何だか苦手で」
「そう。なら俺のことも呼び捨てで良いよ。さん付けされるような人間じゃないしな」
「そうそう!仁のことなんか仁で良いんだよ。むしろジンジンとかどう?ガーラガーライソジンジん――」
「いい加減にしろ」
私はアホなことを喋り続ける巴を黙らせるべく、彼女の頭を軽くはたいた。おうふ、と、巴が低く呻く。
その低次元な漫才のようなやりとりに楓はうふふと上品に笑う。もしかして一番精神年齢が上なのは彼女なのかもしれない――そんなことを私は思った。
「それじゃあ皆の衆あたしに付いて参れ!飲み屋へ突撃するぞ!」
わはははーー!と謎の高笑いを挙げながらずんずんと歩く巴の後ろはとても付いて行き辛い。私と楓は顔を合わせると、二人してため息をついた。楓とは、本当に何かと気が合う。苦労人の気配を薄ら感じた瞬間だった。
私と楓は勝手に行動する駄々っ子を後ろから見つめる保護者のように、彼女から半歩下がったところを維持しながら巴の行く末を見守っているのだった。