第三話 愛が芽生えた日
次の日の朝。いつもの起床時間よりも三時間ほど遅れて私は布団からのそのそと這い出た。今日は休日。土曜日の朝だ。時刻は九時を少し回った頃。あくびをしながら短い廊下を歩いて冷蔵庫の前に立つと、中から牛乳を取り出した。丸裸の食器棚からコップ一つひょいっと掴むと、牛乳をどばどばと注いで、喉を鳴らしてそれを飲み干した。
ブゥ――ブブ、ブゥ――ブブ……。
折りたたみベッドの足に立て掛けてある仕事用のカバンから蝿の羽音に良く似た嫌な音が聞こえてきた。私は舌打ちをして、傍から見れば大げさなほど大きなため息をつくと、口元を引き結んだままベッドの傍へ行きカバンから携帯を取り出した。
携帯の液晶画面には職人の名が表示されている。私は着信ボタンを押して耳に携帯電話を押し当てた。
「お早うございます。白綱です。何かありました?」
『ああ。断熱とボードが貼ってない。大工もおらんし、今日は組めんぞ。現場に物も無さそうやし。どうする?』
「なら、今日はもう出戻るしかないですね。部材は置けそうですか?」
『ああ。広いから搬入くらいは出来るやろうな』
「分かりました。監督に確認しますので、待機していてください。また折り返します」
『ああ。分かった』
「失礼します」
一連の会話を終えると私は通話を切り、無意識に眉間に皺を寄せて現場の監督へ電話をした。
四度目のベルが鳴ったとき、「もしもし」というめんどくさそうな男の声が聞こえた。
「お世話になります。トーワエンジニアリングの白綱です。お世話になります。今お電話宜しいですか?」
『ええ、どうぞ』
「本日施工の岸山様邸のユニットバス工事なのですが、現場はボードや断熱が貼られておらず、施工できる状態になっていないようなのですが」
『うわーほんとに?まずいなぁ』
受話器の向こうの面倒そうな声に焦りが少し混じる。私は心の中で舌打ちをして、平坦な声色で会話を続ける。
「どうしましょうか。部材を倉庫に持ち帰ると場所代がかかるので、部材だけ現場に置いて出戻りましょうか」
『うーんそうやねぇ、そうしてくれる?』
「分かりました。でしたら今日は一先ず物だけ置いて帰らせるように職人に指示します。出戻り代が営業から上がってくると思いますので、すみませんが宜しくお願いします。再工事ができる日が決まりましたら、またお電話ください」
『あーはいはい。ごめんね。宜しくお願いします』
「はい。失礼致します」
ぶつ、と通話は向こうが乱暴に切った。私は声に出して再び舌打ちをした。携帯電話を壁に投げつけたい衝動に駆られたがそれを堪え、眉間に皺を寄せたまま先ほどの職人に電話をかける。三度目のベルで職人は繋がった。
『もしもし?』
「白綱です。部材だけ置いて出戻ることになりましたので、すみませんが今日は搬入した後は帰ってください」
『チェ。また出戻りかいや……。出戻り代忘れんなよ』
「分かってますよ。それじゃお願いします」
『はい。お疲れさん』
苛立っている職人との会話を終えた後、今度は現場担当の営業に電話をかけた。しかし繋がらず留守電にもならない。私は思わずため息を吐いた。
「どいつもこいつも……」
私はこめかみを痙攣させながら知らず呟く。そして乱暴に携帯電話をカバンにしまった。営業には休み明け電話をすることにした。
……土曜日は休みだ。だが現場は動いている。先ほどのようなことは毎週のように起こっていた。携帯電話の音が目覚まし代わりになることなどしょっちゅうである。運が悪い場合は複数の現場でトラブルが発生して面倒この上ないことにもなる。今回のようにすぐに収まる内容ならばいいが、改造現場で工期も無い上に全然工事ができないような致命的な場合は自分自身が現場に出向く必要すら出てくることもある。この『休みであって全然休めない』中途半端な土曜日は要らぬストレスが溜まる。休みだと割り切ることも出来ず、仕事だと割り切ることも出来ず。変に神経を使うので必要以上に疲れることが多い。この仕事が嫌いな理由の一つだった。
私は頭を切り替えるべくベランダに出て朝日を思い切り浴びた。八階からの街の眺めは良くも悪くも無い。遠くに見える山の稜線をぼんやり眺めつつ、今日は何をしようかと考えた。
洗濯、掃除、日用品の買出し、クリーニングの受け取り。考えるとやることは意外とあった。
私は部屋に戻ると朝食を作る段取りをしながら洗濯物を洗濯機にかけた。水を注いだヤカンに火をつけ、トーストを焼き、リンゴジャムを取り出す。私はリンゴが大好きだ。一日2個くらい食べることは平気である。
それから折りたたみベッドを畳み、布団をベランダに干すために抱えて足で窓を開けたそのとき、
ブ、ブ、ブゥー。ブ、ブ、ブゥー……。
ふと、個人用の携帯電話が震える音が聞こえた。
私は一先ず布団を下ろすと、携帯電話に手を掛ける。最近流行のタッチパネル式のものだ。画面には『巴』という文字が無機質なゴシック体で映し出されてされている。私は画面を叩いて受話器をとると「もしもし」と言った。
「やっほー!今日の夕方五時って空いてるー?」
私は思わず携帯電話を耳から離した。朝っぱらからうるさいことこの上ない。私は携帯電話を耳から少し離した状態でうるさいぞ、と言って巴を制する。
「ごめんごめん。で、空いてるの?」
「空いてるよ」
「じゃあいつも通りネコに来てよ。スペシャルゲストを迎えてるから」
ゲスト?と私がオウム返しすると巴はふっふっふと低い声で笑った。電話越しに不敵に笑っている様子が浮かぶ。
「実はドラムさんが今日は来たのだ!しかも同い年よ!どう!?」
「いや、どうと言われても」
「わははは!本当は嬉しいくせに!ドラム叩ける人が欲しいって言っていたくせにー!」
「それを言っていたのはお前だろう……」
一人でやけにテンションが上がっている巴はもはや制御不能だと私は判断し、じゃあ切るぞとだけ伝えて有無を言わさず通話を切った。
私は半年ほど前からロックバンドのようなものを組んでいた。出会いはインターネットの掲示板。初心者ですけどバンド組んでみたいですという私の記事に乗ってきたのが先ほどの紅巴というギター兼ボーカルの女。同い年で自分も初心者だという彼女はとても話しやすい人物である。地毛だという茶髪を腰まで伸ばし、切れ長の目が美しい女だ。しかし先ほどのように無意味に叫ぶ癖があるのが玉に瑕。そんな彼女でも平日はまじめにOLをしているのだから世の中分からない。
そんな巴がドラマーを連れてきたという。きっと嬉しくてハイになってしまい、私に電話をかけてきたのだろう。彼女ならやりそうなことだ。
巴に便乗するわけではないが、私自身ドラマーが入るということに関しては単純に嬉しかった。やはりリズムの要であるドラムが居ないとベースを弾く自分としてもつまらない。同じリズム隊としての絡みも練習できるのでとても良い環境になるだことだろう。
――ひゅおーう。
窓から爽やかな風が入ってきた。心地よい風だ。一足早く春の風が届いたかのような穏やかな風当たり。今日は何かいいことが在るんじゃないかと希望を持たせるような心地よさ。自然はいつも素直だ。素直に生きることは悪いことなのだろうか。
優しい風にほぐされて上機嫌になった私は、腕まくりをして行動開始した。面倒事は早めに始末するに限る。何事も一度後手に回ると立場を挽回させることは至難の業だ。
時は金なりと一人呟きながら、私はパソコンに入っているラテンの音楽を再生させた。私は流れるリズムに身を委ねる様に、家事をこなし始めるのだった。
◆ ◆ ◆ ◆
午後二時頃、余り物の冷凍ご飯で作ったオニギリとインスタントスープを平らげた私は今夜と明日用の晩御飯の買出しに向かうべく身支度をしていた。目的地は歩いて十分程度のスーパーマーケット。さして大きくも無く、かといって小さくもないどこにでもありそうなところだ。ただ、周囲はほとんど民家や時代遅れの店ばかりなのでこのスーパーマーケットという存在が妙に大きく、そして輝いて見えた。住民もこの店は大変重宝している様子でいつも客は多く、古ぼけた服を纏った人々が眩しいスーパーマーケットにぞろぞろと出入りする様子はさながら文明開化に誘われる頑固な猿たちのようだった。
準備を終えた私はマンションを出て午後の陽気に大あくびをしながら暢気に歩き始める。
買い物を終えたら午睡でも貪ろうか――と平凡なことを考えていると、ふと道の片隅で小さな子供の集団が視界の隅に入った。小学校高学年、いや中学年ほどだろうか。全員で何かを囲んでおり、なにやら小さく騒いでいる様子。
「やーいこいつ眼が光っとるで!」
「気持ち悪いー」
「おら、にゃあって鳴けや!」
「こいつしっぽふさふさだぁ」
「ちくしょう、この猫動かへん。死んどるんか?」
わいわいがやがやと騒ぎながら、どうやら子供達は猫と遊んでいるようだ。自分も昔はよく動物たちと遊んでいたなぁ等と思い耽りながら私は彼らの横を通る。そしてなんとなく横目でその様子を見たとき、知らず足を止めていた。彼らの中心にいる猫はあの灰色の猫だった。
「おもろ無いな!こいつ」
苛立った様子で一人の少年ががつ、と猫の腹を蹴った。灰色の猫はその衝撃に小さな身体を揺らすが、瞬き一つ無く動じない。通常の猫ならけたたましく鳴いて走って逃げるところだが、この灰色の猫はまるで何事も無いように無表情だった。
「ちぇ、動けよー」
薄ら笑いながら別の少年が灰色の猫の尻尾を無造作に引っ張る。引っ張られる力に逆らっていないのか、灰色の猫の後ろ足がワイヤーアクションのように宙に浮いた。
「アッハハっ!おもちゃみたいや!」
次第に彼らの行動はエスカレートしていく。相手が生き物であるという認識が薄れているのかもしれない。子供達の灰色の猫に対する無慈悲な扱いと狂気じみた笑顔は、真っ黒な純粋とでも例えるような恐ろしい姿だった。灰色の猫はその体毛の色も相まってさながら雑巾のように見えた。それでもまったく表情を変えない様子は死体を連想させ、彼らがおもちゃだ人形だと言ってしまう気持ちも少し分かる気がした。しかし相手は生きているのだ。その証拠に、なぜだか知らないが灰色の猫はずっとこちらを見つめており、翡翠のような両眼は私に付いて離れない。
――助けて。という風な視線ではない。ただただ、じっと見つめる視線。そこには何の感情も無い、まるでそうすることが義務だからとでも言いたげな視線だ。そんな灰色の猫が醸し出す無感情さにはかなりの不気味さを覚える。正直、関わらない方が良い。そんな直感が警鐘のようにわんわんと私の頭の中で烈しく音を鳴らしていた。
そう、このまま放って置いても私にはなんの関係も無い。少年達はただ無邪気に猫と戯れており、猫も彼らに合わせてピエロを演じているのだ――私は心の中でそう呟き、彼らに背を向け雑踏を歩いて行った。
「――なぁ、お前ら」
あの場で背を向けることは私にはできた。だがもし、もしかしたらだ。あの猫は私に助けを求めていたとしたら?
「え?何だよ兄ちゃん」
それを見過ごすことは果たしてどうなのだ?困っている存在を助けるのは人のみならず動物でもすることだ。見てみぬ振りは、人が身に付けた知恵の中でも一際醜悪で吐き気をもよおす行為だと私は思っている。されるのはまだ我慢できる。だが……するのは私にとって我慢がならない!
「人ん家の猫に、何やってんだ!」
開口一番、私は怒鳴った。なぜ自分がこれほどまでに怒るのかよく分からない。初めてこの灰色の猫と会った日から、顔馴染みの存在だと一方的に認識してしまい、灰色の猫がいたぶられる様子が知人をいたぶられるように見えたのかもしれない。しかしそれを差し置いても、この光景を黙って見過ごすほど私は歪んだ大人になったつもりは無い。
「うるせぃわ兄ちゃん!こいつほんとに兄ちゃんの猫なんか?」
先ほど猫の細い腹を蹴飛ばした少年が小悪魔のような笑みを浮かべながら言った。
私は不機嫌さ全開の顔で少年に眼を飛ばす。
「俺の猫じゃない。知り合いの猫だ。この辺をよく勝手に散歩してるんだよ。それからな、生き物をそんな風にするなよ。お前らも殴られたり蹴られたりしたら嫌だろうが。何なら俺が、お前らがその猫にやったことを今からお前らにやってやろうか」
言ってずい、と私は一歩前に出た。子供達は激怒した父親を恐れるような貌をして一歩後ずさると「確かに」「俺もぶたれるのは嫌や」等と口々に言い始めた。
「俺そろそろ帰るわ!」
「俺も!観たいテレビあんねん!」
わー、と蜘蛛の子を散らすように、彼らは何処へ去っていった。結局残されたのは灰色の猫と私。
ふと、足元の猫の方を見ると相変わらずこちらを見つめていた。私を見上げる緑色の両目は表情が読めず、何を言いたいのかさっぱり分からない。しかし心なしか以前と比べて光を反射させているように見えた。
私はため息を一つ吐き、しゃがみこんで灰色の猫の身体を優しく撫でた。傷は無さそうだ。灰色の猫はじっと私を見つめてくる。細くしなやかな身体から、唯一それが生きている証拠なのだと言うように体温が感じられた。自分と違う存在の体温。久しく触れることの無かったその優しい温度に、逆に私が助けられたような気がした。
「少しは嫌がる素振りを見せろ」
ぶっきらぼうに言い放って私は立ち上がると、そそくさと灰色の猫から離れた。周囲の人に目撃されたら噂になる。そんな面倒はごめんだ。私は一度も灰色の猫を振り返らず、スーパーマーケットへと足を進めた。